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シャープペンシルが離陸する。
危うい動きで離陸した円筒状の物体は、
右に左に、重力を無視した動きを繰り返し、さらには回転をはじめた。
一回、二回、ほぼ正確に三百六十度ずつ回転し、その都度何分の一秒かだけ静止する。
シャープペンシルを回転させている右腕の持ち主である東摩龍介は、
このとき右腕と脳を完全に切り離しており、上手に回そうとするどころか、
ペンを回していることさえ意識していなかった。
彼の頭に今あるのは、三十四時間二十八分前から三十四時間二十七分前までの記憶だけだった。
およそ一分にも満たない記憶は、フルカラー・精密な音・芳醇な匂いまで揃った
フルスペックな動画として再生されており、その再生にかなりのパワーを食われている。
パソコンについては詳しくない龍介だが、もし、今支我正宗にハードウエアについて
講義を受けたら、両膝を打って完全に理解できたに違いなかった。
朝から何十回目かになる一分間の映像再生を終え、龍介はメランコリックなため息をつく。
教師に聞かれていたら授業態度に難ありと評価されてしまったかもしれなかったが、
幸いなことに教師は板書に集中していて、教室の後方に座っている一生徒の呼吸など
気にもかけていなかった。
ため息の間中断していたペン回しを再開しながら、
龍介は彼の心理に著しく影響を及ぼしている記憶について、思いを馳せる。
龍介は深舟さゆりに特別な感情を抱いていた。
だがそれは、不倶戴天とか水と油とか不協和音といった言葉で説明される類のものであり、
通常男と女がどちらかに対して抱く特別な感情とは全く異なるものだった。
左手で頬杖をついて顔を傾けている龍介の、右目の視界の端に黒い髪が映る。
真面目に授業を受けているのか、微動だにしない長髪を、龍介は見るともなく見ていた。
こうやって龍介が彼女を見ていられるのは、彼女が龍介を見ていないからだ。
龍介が彼女を苦手なのと同様、あるいはそれ以上に、彼女の方でも龍介を嫌っているはずであり、
まともに目を合わせれば、土砂降りの後の河川敷より汚い言葉の応酬が始まるのが必定だった。
ではなぜ、この世の終わりが来ても和解はできそうにない彼女が、
あのような蛮行に及んだのか、と考えると、龍介は不愉快な結論を導かざるをえない。
つまり、華山兄弟という、龍介にとっては最終戦争級の災厄に見舞われて
魂までも消耗した龍介に、勝ち誇った彼女が慈悲を差し伸べただけなのだというものだ。
実際、再生されている記憶のさらに前、三十五時間七分頃から前の記憶は、
辿ろうとすると頭に鈍い痛みが走って再生不可となっており、何か恐ろしいことがあったという、
黒曜石に彫られた警告が龍介の精神を崩壊一歩手前で止めているのだ。
そして一層不愉快になるのは、おそらくは彼女のとった行動は正しく、
精神の崩壊を回避できた龍介は、彼女に感謝しなければならないという点だった。
礼を言うのは構わない――不要な諍いを避けるために一歩下がるくらいのことは、
新世紀を生きる高校生でもわきまえている。
ただしそれも、相手側に同じだけの理性が期待できるならという話で、
礼を言って悪口が返ってくるのでは、やっていられないというものだった。
だが、それにしても――女は男を慰めるためにああいうことをするのは普通なのだろうか?
