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 龍介が夕隙社と暮綯學園から姿を消して、一週間後。
支我とさゆり、それに浅間萌市が、首都高速湾岸線の大井パーキングエリアにいた。
今日が華山兄弟に任された車のチューニングが完成する日なのだ。
 社用車がないためタクシーで来た三人は、なんとなく場違いな気分を拭えないでいた。
それも仕方のないことで、高速のパーキングエリアという場所は本来車を使う人のための場所だからだ。
車もなく、免許も持っていない三人は、あまり目立たないよう売店から離れた場所で
龍介達が来るのを待っていた。
「本当に今日間に合うのかしら?」
「遅れるのなら連絡があるはずだから、大丈夫だと思うが」
 支我の模範的な返事に小さく鼻を鳴らしたさゆりは、やや間を置いて再び話しかけた。
今度は先と違い、どこかすがるような感情の微粒子が含まれているようだった。
「……大丈夫よね」
 あえて支我の言葉を引き取り、主語や目的語を省いて訊ねたのは、この場にいない男への、
彼女なりの思いやりだったのかもしれない。
そして答える支我も、おそらく同様だった。
「大丈夫……だろう」
 多少不安が紛れたのか、さゆりはもう一人の同行者に話しかけた。
「で、あんたはどうしてついてきたのよ」
 仮にも同僚に対してあんまりな態度だが、境界科学とアイドルと電子工学をこよなく愛する
夕隙社きっての変人は、礼儀に関して無頓着だった。
「それはもちろん、霊が物質と一体化するという現象を確認するためです。
今回の件は付喪神とも違うようですし、大変興味ある事例です」
 新生夕隙社号の動きを追跡するためのモニターを設置しながら萌市が答える。
この回答もお気に召さなかったのか、さゆりは一瞥をくれただけで何も言わず、
龍介達が来るであろう方向を眺めやった。
「来ないわね」
「予定の時間にはまだ十五分ほどあるからな。車の流れが良かったから、早く着いてしまった」
 自分から話しかけておきながら応えないさゆりに、支我はわずかに苦笑を浮かべる。
龍介抜きでさゆりと話したことがほとんどなかったから気づかなかったが、
毎回彼女に律儀に応じている龍介を、少し尊敬する気になったのだ。
 龍介に応じられている、などとは露ほども思っていないさゆりは、
非の打ち所のない返事しかよこさない男二人に愛想を尽かしたのか、
以後は何も言わず、パーキングエリアの入り口方向の観察に専念している。
 彼女が探していたのは修理されるはずの車、つまり夕隙社の社用車だけだったので、
明らかに形状の異なる車が一台入ってきても、全く気づかなかった。
 ヘッドライトがにわかにさゆりの顔を照らす。
驚きつつ目を細める彼女の前に、一台のタクシーが停車した。
不審がる三人の前に、タクシーから悠然と下りてきたのは、
今回の件の発端ともいえる、左戸井法酔だった。
 彼の登場にはさすがに意表を突かれ、支我は思わず訊ねていた。
「左戸井さん! 病院にいたはずでは?」
「いやあ、ツインエンジェルが走るってのにベッドで寝てる場合じゃねえだろ?」
 左戸井の返答に、さゆりが呆れたように首を振る。
「そんな情熱があるなら、どうして普段から出さないのよ」
 龍介なら頭に血が上るような指摘も、左戸井は全く意に介さなかった。
「そりゃあお前、お前ら若いモンが頑張ってくれるからだよ」
 さゆりは言い返そうとするが、その前に左戸井が今着た方を見やった。
「おッ、来たな。……おいおい、なんか凄えことになってねえか?」
「音だけで解るの?」
「当たり前だろ? だがこいつは、まさか……」
 左戸井の呟きをかき消すように、新生夕隙社社用車は四人の前に停車した。
運転席と助手席のドアが同時に開き、華山兄弟が下りてくる。
「「オジサマ〜!」」
「久しぶりだな」
「聞いたわよ、かなり無理したらしいじゃない?」
「年甲斐もなくちょっとな。それよりお前ら、何やった? 別物になってるじゃねえか」
「ウフフッ、音だけで判っちゃうなんて、さすがオジサマッ」
「この子に積まれたエンジンは、ラリーで使われてた本物なの」
「おいおい、どっからそんなの引っ張ってきたんだよ」
「うふふッ、それはナ・イ・シ・ョ。でも凄いわよ、アタシ達が使っちゃいたいくらい激しいんだから」
「悪いな、とっておきだったんだろ?」
「まあねッ。でもオジサマのためですもの」
 華山兄弟の左戸井に対する態度も、左戸井の彼らへの接し方も、三人の想像を絶していた。
