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左戸井が示したバーに三人が到着したのは、約束の時間の三分前だった。
取材先には十分前には到着しているよう、常日頃から千鶴に厳しく言われているのだが、
左戸井の字は読み取るのが難しく、この携帯端末にまでGPSが装備されている時代にあって
三人は迷ってしまったのだ。
ようやく見つけたバーは、大きめのビルの一階部分を丸ごと使っていた。
ドアの横にはかなり崩した書体で「松竹梅」と書いてある。
「この店だな」
「バーって初めて。ちょっと緊張するわ」
「俺も。制服で入っていいもんなのか?」
「客として入る訳じゃないから構わないだろう」
この辺り、支我は雑誌制作の古参という貫禄を見せつけ、躊躇せずに進んでいく。
龍介とさゆりも彼に遅れること一歩、店に入った。
二重の扉をくぐって店内に入ると、蝶ネクタイを締めた店員が慇懃に頭を下げる。
「いらっしゃいませ……と、申し訳ありませんが、当店は十八歳未満は御入店をお断りしておりまして」
店員は若いにもかかわらず、学生服を着た、あからさまにこの店にはそぐわない三人組にも、
きちんと対応した。
用心棒のような存在に叩きだされる可能性も考えていた龍介は、安堵しながら来店の目的を告げた。
「えっと……ツインエンジェルさんに会いに来たんですけど。左戸井って人の紹介で」
「……少々お待ちください」
軽く目を瞠った店員は、三人を残して店の奥へと向かった。
彼が戻ってくるまでの間、龍介は入り口で店内を見渡す。
チューニングショップに続いての未知の世界は、想像とは少し違う光景だった。
「もっと薄暗くて狭い店だと思ってたけど、案外明るいものなのね。
それにしても、煙草とお酒の臭いが凄いわ。大人は何が楽しくてこんな所に来るのかしら」
さゆりの言う通り、店内はカウンターに加えてテーブル席もあり、満席なら三十人ほどは入れそうだ。
白を基調としたソファ類は龍介が想像していたような大人のいやらしさはなく、
ちょっと高級なレストランのような感じだ。
琥珀色の照明はさすがに明るくはないが、店内を見通せる程度には明るく、
これも、龍介が抱くバーのイメージとは異なっていた。
「何がっかりした顔してるのよ。どうせ女の人がいないとかでしょうけど」
「違うっての!」
さゆりの発言は、この類の飲食店に全く興味がないため、
バーもスナックもキャバクラもほとんど同一で、名前の違いくらいしかないという
認識の下に行われている。
とはいえ龍介が女好きであるという偏見も混ざっており、それを敏感に察知した龍介は、
本気で腹を立てかけたため、彼の声は自身が思っていたよりも大きな音量で店内に響いた。
すぐさまさゆりが睨んだが、客達は気にした風もない。
龍介の声とほとんど同時に、店内放送が始まったからだ。
「皆さんお待たせ致しましたッ!! 当店のお楽しみタイムの始まりですッ!!
見たら地獄か天国か。美しくも恐ろしい、甘美なナイトメアッ!!