特定の恋人が居たことも、相談できるような仲の女の子も居たことがない龍介には答えが出せない疑問で、
その疑問こそが龍介に、昨日から通算で三百回以上も記憶を再生させた理由だった。
気がつけば授業は終わったらしく、あれほど静かだった教室が騒がしくなっている。
すでに帰り支度を済ませて立ちあがる生徒もいる中で、龍介は相変わらずペンを回し続けていた。
そこに、彼の数少ない知人がやってくる。
「よォ、東摩」
支我正宗は、まったく良くできた人物だった。
彼が声をかけた男が、反応すらせずうすらぼんやりとペンを回していても、
機嫌を損ねたりはせず、軽い咳払いで龍介が気づくのを待つ。
そして龍介がペンを落とし、拾おうとした拍子に机の角に頭をぶつけても、
さりげなく見なかったふりをしてくれて、人間とはかくあるべし、と龍介に強く思わせるのだ。
「支我」
「おつかれ。俺達は夕隙社に行くが、東摩はどうする? 今日はなにか予定があるのか?」
俺達、と支我が言ったように、彼の後ろには一人の女子高生が立っている。
彼女は同級生かつ同僚の深舟さゆりであり、
今日一日龍介に勉学を放棄させた原因を作った張本人だった。
「ああ、いや、予定はない。夕隙社に行くよ」
龍介は支我に応じつつ、さゆりの方に視線をやった。
大きな瞳は高性能な探知機のように、龍介を捉えるや否や戦闘態勢に入った。
「何よ」
さゆりの態度にも、表向き変化はないように見えた。
いつもと同じ挑発的というか、突っかかってくるような口調。
反発を覚えずにはいられないその口調が、今日はなんとなく嬉しかった。
もし、もしも万が一、さゆりが恥じらっているような態度を取ったら、
龍介の方こそ狼狽してしまっただろうから。
一方で、彼女にとってあの出来事はその程度のものでしかないのかという、理不尽な不満もある。
いっそ直接真意を訊いてしまえばいいのかもしれないと思いつつ、
さすがに女の子に向かってあのキスの意味はなんだったのかと問うのはためらわれ、
結局龍介も何も気にしていない風を装って彼女に接するしかなかった。
「別になんでもねえよ」
この時もしかしたら龍介は、無意識に彼女の口から機関銃のごとき攻性の発言が
あるのを期待したのかもしれない。
しかしさゆりは教室なので自重したのか、鋭く睨みつけただけだった。
「ならさっさと支度しなさいよ。タイムカード押すのが遅れたら、あんたのせいよ」
龍介たちがアルバイトをしている夕隙社は、同じくアルバイトをしている同級生と比べて
文字通りにケタが違うバイト代が出るが、それはあくまでも裏の業務である霊退治をこなす時の
話であり、表の業務である雑誌制作時には経験相応に低い額しか出ない。
しかも、夕隙社の社長である伏頼千鶴は、分単位で労働を査定するなどという企業主の鑑からは
ほど遠く、十七時のバイト開始時間から五分遅れると、十八時までの五十五分はタダ働きという、
その一点だけで敬遠されること間違いなしの労働条件を平然と採用していた。
霊退治の方で充分に稼がせてもらっているとはいえ、
タダ働きなどしたくないのは三人とも同様だ。
回していたペンを片付けた龍介は、今日は一ページたりとも目を通さなかった教科書を
雑に鞄にしまうと、最近では学校よりも滞在時間が長いかもしれないアルバイト先へ向かうのだった。
十七時、十分前。
龍介たちの目的地である夕隙社は、彼らの通う暮綯學園と同じ新宿区内にある。
オカルト関係の書物の出版を業務の柱としている出版社は、彼ら自身が取材対象となりそうな、
相当に古々しいビルにあった。
ビルの古さのせいか、それともそこに入る怪しい集団のせいか、
現在テナントとして入居しているのは夕隙社のみだ。
ビルの築年数と夕隙社がテナントとして入った年数は一致しないはずだが、
歩調を合わせたかのような机や椅子に、キレが悪く閉めてもいつまでも水滴が垂れる蛇口や、
そこかしこに悪霊に見えるシミがあって、清潔を好む若者たちには評判が良くない。
とはいえ、生命線というより生活の一部と化しているコンビニが近くにあるのはありがたいし、
なんだかんだで楽しいのも確かなので、今の所龍介たちはバイトを辞めようとは考えていなかった。
いつ止まってもおかしくない、閉所恐怖症の人間にはそれだけでトラップとなる、
作動音がやたら大きなエレベーターに三人は乗る。
このエレベーターは車椅子の支我と、龍介とさゆりが一度に乗れる大きさで、
これも夕隙社が移転を考えない理由のひとつらしかった。
最大の理由はもちろん、本業の出版部門が一向に儲からないせいだろう。
悪霊など一向に恐れぬ、夕隙社の社長である伏頼千鶴も、税務署だけは恐ろしいらしく、
