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 金曜日の午後五時。
世間的には週末と呼ばれる時間帯であり、会社員は一週間の仕事の疲れをつかの間忘れる、華やかな時間だ。
ことに世間でも有数の歓楽街として知られる、東京都新宿区にある歌舞伎町界隈は、
店を物色するスーツ姿のサラリーマンと、彼らを呼びこもうと必死で声を張りあげる店員達とで
飽和状態になっており、通りがかるだけで呑みこまれてしまいそうなほどだった。
 そこから徒歩で十五分ほど離れた、同じ新宿区の一画。
歓楽街でもなく、住宅街でもない、それらの中間といったとある通りの片隅は、
同じ街かと思えないほど静まり返っていた。
 築四十年は確実に経っている、古強者のビル。
その二階にある夕隙社という名前の、出版業界の片隅に細々と生息している会社が入っているフロアは、
ことに、キーボードの音しかしていなかった。
 現在フロアにいるのは東摩龍介、深舟さゆりに、
最近夕隙社のスタッフとなった白峰勇槻を加えた三人だ。
彼らはそれぞれに割り振られた仕事をこなしていたが、責任者である伏頼千鶴と、
彼女と並んで唯一成人男性である左戸井法酔、
さらには他のアルバイト達のお目付け役ともいえる支我正宗がいないので、
モチベーションが高いとはいえない。
おまけに外は絶望的な未来ディストピアを思わせる灰色の雨に染まっていて、
龍介などはもう文章作成ソフトを隅に追いやり、新たなネタ探しという名目で、
インターネット上の怪しいサイトを巡回していた。
「ちょっと」
 左からの囁きを龍介は無視する。
 電車に乗っていてふと気づいたら、見知らぬ駅に降り立っていたという都市伝説を読み耽っているのだ。
そんなことがありえるはずがない、と思ってはいても、
夜の電車というものにこれまで縁がなかった龍介は、イメージ図として添付されている、
人里離れた無人駅の画像などを見ると、もしかしたらと二パーセントくらいは期待してしまうのだ。
一度取材に行ってみたいところだが、確実な行き方というものがなく、
気がついたら行っていた、では龍介が見る限りでもインパクトが弱く、
おそらく千鶴の許可は下りないだろう。
「ねえってば」
 再度の呼びかけにも龍介は応じない。
 今度は沖縄にある巨大な、人が登るのは困難な岩の中腹に、
人の手によると思われる構造物があるというネタに惹かれているのだ。
 夕隙社でアルバイトを始めるまで、龍介はUMAやら宇宙人やらといった、
オカルト的なジャンルに特に興味はなかったのだが、それは知らなかっただけだということが判った。
本気で信じるわけではないにせよ、娯楽の一つとしては結構面白い。
それに、幽霊が実在するのだから、これらの荒唐無稽な話の中にも、
ひとつくらいは本物があってもいいのではないかと思うのだ。
「ちょっとッ、聞こえてるんでしょッ!」
 指向性の甲高い声に、諦めて龍介は声の方を向いた。
「なんだよ、今仕事中だろ」
「仕事中って、あんた手が動いてなかったじゃない。どうせいやらしいサイトでも見てたんでしょ」
「見てねェよッ!!」
 あらぬ疑いを――半分は当たっていたが――かけられた龍介は、
無実を証明しようと半身をずらしてパソコンのモニターを見せたが、
声の主は容疑をかけておいて全く興味を示さなかった。
「そんなことより、編集長が何時頃戻ってくるか知ってる?」
 男子の面子に関わる濡れ衣をそんなこと扱いされたせいか、答える龍介の声は常より棘があった。
「知らねえよ、九時ぐらいまでは帰ってこないんじゃねえか?」
 その手の質問は支我に聞いたほうがよほど当てになるだろうに、という疑問は、
形になることを許されなかった。
龍介の当てずっぽうの答えを見透かしたかのように唇をダウジングロッド――
直角に曲げられた鉄の棒で、水脈を探す時に使われる――のように曲げた深舟さゆりは、
座っている龍介を斜め六十度から見下ろして言ったものだった。
「冷蔵庫に入れといたチョコレートがないんだけど」
「食ったらそりゃなくなるだろ」
 何を当たり前のことを、と鼻で笑う龍介を、さゆりはその鼻をもぎとるような眼光で睨みつけた。
「やっぱりあんたが食べたのね」
「はァッ!? 食ってねえよ」
「今食べたって白状したじゃない」
「それは一般論を言っただけだってのッ!」
 淫奔に加えて暴食の大罪まで問われた龍介は、怒りに震えて潔白を証明した。