拍手でお迎えくださいッ、カヤマブラザーズッ!!」
ナレーションと共に照明が落ち、龍介のイメージしていた暗い店内になる。
しかしそれも束の間、照明はさらにピンクや紫の妖しい、さゆりのイメージしていた色合いになり、
さらに一転して真っ暗になった。
わずかな間を置いて、これもさゆりのイメージに近い、妖しいBGMが始まり、照明が復活する。
紫に満たされた店内を、白い円が駆けめぐり、店内の一点に収束すると、
そこには二人の男が立っていた。
「なッ、何ッ!?」
動転しているのか、さゆりの声がうわずっているが、龍介もやり込める余裕などない。
店内の明るさが集中している場所にいる男の異様ないでたちに、度肝を抜かれていたからだ。
浅黒い肌は全身筋肉の塊で、何か塗ってあるのだろうか、異様にテカテカ光っている。
その筋肉を誇示するために様々なポーズを取って見せる二人は、
何が起こっているか判らなくなるほど同一で、そして恐ろしいことに、
限界まで生地を減らした、肌の色に近いブーメランパンツを履いていて、
もしかして全裸ではないかと龍介を混乱させた。
そんな恐ろしいことがあっていいはずがないが、世の中にはどんなことだって起こりうる。
万が一見てしまったらギリシア神話のメデューサのように石にされてしまうと怯え、
絶対に見まいと目を閉じようとする直前、龍介は片方の男と目が合った。
やはり浅黒い顔に浮かぶ、丸い、かっと見開かれた目。
そしてその下方にある、やはりいやに真っ白な歯。
距離が遠いので見えるのはそれだけだったが、
ネットに出回るドッキリ系画像の大半より恐ろしい顔だった。
生首が飛んでくるのではないかと威圧されて動けなくなった龍介だが、
幸いなことに視線が相手の顔の位置で固定されたため、致命傷は受けずに済んだ。
男に睨まれて動けなくなったなどと、さゆりにさぞ笑われると覚悟したが、
彼女もそれどころではなかった。
龍介以上に衝撃を受けたさゆりは、無意識に龍介の制服を掴んだだけで、
肉体も思考も完全に固まっていたのだ。
ふと龍介は、支我はこの事態にどう対処しているのか、猛烈に気になった。
気取られないよう眼球だけを動かしてみたが、妖しい照明のせいで良く見えない。
こうなったら不自然でも確かめるべきだと身体をひねり、少しかがんでみたところで、
照明がもとの明るさに戻ってしまった。
「うわ……!」
色々なタイミングの悪さが重なって、龍介はバランスを崩して床に片膝をついてしまう。
「大丈夫か、東摩?」
支我にはいつもの落ちついた表情で心配され、
「何やってるのよ」
さゆりにまで呆れられて、全くいいところのない龍介だった。
呆然としている龍介達のところに、一人の女性が近づいてくる。
落ちついた配色だが一見して堅気ではないと判る服と、美しいがやはり派手な化粧は、
いかにもバーの女性という雰囲気だ。
三人を均等に眺めた女性は、龍介がどきりとするような妖艶な笑顔を浮かべた。
「左戸井さんの紹介っていうのはアナタ達?」
「あ、は、はい、僕達は夕隙社の――」
「フフフッ、解っているわ。たくさんサービスしてあげなきゃね」
店の音響にかき消されそうな小ささなのに、耳に的確に届く囁きは、
健全かつ未経験な男にとってまさに毒だった。
彼女がたとえば夕隙社の秘密を聞き出そうと迫ってきたなら、龍介は一も二もなく喋ってしまっただろう。
龍介にとって幸運、あるいは不運なことに、彼女はそれ以上龍介達に近づいてはこなかった。
店の奥で、何かが割れる大きな音が響きわたったのだ。
動じる色もなく微笑んだ彼女は、少し待っていてねと龍介達に微笑むと、あくまでも優雅に踵を返した。
「今の人が伝説の走り屋なのか?」
「左戸井さんは『ツインエンジェル』って言ってたわよね。一人だから違うでしょ……って、
何いやらしいこと考えてんのよあんたは!」
「考えてねえよ! 学校といい、俺を何だと思ってるんだ!」
神かけてこの時龍介はいやらしいことなど考えておらず、
むしろ、さゆりの発言によってツインエンジェルの何がいやらしいのか考えてしまった。
ツインでエンジェル的な、何かを。
健全な青少年を堕落の道に引きずりこんだ堕天使は、自分の成果を誇るでもなく、
堕ちた男を汚らわしいものを見る目で眺めた。
龍介にツインでエンジェル的なものを有していると目された女性は、
そんなことなどつゆ知らず、何者かに対して怒鳴り散らした。
「いい加減にしな、アンタたちッ!! 何枚皿を割れば気が済むんだいッ!!