 すっかり毒気を抜かれたさゆりは、彼女には珍しく失調感を抱きながら、
もう一人この場にいるはずの人物を探した。
「ところで東摩君はどこへ行ったのかしら」
 だが、オカマは女を何だと思っているのか、完全に無視されたので、勝手に新社用車のドアを開ける。
「なんだ、いるじゃない」
 だが、どうも様子がおかしい。
ベンチシートの隅に、うずくまるように座っている龍介は、まるで生気というものが感じられなかった。
「ちょっと、どうしたのよ。そんなにこき使われたの?」
 さゆりの呼びかけに振り向きはしても、何も言おうとはしない。
声を荒げかけたさゆりは、ある可能性に思い至って声を潜めた。
「もしかして……あの二人に何かされたの?」
 おぞましい想像はなるべくしないよう、脳と声帯を意識して切り離して訊ねると、
初めて龍介が反応した。
「……何もされなかったんだ」
「あんた、まさか……」
 眉をひそめるさゆりの、いきなり腕が掴まれる。
反射的に振り払おうとするさゆりに、心底怯えた声で龍介が言った。
「何もされなかったんだよ! あいつら、『愉しみは我慢した分だけ大きくなる』とか、
『上と下の唇を二人で分け合いましょうか』とか恐ろしいこと言いながら、
育ててる北京ダックを愛おしむような目でずっと俺を見てたんだ。
なあ、この件が終わったら俺どうなっちまうのかな……そうだ、お前、俺を連れて逃げてくれないか?」
 全く男らしくない軟弱な物言いは、彼に対する評価を三割ほど下げかねないものだったが、
龍介が本気で言っているのは明らかで、さゆりは無下に突き放すことが出来なかった。
彼を生贄に捧げたという意識も、わずかながらある。
かといって彼の哀願を聞き届けるわけにもいかず、今にもすがりつかんばかりの龍介を、
どうなだめたものか困惑するしかない。
「命までは取られないんだから、覚悟を決めなさいよ」
 ちょっとキツすぎた、と言った直後に反省したのは、
彼女が失調からまだ回復していない証だったかもしれない。
龍介はほとんど泣きそうな顔をして、再びうずくまってしまったので、
さゆりは仕方なく彼を車内に残して支我達の所へ戻った。
「タービンはどうなってんだ?」
「よくぞ聞いてくれましたッ!! イイ男にはイイ男、イイエンジンにはイイタービン。
F1タービンを二つ、片バンクにひとつずつよ。3.3リッターツインターボ……どう、凄いでしょう?」
「おいおいマジかよ、どれだけ速くなったんだ俺の車はッ!」
「ブレーキもバッチリ強化してあるんだからッ。本当は軽量化ももっとやりたかったんだけど」
 車内の陰鬱なムードが別世界のように、左戸井と華山兄弟はさゆりには意味不明の会話を続けている。
精神的外傷を負ったと思われる龍介を置いて、子供のようにはしゃぐ男達にさゆりは腹が立ったが、
彼らの会話を止めるのも骨が折れると思われたので、放っておくことにして、
萌市と何やら機材の準備を始めている支我に話しかけた。
「ところで、これ依頼としてはどうなったの?」
「ああ、社長が道路公団から仕事を請け負ってきた。ですよね、左戸井さん」
 ようやく華山兄弟と車の性能について一通り語り終えた左戸井は、鷹揚に頷いた。
「ああ、他にあの霊に事故らされた車のデータを持って道路公団に営業に行ったら、
二つ返事で仕事が取れたってよ。料金所を突破する無人の車は噂になってたし、
他にも相当事故があったらしいからな、渡りに舟だったんだろうよ」
 さすがに経営を実質一人で支えているだけのことはあるというべきか、
伏頼千鶴は自社の社員が起こした事故から始まったアクシデントを、
見事に飯のタネに変えてみせたのだった。
「それじゃ、行ってくるわね」
 準備を終えた華山兄弟が車に乗りこむ。
手筈通りに事が進めば、夕隙社号は霊の車に勝利した後、ここに誘導することになっていた。
「くそッ、怪我なんぞしてなきゃあ、俺も乗りたかったぜ」
 およそ酒以外に関心を持っていないと思われた左戸井の、心底からの悔しがりように、
さゆりは目を瞠らずにいられなかった。
 仕事で左戸井の車に乗るとき、車には移動体としての関心しかなかった彼女は、
彼の運転は上手とも下手とも思っていなかった。
だがそれは大きな誤りで、同乗者に車に乗っていることを意識させない運転は、
実はかなり難しいのだ。
特に旧夕隙社号は左戸井がじゃじゃ馬と評するとおり、馬力はあるものの、
東京都内の道路を走るにはそのパワーを持てあまし気味だ。