絶対に目をつけられるわけにはいかないのだ、と龍介たちに力説するのだった。
本業が儲かっていないのに移転などしたら金の出所を追及される。
追及されれば裏の稼業も露見する。
そう言われると返す言葉もなく、龍介は高校生らしくバイトにのみ精を出すほかないのだった。
龍介にとっては歩いたほうが早そうなエレベーターが、三階に到着する。
開くのが遅すぎて龍介が何度も頭をぶつけたことのある扉が、
どうにか半分ほど開いたところで、待ちわびたように女性の叫び声が飛びこんできた。
「何よ、これはァァァッッ!!」
三人は顔を見合わせたが、引き返すわけにもいかず、支我を先頭に編集部に向かう。
五メートルほどしかない廊下を進んで扉を開けると、三人の予想通りの光景があった。
この部屋の支配者である伏頼千鶴が、まだ街を壊し足りない怪獣のように、
スタイルに合わせたスーツも台無しなポーズで叫んでいる。
彼女は入ってきた三人の高校生に気づいても、
年甲斐もなく暴れていたことを隠そうともせず、むしろ自分の怒りを龍介たちに
共有させようとするかのように荒い鼻息を噴きだした。
「どうしたんですか、編集長」
三人の中では一番古株で、千鶴とのつきあいも長い支我が、至って冷静に問いかける。
こういった時、年下が冷静だと年上も自らを省みて落ち着くものだが、
千鶴の怒りは収まらず、手にしていた、まだ火を点けていない煙草をへし折って
パソコンのモニターを指さした。
「どーしたもこーしたもないわよッ!! これ見てみなさいッ」
モニターを三人が同時に覗きこむ。
支我が前で、龍介とさゆりがその後ろで並んで見る形となり、
期せずしてさゆりと顔が近づいた龍介は、なんとなく顔を引いた。
モニターを見るのに真剣なさゆりは気づいていないようで、
余計な諍いにならずにすんだと安堵しつつ龍介もモニターに集中した。
モニターに映っていたのは、夕隙社のウェブページだった
零細ながらも出版社である夕隙社は、一応出版物の紹介や刊行予定を記したサイトを持っている。
しかしオカルトは紙媒体でこそ、という千鶴の方針により、
WEBページにオカルトな情報はさほど載っておらず、龍介やさゆりもSNSで積極的に
情報発信をしてはいないので、閲覧者数はかなり寂しいものとなっていた。
だが、夕隙社にはもう一つ、こちらが本命と言うべきページがあって、
今表示されているのはそちらの方だった。
「夕隙社の裏サイトですか? これが何か?」
夕隙社の裏サイト――除霊相談掲示板。
幽霊その他の減少に悩まされている人間は、ここに書きこむことで
夕隙社のもう一つの事業である、幽霊退治を行う幽撃隊と
コンタクトを取ることができるのだ。
依頼料は安くなく、しかも前払いであるので、なかなかハードルは高いと
龍介などははじめ思ったのだが、意外にも除霊の依頼はかなり多く、
おかげで龍介は生活には困っていない。
依頼に関しては千鶴に任せているので、龍介がこのページを見るのは
アルバイトを始めた直後以来二度目だった。
「どこかおかしいところがあるのか?」
「あんたの頭よりおかしなところはないわよね」
誰ともなく訊ねた龍介に、質問を予測していたような速さでさゆりから返答が返ってくる。
放課後の教室ではほんのちょっぴり期待したものだが、
いざ聞いてみるとやはり腹立たしいだけだった。
なぜこの女は人の質問に普通に返すということができないのだろう。
彼女の情操というものについて、龍介は深刻な不安を抱いたが、
さゆりは余計な心配をする同僚になど一顧だに与えず画面を中止していた。
軽く眉間にしわを寄せてはいても、龍介に対するときよりはずっと優しいように見える顔を、
龍介は複雑な心境で見ていた。
千鶴は腕を組んで彼女の部下たちが真相に辿りつくのを待っていたが、
十秒ほどで我慢の限界に達したらしく、彼女の苛立ちを共有できない龍介たちに声を荒げた。
「これが何かじゃないでしょッ!! よく見てみなさいッ」
千鶴の剣幕から逃れるように、三人は再びモニターに顔を寄せる。
さっきよりもさらにさゆりの顔が近づいて、左目の視界の半分ほどを彼女の黒髪が占める。
何十時間かぶりの近さに、龍介はずいぶん落ちつかない気持ちになったが、
さゆりは意に介していないようだった。
やはりあれは彼女の気の迷いか、疲労と悪夢のピークで見た幻だったのだろう。
そう思うことにした龍介は、不意によろけた。
さゆりがさらに身を乗りだした拍子に、肩が触れたのだ。
実際にはごく軽く触れただけだったのが、龍介が動いたタイミングと重なって、大きくよろめく。
当然さゆりの気づくところとなって、彼女は不審げに龍介を見やった。