そんなこっちゃ良い花嫁にはなれないってもんさ。そんな長いネイルをしてるからヘマするんだよッ。
ほらッ、さっさと落としてきなッ!!」
彼女の怒声はむしろ悪魔に近かったが、良く通る彼女の声は、
無言の抗争を続ける龍介とさゆりにしばしの休戦をもたらした。
「花嫁?」
「確かにそう言ったわよね、今」
店の中に客も含めて女性は彼女とさゆりだけだ。
そして、彼女がアンタたちと呼びかけたのは、さきほどステージでポーズを決めていた、
今すぐにでも記憶を消したい、ほぼ全裸だったマッチョ二人に対してだった。
今はどういうセンスなのか、緑と赤のシャツだけを着ている。
ムチのようにしなやかで鋭い彼女の叱咤に、店内は静まりかえったが、
それも束の間、足を滑らせた悪魔が罪人を煮る釜に自ら落ちたような悲鳴が、建物全体を震わせた。
「いィィィィやァァァァッ!!」
「松姉ッ、なァにすんのよッ!! これはネイルよッ、ネイルアートよッ!!」
「やかましいッ!! 家事もロクにできないくせに、生意気に色気づいてんじゃないよッ!!」
さゆりが思わず両耳を塞ぎ、龍介も眉をしかめ、支我でさえ目を細めずにいられない、
男声なのに女の喋り方というキツい組み合わせの絶叫に、
女声なのに男顔負けの声色という、こちらも恐ろしい組み合わせの怒号が店に飛び交う。
客商売としてはあるまじき状態、と思いきや、客達は慣れているのか、
冷やかしや茶々こそ入れないものの、平然と注文を頼み、
店員もまた平常運転であるとばかりにオーダーを受けていた。
一方で嵐の中心では、暴風はさらに激しさを増している。
「せっかく可愛くできたのよォッ、絶対、絶対、このネイルは落とさないわァッ!!」
「竹チャンッ、大丈夫だったッ!?」
「梅チャンッ、危なかったけど死守したわッ」
「嗚呼、良かったわッ、本当に良かったッ。梅チャンのネイルに何かあったら、
アタシ、死んじゃうとこだったわッ」
「死ぬなんて言っちゃダメよ、竹チャンッ」
「もしも梅チャンが死んじゃったら、悲しくて悲しくて……アタシだって死んじゃうわッ!!」
「死なないでェェッ、竹チャァァァンッ」
「死なないわァァァ、梅チャァァァンッ」
「生きるのッ」
「そうッ、生き続けるのッ」
漫才とダンスが融合したような、身体をくねらせながら間髪入れずに台詞をかけあう双子に、
キャラクターの濃さでは人後に落ちないと思われた夕隙社の三人も、なすすべもなく立ち尽くすだけだ。
龍介はかろうじて赤いシャツを着ている方が竹、緑のシャツが梅だと判別できたが、
判別できたからといってそれが何の役に立つのか解らず、支我は完全な無表情となり、
さゆりに至っては、龍介にトゲで覆われた言葉を投げつけるためにあると思われた、
紅色の口を間の抜けた大きさに開けたままにしている有様だった。
「客前で何を三文芝居打っていやがるのさ、ぶっとばすよッ!!」
こめかみに青筋を浮かせての女性の怒号は、当事者である双子よりも傍観者である龍介達を
震えあがらせ、三人はそれぞれの人となりに応じた身のすくめ方をした。
竹と梅と呼び合った二人のオカマは、彼らが松姉と呼んだ――実の姉なのか、
商売上の呼び名なのかは不明だ――女性に怒られたことなど歯牙にもかけず、
程度の差はあれもう帰りたいと思いはじめている三人の高校生を注視した。
「やんッ、誰、このイケメンッ!!」
「あんッ、何、このトキメキッ!!」
そういう反応をされるのは支我であるのが常なので、龍介は心の中で彼の魂よ安らかなれと祈った。
なんとなく彼らの視線が支我ではなく、自分に向いているような気がするのは、
きっと、いや絶対に気のせいだろうと思うことにした。
「ふう……自己紹介が遅れたわね、アタシは華山松。このバーの店長で、この二人の姉よ。
それで、どんなご用?」
さゆりは硬直し、支我も沈黙したままだったので、仕方なく龍介が来た理由を告げた。
「ツインエンジェルに会ってこいって言われて来たんですけど」
「「ツインエンジェルですってッ!!」」