にもかかわらず、さゆりを含む他の面々も、一度として前につんのめったり、
逆にのけぞったりしたことはないのだ。
残念ながら夕隙社には運転免許保持者が左戸井しかいないため、
彼の凄さは誰にも理解されなかったが、そのことを彼が嘆いているかどうかは定かではなかった。
 華山兄弟を乗せた車はパーキングエリアを出ていく。
エリア内では当然激しい加速はせず、これから霊の車とバトルを行うという雰囲気は感じさせない。
 なんとなくテールランプを見送っていたさゆりは、モニターを注視している男三人の、
後ろからモニターを覗こうとして、ある事実に気がついた。
「ねえ、東摩君は?」
 さゆりの発言で三人は辺りを見渡したが、龍介の姿はない。
慌てて支我が車に向かって呼びかけた。
「梅さん、その車に東摩が乗っていないか?」
 返事は数秒遅れて返ってきた。
「あらやだ、乗ってるわ。そんなにアタシ達と離れたくないのかしら」
 そんなはずはない、と支我は内心で思った。
「……乗っていても大丈夫なのか?」
「全然問題ないわッ。でもシートベルトはしっかりしないと、代わりにアタシがホールドしちゃうわよ。
四点式も目じゃないくらい、ガッチリとねッ!」
「ちょっと梅チャンッ、何抜け駆けさらしてんのよッ!! あッ、そーいうワケだから一旦切るわね」
 慌ててシートベルトをする音が聞こえ、何がそーいうワケか判らないまま電話は切れる。
 支我の隣でさゆりが、珍しく龍介を気遣った。
「大丈夫かしら、東摩君」
「……せめて祈ろう、東摩の無事を」
 走り出してしまった以上どうしようもなく、あらゆる意味での龍介の無事を祈るしかない支我だった。
 支我とさゆりは不運な男を忘れようとするかのように、萌市が設置したモニターに目をやった。
表示されているのはこの近辺の地図で、GPSシステムによって夕隙社号の位置と速度が
モニタリングできるのだ。
「現在夕隙社号、時速百三十キロに到達。まだ加速します」
「くうッ、凄え加速じゃねえかッ! 早く俺も運転してえぜ」
 ビールの一口目を開けたのと同じ左戸井の歓声に、またさゆりがうさんくさげな視線を向ける。
これまでの左戸井の運転で、彼が車好きであるような素振りは全く見受けられなかったからだ。
「ゴーストを探知することはできないんだよな、萌市」
「はい、探知機を搭載することはできますが、センサー類が発する電磁波が、
車の方に影響を与えてしまうおそれがありますから」
「俺たちはここで見守るしかないわけか……歯痒いな」
 渋面を作った支我が腕を組む。
モニターを食い入るように見つめる若者達に、左戸井がのんびりと話しかけた。
「なあに、ツインエンジェルがむざむざやられたりはしねェだろうし、
イザとなったら東摩も乗ってんだから、ゴーストカーの一台や二台、なんとかなるだろ」
「ずいぶん買ってるのね、あの二人を」
 さゆりの強い疑問形にも、左戸井は動じなかった。
「あたぼうよ。あいつらはいずれ世界をも目指せる器だからな」
 いつもの悠然というよりやる気がないだけの口調が、自信たっぷりに聞こえてしまうのは、
さゆりが彼らが目指す世界について詳しくなかったこともあるかもしれない。
彼らの運転技術はモニターに表示された丸でしかうかがうことができず、
車内で竹と梅、それと龍介がどのような状態にあるのか、把握もできなかったのだ。
「次の分岐を右よッ、竹チャンッ」
「了解よ、梅チャンッ」
 常識外の速度で快走する夕隙社号は、わずかなスキール音を立てて大きなコーナーを曲がっていく。
大きな叫び声とは裏腹に、竹のステアリング操作は落ちついており、
実のところ龍介もそれほど危険を感じてはいない。
改造に費やした一週間のうち五日ほど、彼らの運転に同乗した龍介が恐怖を覚えたのは
最初の一日だけで、あとは龍介がプレイするゲームよりも滑らかではないかという彼らの運転に
驚嘆と興奮をするばかりだった。
何より、運転中は竹も梅も龍介のことを忘れたかのように運転とナビに集中してくれるので、
このときだけは身の危険を忘れることができたのだった。
「ほほう……コーナーリング性能も相当に上げてきてるな」
 顎に手を当てて左戸井が呟く。
その声に普段の気怠げさはなく、鋭く戦力を分析する軍師さながらだ。
すっかり枯れたと思っていた中年男性の豹変に戸惑いつつ、さゆりが訊ねる。
「この画面を見ているだけでそんなこと判るの?」
「ッたりめーよ。萌市お手製のマップは車線まできっちり表示するようになってるし、