「何してるのよ」
「ああ、いや……」
さゆりが意図的に押したのなら反発しただろうが、そうでないのは明らかだったので、
龍介はあいまいに応じる。
その態度が優柔不断に見えたのか、眉の端を二度ほど下げたさゆりは、
鼻を鳴らすとモニターの方に向き直ってしまった。
それが常の反応なのか判断がつかないまま、龍介も彼女に倣ってモニターを眺めた。
後ろで友人が微妙な葛藤をしているとは露にも思わない支我が、
眼鏡の中央を押し上げて言った。
「ふむ。そろそろ、この掲示板もリニューアルしたほうがいいですかね?」
まるで見当はずれの意見に、ついに千鶴が爆発した。
「違ァァァァうッ!! 依頼をよく見てみなさい」
「依頼ですか? 一件も書き込まれていないようですね」
「そう、一件も書き込まれていないのよ」
ようやく三人も事態を呑みこみ始める。
支我が画面をスクロールさせたが、確かに依頼は一件もなかった。
掲示板の賑わいぐあいは知らない龍介ではあるが、連日除霊に赴いているのだから、
依頼はそれなりにあるはずだ。
ただ、依頼が集中するときもあれば閑散とするときもあるはずで、
これだけでは異常事態、少なくとも千鶴が烈火のごとく怒る要因とまではいえない。
龍介が千鶴を見ると、彼女は心得顔で支我に命じた。
「お客様の声を読んでみなさい」
すぐに支我が操作をする。
表示されたお客様の声を、さゆりが読みあげた。
「『依頼掲示板に書いたところ、すぐに来てくれたのは良かったんですが、
家を半壊させられて最悪です。これじゃ悪霊が出ていた方がマシでした』」
「え……?」
思わず声を上げた龍介を無視して、さゆりは次の感想を読んだ。
「『悪霊に効くからと、酒を家中に撒かれて、絨毯がびしょびしょになりました。
家中、酒臭くてたまりません。クリーニング代を請求させていただきます』」
さらにその下の感想も、一気に読む。
「『後方支援だというメガネの高校生の鬼畜っぷりにビックリです。
まさかあんなことをするなんて、もうお嫁にいけません。責任をとってください。
結納はいつにしますか?』」
「……」
思わず龍介は支我を見たが、彼の後ろ姿からはどんな感情も読み取ることができず、
モニターに反射して映る表情も不鮮明で窺えなかった。
沈黙する龍介たちに、煙草を一服した千鶴が天井に煙を吐いて続ける。
「私達はこれらの依頼を受けていない。これがどういうことかわかるかしら?」
「誰かが依頼を横取りしたってことですか? でもどうやって?」
龍介もさゆりもスマートフォンは使っていても、ソフトウェアに関しては全くの素人だ。
アンチウイルスソフトだのファイアウォールだのと言われても、
目に見えないそれらは幽霊よりもよほど理解不能だった。
「何者かがうちのサイトの掲示板に侵入して、勝手に依頼を受けているってことよ」
「ハッキングってやつですか? でも、このサイトだって対策はしてあるんですよね?」
龍介は以前、支我から夕隙社のインターネット関係はほとんど全て、
彼が管理していると聞いたことがあった。
パソコンに関しては文章を入力するのがやっとの龍介はいたく関心したものだったが、
「完璧なセキュリティはないってことね。人が作り出した以上、人が破ることができる」
千鶴が重々しく述べたのが真理であるらしかった。
さきほどから沈黙している支我に、龍介は声をかけづらい。
まだ支我とはつきあいが浅い龍介ではあるが、彼は行動に論理性を求めるというか、
やや硬いところがあると感じている。
他人に強要するような悪癖ではないのだが、
彼自身のこととなると完璧を求めているように見受けられるのだ。
その彼が構築したセキュリティを突破されたというのは、
彼のプライドを傷つけたであろうことは容易に想像できた。
「ちょっと、支我君落ちこんでるんじゃないの?」
同性である龍介に励ませという無言の催促をさゆりがする。
異性であるさゆりこそ励ましたほうが良いのではないかと思う龍介の耳に、指を鳴らす音が聞こえた。
自分ではなく、さゆりと千鶴でもなく、それなのに誰が鳴らしたのか判らなかったのは、
彼がそういうことをすると思っていなかったからだ。
格闘家のように両手の指を鳴らした支我が、低い声で告げる。
「すぐに侵入の痕跡を調べます。……俺に喧嘩を売ったことを後悔させてやる」
龍介が知る限り、初めて明確に怒りを露わにした支我は、
龍介の三倍以上の速さでキーボードを打ち始めた。
周りのことなど眼中にない集中ぶりに、龍介とさゆりは音を立てずにその場を離れるのだった。
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