二人が同時に叫ぶ。
野太いくせにキーの高い声は、一人分でも耳に快いとは言えないのに、
完全に二人同時に発生されるので音波攻撃のようですらある。
硬直する龍介に向かって、二つの音波発生源はそれぞれ名乗った。
「運転席(担当、華山竹でェ〜すッ」
「助手席(担当、華山梅でェ〜すッ」
「「よろしくねェ〜ん」」
身体をモジモジさせて愛想を振りまく二人と目は合わさないようにして、龍介は疑問を呈した。
「……二人が運転を?」
「あ〜ら、アタシ達三歳の頃からカート乗ってんのよ。
ライセンスだって国際B級をばっちり持ってるんだからッ」
「オカマになるより早くステアリング握ってるんだからッ」
「やだ竹チャン、握るだなんてッ」
握るの何が『やだ』なのかを龍介は考えないことにした。
どうもこの店に入ってから、思考能力が真夏のソフトクリーム並に溶けている気がするのも、
考えないことにした。
「あんたたちッ、他ならぬ左戸井さんの紹介だよ、きっちり相談に乗ってやんなッ」
「もちろんよッ松姉ッ、乗って乗って乗りまくっちゃうわッ」
「ずるいわ梅チャンッ、それならアタシは下になっちゃうッ」
もし龍介がこんな発言をしたなら、一週間は口を開きたくなくなるほど徹底的に
さゆりにやり込められるのは間違いない。
それが龍介ではない赤の他人であっても、丸一日くらいは自分の軽率さを反省させられるだろうが、
彼女のブレーカーは落ちてしまったのか、全く何の反応も示さなかった。
それが異常事態だと気づいたのは龍介で、再びメデューサに石にさせられたように
表情を貼りつかせたままのさゆりを、新鮮な驚きと共に横目で見る。
こうして黙っているならそれなりには可愛いのにと、細い顎の輪郭に気を取られていると、
赤いシャツの竹が突然訊ねた。
「それじゃあ最初に、アナタお名前は?」
「え、名前……ですか?」
「そうよッ、お名前よッ。信頼関係を得るにはお互いを知ることから始めるのよッ」
彼らの言うことは間違ってはいない。
間違っていないのに、なぜこんなに暗澹たる気分になるのだろうかと思いながら、龍介は名乗った。
「俺は東摩龍介。で、こっちが支……」
「きゃあァァッッ!! なんてカッコイイ名前かしらッ!!」
「龍に竹なんて相性バッチリじゃないッ!! アタシ鼻血でそう」
「あら竹チャン、臥龍梅って知らないのッ? 梅だって相性バッチリなのよッ!!」
「つまりアタシ達は運命だってことねッ!!」
「東摩龍介クンねッ、覚えたわッ」
「脳髄に叩きこんだわッ!!」
双子のオカマの狂乱は、龍介に口を挟む隙すら与えない。
もっとも与えられたところで、うかつに口を出せば身体ごと巻きこまれて粉砕されてしまいかねず、
龍介は途方に暮れるしかなかった。
「なあ、ずっとこのノリで行くのかな……支我? おい、支我?」
こういうときは冷静沈着な支我に任せるに限る。
そう思った龍介だったが、支我までも石化の呪いにかかってしまったようで、
さゆりのように口を開けてこそいないものの、虚ろな眼で硬直していた。
「あ、あァ、すまない。少し調子が悪いみたいなんだ。代わりに説明してくれないか、東摩」
支我に司令塔たる位置を放棄されてしまったので、仕方なく龍介は事情を語った。
「ふむふむ、左戸井のオジサマは黒いセダンの霊にやられちゃった、
それで東摩クンは仇を取りたいってワケねッ」
華山梅が簡潔にまとめ、竹が頷く。
どうやら理解力は普通にあるようで、安堵する龍介だったが、硬直から回復した支我は、
より重要な点を見逃さなかった。
「二人も霊が視えるのか?」
霊という言葉を当然のように受け入れている彼らも、龍介達と同じく霊が視えるのだろうか。
「うん、そうよ。たまに良いオトコの霊を視ると追いかけちゃうのよね」
「仲良くしたいだけなのに、なぜか霊の方が逃げちゃうのよね。疑問だわァ」
「疑問よねェ」
顔を見合わせる竹と梅に、ようやく回復したさゆりが突っこむ。
「霊の方が怖がってるだけでしょ」