誤差数十センチまで自車位置を捕捉できるからな。
どういうライン取りでどういうコーナーリングをするか、一目瞭然てモンよ」
 断言する左戸井にさゆりは言い返せず、支我と萌市に助けを求めようとしたが、
彼らはモニターに夢中でさゆりを顧みようとはしなかったので、はなはだ不本意ながら沈黙し、
彼らに倣ってモニターを眺めることにした。
 深夜――午前一時を回った丑の刻であり、走る車も少なく、
その少ない車はどれもそれなりの速度で走っている。
夕隙社号は心理学的要素により、ともすれば集まろうとするそれらの車から、
この車は孤高の存在であると宣言するように離れて走行していた。
すでにパーキングエリアを出発して三十分ほどが経過している。
一度環状線に入り、一周してもう一度湾岸線に入った夕隙社号は、若干速度を落として巡航していた。
「出てこないわね」
「アタシ達に怖れをなしたのかしら」
 そうかもしれないと龍介は思った。
何しろ運転手と助手席に座っているのは屈強なオカマ――驚いたことに、彼らは龍介と同じ歳、
つまり高校三年生なのだった――が二人なのだ。
たとえ霊といえども彼らのマッチョな笑顔を見たら、すっ飛んで逃げるだろう。
「ねえブラザー、ブラザーは何か感じちゃったりしてる?
あッ、感じてるって言ってもアッチの方じゃないわよ」
「やだ、梅チャンったら」
 相変わらず勝手に進む会話に、龍介はこの一週間ですっかり慣らされていた。
「いや、何も感じない」
 短く答えた龍介の、視界で何かが輝いた。
光源はルームミラーで、二つの光が強く室内を照らす。
白い、目の眩む輝きはあっというまにミラー全体を覆い、龍介達を激しく挑発した。
「来たわよ……ッ……!」
 竹がステアリングを握りなおし、ギアを一段落とす。
後方の光が消えたかと思うと、夕隙社号の左側面にゴーストカーがついた。
夕隙社号は本格的な加速に入るが、ゴーストカーも追随してくる。
「梅チャンッ、ドライバーは見えるッ!?」
「ううんッ、見えないわ……ッ。間違いないわね、こいつが左戸井のオジサマをヤッた奴よッ!!」
 ゴーストカーの出現は支我達にも伝わり、四人は揃ってモニターの一点に視線を集中させた。
そこにはやはり、激しい加速を始めた夕隙社号の位置が表示されているだけだ。
「ああもうッ、もどかしいわね。相手の情報が全く見えないなんて」
「今後の課題ですね」
 冷静に萌市が応じた。
 今回のような霊が乗り移った車でなくても、車で霊を追跡するという事態は充分に起こりうる。
霊に関してはどのような状況であろうと対処できなければ、霊退治専門の会社は名乗れない。
ゆえに萌市の反応はまったく正しいのだが、正しいからといって上手くいくとは限らないのが
人間関係というものだ。
模範的な返答に大きな眼を細めるさゆりだったが、萌市がモニターから顔を上げようともしないので、
矛先をこの場にいない男に向けた。
「ちょっとッ、聞こえてるなら実況くらいしなさいよ!」
「んなこと言ったって……」
 スマートフォン越しに怒鳴りつけられた、龍介はぼやきつつさゆりの要請になんとか応えようとした。
「抜かれた……あ、抜き返した、ああ、また抜かれた」
 しかし、
「全然わかんないわよッ!!」
 さゆりに怒られた挙句、
「ちょっとブラザー、気が散るから黙っててちょうだいッ!!」
 竹にまで怒鳴られて、すっかり意気消沈してしまい、以後は観客に徹することにした。
 夕隙社号と霊の取り憑いた車は熾烈な競争を続ける。
充分な改造を施した夕隙社号だが、ゴーストカーも性能は劣らないらしく、容易には差がつかない。
ほとんど止まって見える一般車両を、存在さえ認識させる前に抜き去る夕隙社号を、
誘導式のミサイルのようにぴたりと張りつき、隙あらば事故らせようと挑発を繰り返す。
速度計の針はとうに振り切り、後付けされたデジタルメーターが冗談としか思えない数字を
表示し続ける中で、凄まじいバトルが繰り広げられていた。
「ねえ、ところでこれ、どうなったら終わるの? 高速道路にゴールなんてないじゃない」
 モニター上を高速で移動するだけの丸に焦れてさゆりが訊ねる。
「当事者には判るんだよ。お前の言う通り本来ここにゃ勝ちも負けもねえ――下りるか残るかだけさ。
だが、どれほど僅差であっても、闘りあった者同士にだけは自分が勝ったか負けたか、はっきり判るんだ」
「でも、相手は未練になるくらい走るのが好きな霊でしょ?