「あら、失礼ね。アタシたちのどこが怖いっていうのよ。ねえ?」
四つの眼が同時に龍介を見る。
これは確かに怖いかもしれないと思いつつ、龍介は彼らの機嫌を損ねないために、
極めて曖昧に首を振った。
「今この瞬間、アタシたちとあなたはもう赤い糸で繋がったんだからッ!!」
「そうよ、ぶっとい赤い糸よ。もはや糸なんかじゃないわ、ロープよ!!」
「そのロープでぐるぐる巻きにしちゃうのッ!!」
「縦に横にきつく縛りあう関係よッ!!」
最大限都合良く解釈して狂喜する竹と梅から、
爆音轟くチューニングショップでも逃げたいとは思わなかったが、
今この瞬間龍介は何もかも捨てて逃げだしたくなった。
極めて強いその衝動に身を任せなかったのは、万が一扉を開けて外へ出る前に双子に掴まったら
死よりも恐ろしい運命が待っているのではないかと直感したからである。
おそらく防音のためと思われる重い二重扉が、地獄から囚人を逃さないための門扉ではないかと
疑ってしまうのだった。
「それで、どうだろう。霊の車を捕まえようにも俺たちは免許を持ってないから、
協力して欲しいんだが」
今度は龍介が硬直してしまったので、代わって支我が訊ねる。
「そうねェ……力を貸すのはいいけど、タダって訳にはねェ、梅チャン」
「そうよねェ、竹チャン」
「報酬なら夕隙社からちゃんと出る」
「あら、お金なんて要らないわ。アタシたちが欲しいのは」
完璧に揃って龍介を見た双子は、完璧に同じ口の動きで、完璧に同じ言葉を発音した。
「「愛ッ!!」」
これほど重い愛という言葉を三人は聞いたことがなかった。
特に二人の愛を一身に受ける龍介は、完全な無表情でまばたきさえ止めて固まった。
もしかしたら、心臓まで止まっていたかもしれない。
「愛なんて形がないじゃない。どうやって支払うのよ」
的確なさゆりの指摘も、双子の鼻息で一蹴されてしまう。
「これだからケツの青い小娘はダメね。具体的にはキッス!!」
「そう、キッス!!」
「愛する人の熱いキッスで、アタシたちは命を賭けるのよッ!!」
「いよッ、オカマッ!!」
勝手に盛りあがっていく竹と梅に、さすがのさゆりも圧倒されて声が出ない。
最後の砦を破壊された夕隙社三人組に対し、勢いが止まらない華山兄弟は、
さらに龍介の方に一歩踏みだして叫んだ。
「一瞬の幸せ(のために、アタシたちは全てを投げ出す覚悟があるッ!!」
「いよッ、オカマの鏡ッ!!」
それが決めポーズなのか、先ほどステージで見せたのと同じ、目を見開き、歯を剥きだし、
筋肉を誇示するポージングを決めて龍介に迫る。
「さァ、どうするッ!?」
生命の危険もあると言われつつ始めた霊退治のアルバイトもはや数ヶ月、
なんだかんだで上手く切り抜けてきた龍介だったが、これは間違いなく最大の危機だった。
「わかったわ」
ところが、検討に検討を重ね、熟考に熟考を要するはずの返答は、あっさりと口にされてしまった。
龍介は唖然として彼に死刑宣告を言い渡した裁判官を見るが、
ヘルメットのような頭をした深舟さゆりという名の裁判官は、
小学生に判決の正当性を言い聞かせるように重々しく言った。
「東摩君」
「な、なんだよ」
「私達は車を失ってどうしようもない状態だわ」
「ああ」
「もしも直らなければこれから先、霊退治の依頼を受けることもできなくなってしまうわ。
そうなったら私達は路頭に迷うことになってしまう」
「そう……かもしれないな」
「でも、万年経営危機の夕隙社は、車の修理費用だけでも大変なの。
だから依頼費用が節約できるのなら、それは夕隙社に大いに貢献することになるわ」
「……」
龍介は夕隙社の経営状態を把握していない。
バイトには充分な時給が支払われているので、当然会社も順調なのだと思っていたのだが、
さゆりはいつの間に会社の懐事情を知るところまで千鶴の信頼を得たのだろうか。
あるいは、彼女を次代の後継者にするべく鍛えはじめているのだろうか。
冷静に考えればわずか数ヶ月のバイトが次期社長候補として目をかけるなどあるはずがないのだが、