そんなの認めない負けず嫌いだったらどうするのよ」
 食い下がるさゆりに左戸井は肩をすくめるだけだった。
 あきらめる大人のふがいなさに憤慨したさゆりは、繋がっているスマートフォンに声を荒げた。
「いいッ、絶対勝ちなさいよッ、負けたら承知しないんだからッ!」
 そんなことを言われても、勝ちも負けも龍介の手の中にはないのだ。
あるのは前席にいる華山竹の手の中で、彼は相対速度差が百キロ近くある、
ほとんど障害物でしかない他車を避けながら、同時にほぼ同じ速度で走っているゴーストカーを
牽制している。
すでに龍介のことも頭にないようで、その点は龍介には嬉しいのだが、
霊に負けてしまわれても困るので、結局彼にできるのは固唾を呑んでこのバトルを見守るだけだった。
 夕隙社号がゴーストカーと遭遇してからすでに二十分以上が経過しているが、
どちらも全く譲る気配はない。
 あくびさえせずモニターを注視していた左戸井は、にわかにさゆりが手にしていた
スマートフォンを引ったくって叫んだ。
「気をつけろッ、その先の分岐で俺はやられたんだッ!!」
「聞いた、竹チャン!?」
「ええ、梅チャンッ。決着をつける時が来たようねッ」
 叫んだ竹は床までアクセルを踏みこんだ。
ゴーストカーはすぐに追随し、差はほとんど開かない。
支我達が見ているモニターでは、夕隙社号しか表示されていないが、
分岐に向かって移動が速くなっていくのは見て取れた。
「オーバースピードだッ、減速しろッ」
 支我の叫びを無視して夕隙社号は加速する。
そして、その隣ではゴーストカーも平行して加速していた。
急速に迫る分岐を無視するかのようだ。
 だが、限界点を見極めていた竹は、ほとんど点でしかないその瞬間を捉えると、
一気にブレーキを踏んだ。
凄まじいスキール音が鳴り、龍介の身体がシートベルトに食いこむ。
アンチロック・ブレーキ・システム――危険時にもステアリング操作ができるように開発された、
現代の自動車には必須といえる装置を、夕隙社号は装備していない。
そのため、このようなブレーキ勝負では、ABSを装備した車に勝つのは難しくなる。
並のドライバーならタイヤをロックさせてしまい、パニックに陥るだろう。
 華山竹は違った。
鍛えた肉体で繊細にブレーキをコントロールし、ロックする寸前の領域を使い続ける。
結果、電子制御を上回る減速を果たし、文字通り、車を手足のように操ることができるのだ。
 わずかに先んじて減速を開始したゴーストカーは、前回と同じく夕隙社号の車線変更を阻む。
だが、一週間前と異なり、夕隙社号のブレーキは強化されており、
そして、ドライバーの技術も上回っていた。
ゴーストカーは超高速域からのフルブレーキングでABSが作動し、
作動時特有のぎくしゃくした挙動で速度を落としていく。
 対する竹の操る夕隙社号は、激しく、そして滑らかに減速を完了させ、
ステアリング操作が可能になった時点で、車一台分ゴーストカーの後方にいた。
見つけた隙間を逃さず、竹がステアリングを切りこむ。
接触寸前まで近づいた夕隙社号は、そのままさらに左の分岐車線に飛びこんだ。
夕隙社号が居た場所を、半瞬遅れてゴーストカーが通過する。
減速を終えたゴーストカーが左の車線に移動し、加速を始めたとき、
夕隙社号はすでに分岐のコーナーを抜け、都心環状に合流しようとしていた。



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