自身に降りかかった、ノストラダムスの予言に出てくる、空からくるという恐怖の大王(に
すっかり怯えていたので、鵜呑みにしてしまった。
「東摩君、あなたの貴い犠牲を私達は忘れないわ。ね、支我君」
「あ、ああ、うん、そうだな」
極めて消極的な支我の同意があるかないかのうちに、さゆりは華山兄弟に契約を了承する旨を伝えた。
「決まったわ。あんた達は霊の車を退治する。その報酬はここにいる東摩龍介のキス。ただし、頬に」
華山兄弟はさゆりを睨み、それから龍介へと視線――というには暑苦しい――を移した。
「東摩クンはそれでいいのかしら?」
「アナタの可愛いおクチから、はっきり返事を聞きたいわ」
黙認している支我を含めれば、キス賛成派は四人で、八割が賛成していることになる。
しかも華山兄弟の圧力は三人分くらいあるから、このプレッシャーをはねのけるのは容易ではなかった。
四方八方どこを見渡しても助けようとする眼はない。
額に滲んだ汗が頬を流れ、顎の先から滴ったとき、遂に龍介は屈してしまった。
「ほ、ほ、ほ……頬に……なら……」
とにかく契約は成立した。
龍介が羽化したてのセミよりか細い声で承諾をした途端、オカマ達は鼻息も荒くポージングを決めた。
「しッ、痺れたわ……キッスを即決できるなんて、アタシ、痺れてビリビリ来ちゃった……」
「惚れたわ……惚れもうしたッ!!」
「右に同じでゴザルッ!!」
彼らも興奮しているのか、口調がめちゃくちゃになっているが、
龍介達の誰もそんなことを指摘する余裕などない。
今さらながらに自分の交わしてしまった約束の重さに戦慄する龍介と、
冥福を祈るように眼鏡を外し、眉間を指で押さえた支我は、
自分たちに課せられた運命の苛烈さについて、想いを馳せずにはいられなかったのだ。
「報酬はキッスということで契約成立ねッ!!」
「今すぐキッスをしろとは言わないわ。成功報酬で構わないわよ」
「なぜなら、その方がモチベーションが高まるからッ。
キッスが待っていると思えば何だってできるのよッ!!」
「本当は今すぐしたいけどねッ!!」
龍介には威嚇にしか見えない、歯を剥きだしにしてウインクした竹と梅は、
あくまでも龍介に対して話を続けた。
「ところで、その霊の車なんだけど、ワンボックスにしかちょっかい出さないのは知ってるかしら?」
「ああ、聞きこみしたチューニングショップの客もそんなこと言ってたな。どうしてか知ってるか?」
「そこまでは知らないけど、確実に勝てる相手としか闘らないとかそんなんじゃな〜い?
霊のくせに玉無し野郎よね」
品のない華山兄弟に三人は揃って眉をしかめるが、二人は反省するそぶりも見せない。
指摘したところで無駄なのは判りきっているので、三人の誰もが諫めようとはしなかった。
「他に何か知ってることはあるか?」
「う〜ん、その車の持ち主はアイドルオタクだったらしいわね。追っかけとかやってたとか」
この情報は初耳だった。
「夕隙社(にも同じオタクがいるけど、同類かしら」
「あんたんとこのオタクなんて知らないわよッ。
とにかく、よくテレビ局で出待ちとかしてたらしいわよ」
さゆりの呟きを、華山竹は一刀両断にした。
彼にとってイイ男以外の生物は全て敵らしい。
ではイイ男は彼にとってどういう扱いになるのか……チラチラとさかんに龍介に眼差しを送る竹を見て、
世の中には想像してはいけないことがあるのだとさゆりは痛感した。
「ほら、お台場にテレビ局があるでしょ? だから湾岸線に良く出没す(るって」
さゆりの人生観に影響を与えたとも知らず、龍介の役に立とうとでもいうのか、
華山竹は彼の知る情報を龍介に全て教えた。
「そういうわけだから、用意してくれる車もワンボックスじゃないと駄目よ」
「え、車も持ってるんじゃないのか?」
「あいにくワンボックスは持ってないのよ。どうしてもっていうなら探すけど、
追加料金が必要になっちゃうわよ」
「アタシたちは全然それでもいいんだけどね」
右目と左目をそれぞれ閉じてウインクする兄弟には目もくれず、龍介は言った。
「支我、夕隙社(の車がどうなったのか大至急調べてくれ」
これほど真剣な龍介を見るのは初めてだ。
支我はただちにノートパソコンを開き、彼の依頼に応えた。
「かなりの修理が必要だが、完全に廃車というわけではないそうだ」
「でも、ただ直すだけじゃ駄目なのよね。おじさまの車はかなり改造(ってあったのに
負けちゃったんだから、もっとパワーアップしないと」
「パワーアップって……まさか梅チャン、アレを使うつもりなの!?」
「そうよ……竹チャンはどう思うの?」
「ええッ、アタシもアレしかないと思うわ」
「決まりねッ!!」
「決まりよッ!!」
双子であるだけに意思の疎通は完璧なのは結構だが、
毎回このやり取りを聞かされる方は辛いものがある。
まして悪魔に魂を渡す契約の方がマシかもしれないという、凄まじい契約を交わしたばかりの龍介には、
他人の言動に想いを馳せる余裕など、干からびた砂漠のオアシスほどもなかった。
「……良く解らないけど、とにかく頼んだよ」
「ちょっと待ってッ!!」
厭世的な投げやりさで、とにかく話はまとまったので帰ろうとする龍介を、
竹と梅はなお呼び止めた。
「アタシ達はこれからとっておきのアレを使ってあなた達の車を直すわけだけど」
「それには人手と、何より愛が必要なのよッ!」
「それってどういう……」
よせ、と龍介が止める前にさゆりが訊いてしまった。
そして竹と梅は間髪入れず、龍介の悪い予感を具現化した。
「つまり東摩クンッ、これから車が仕上がるまで、アタシ達につきっきりで居て欲しいのッ」
「車は大体一週間くらいで仕上がると思うわッ」
緑と赤が左右でチカチカと瞬く。
龍介にとっての地獄は、その二色で構成されているようだった。
「いい、東摩君。あなたの頑張りに私達の車がかかってるんだから、頼んだわよ」
「おい、ちょっと……」
さゆりを当てにしたわけではないが、双子のオカマと三人きりで一週間過ごすのは、
もしかしたらこの世でもっとも恐ろしいことかもしれないのだ。
さゆりが居てくれるのであれば、それなりの見返りは提供しても良いとさえ思ったのは、
龍介の危機感の深刻さを示すものだった。
しかし、もちろんさゆりは龍介を手伝おうなどと殊勝なことは言い出さなかった。
いつもの強気な、相手の多少の意志など貫通して消滅させるような眼光こそなかったものの、
それじゃ頼んだわよと死刑宣告に等しい一言を残して、さっさと踵を返してしまった。
残る支我に助けを求めるのは、色々な事情を考えると難しい。
龍介が何か言うのを待っているようにも見える彼だったが、龍介が何も言わないと見て取ると、
「それじゃな、東摩……頑張ってな」
龍介の手を固く握って去っていった。
握手の力強さはさゆりの五倍ほどは龍介を勇気づけるものだったが、
だからといって地獄が極楽になるわけでもなく、
蜘蛛の糸が垂れてこないかと心から願うしかないのだった。
こうして龍介は、貞操の危機に怯えつつ双子と一緒に車作りをすることになった。
念のため、できれば断固として阻止して欲しいという願いをこめて雇い主である伏頼千鶴に、
しばらくバイトを休まなくてはならないと事情を話したところ、龍介にとっては予想外なことに、
二つ返事で許可が下りてしまった。
大いに落胆して電話を切った龍介だが、千鶴にしてみれば、どちらにしても
車は修理しなければならないのだから、左戸井の知り合いということで安く修理代をあげられる
可能性がある手段を使わない手はないのだった。
仮に龍介が貞操の危機を訴えたとしても、情が絡めばさらに値切れると聞く耳を持たなかっただろう。
孤立無援となった龍介は、いっそ心臓よ今この場で止まれとシェークスピアの悲劇さながらの
悲嘆に暮れながら、ほんの数十分前までは想像もしていなかった過酷な運命に
身を投じることになったのだった。
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