「俺は冷蔵庫に食い物を入れてねえんだから、近づいてもいねえよ。
左戸井さん辺りが食ったんだろ」
「あの人甘いものは食べないもの。酒呑みだから」
 押し黙る龍介にさゆりはたたみかける。
「支我君は絶対にそんなことはしないし、オタクも変なものばっかり食べてるから違うわ」
 オタク呼ばわりに加えて変なものを食べていると散々な言われような萌市だが、
確かに彼はいつも怪しいエナジードリンクだの栄養食だのを食べていた。
彼に言わせれば食事に費やす費用と手間はアイドルに注がれるべきものであるということで、
龍介には理解しがたいものではあった。
 チョコレートに関しては本当に勝手に食べたりはしていないのだが、
もはや犯人と決めてかかっているさゆりを納得させるだけの論拠もなく、
容疑者を一人ずつ消去されて龍介は窮地に立たされていた。
 他に編集部に居る人間は――室内を見渡した龍介は、新たな容疑者を発見した。
「白峰じゃないのか? まだ来て日が浅いから、ここのルールとかも知らないだろうし」
「……」
 つい最近加入した白峰勇槻の存在はさゆりも忘れていたらしく、
龍介の指摘に虚を突かれた表情をし、次いでそんな表情をさせられたのが
悔しくてたまらないというようにそっぽを向いた。
「あいつに聞いてみろよ、きっと食べたって認めるぜ」
「寝てるじゃない」
「起こせばいいだろ」
 ここぞとばかりにかさにかかる龍介に、さゆりはつまらなさそうに応じた。
「あんた、起こしてきなさいよ」
「なんで俺が。お前の問題だろ」
「疑われてるのはあんたなんだから、潔白を晴らすために自分で動くべきでしょ」
「疑ってるのはお前だろッ!!」
 自分勝手極まりないさゆりはともかく、千鶴が戻ってきた時に寝ているのは良くない。
さっきは適当に彼女は九時頃戻ると言った龍介も、実際なところは知らないので、
白峰のためにも彼を起こしたほうが良いと考えた。
「あー……白峰?」
 呼びかけてみるが返事はない。
熟睡しているのだろうかと彼の机に近づいてみる。
 端正な彼の顔は寝ていてもやはり端正であり、特に乱れた前髪などは耽美的な趣さえ感じさせる。
同性愛的な嗜好はない龍介ではあったが、起こすべきではないのではという考えが一瞬の半分ほど
頭をよぎった。
「何やってるのよ」
 自分で起こしてこいと言っておいて痺れを切らしたさゆりがやってくる。
説明した所でややこしいことにしかならない感情を語るのは諦めて、
さゆりの罵倒を受け入れた龍介は、白峰の肩を軽く揺すった。
「う……うぅ……」
 返ってきたのはうめき声で、微妙に顔もしかめている。
起こすべきか否か、龍介はさゆりに意見を求めたが、
彼女は口は出しても手を出すつもりはないようで、
何度も手を出されている龍介としては面白くないが、それも口にはしないで再度肩を揺すった。
「う……ッ、ラミ……?」
 ぼんやりと呟いた白峰は、視界に龍介の姿を認めると、彼に似つかわしくない素早さで跳ね起きた。
「……何ということだ。このボクが居眠りだとッ!? 何という失態ッ!!
ボクは恋人の前でさえ、寝顔を晒したことなどないのにッ!!」
「ま、まあ、うっかり眠っちまうことは誰にでもあるんじゃないかな」
 寝ているところを起こされただけで随分な反応だと若干引いた龍介だが、
さゆりも居ることに気づいた白峰はさらに興奮した。
「さゆりクン。……ボクの寝顔を見たかい?」
「……えッ!? ええ、まあ……」
 じっくり見たわけではもちろんないが、見ていないというのも嘘になる。
答えづらい質問を、お茶をストローでかき混ぜるようにさゆりが答えると、
白峰は振りすぎたシャンパンのように憤慨した。
Quelle honte何という恥さらし!! 女性に無防備な寝顔を見せるなんて、不覚にも程があるッ!」
「大げさすぎるんじゃない?」
 呆れてさゆりは首を振るが、白峰はさゆりと比べてもそう劣るものではない白い頬を、
濃いめの紅茶色に染めて持論を開陳した。
「大げさなどではないッ! 男性として生まれたからには、
女性を護る盾とならなければ……女性を差し置いて眠りにつくなんて、許されるはずがないッ!!」
 昨今では女性蔑視とも取られかねない、行き過ぎた感のある男女論にも、二人とも口を挟めない。
 こういう時にこそ人の器の大きさが計られる、かどうかは定かではないが、
龍介とさゆりはお互いにお前何か言え、と目配せしあう。
そもそもさゆりのチョコレートについて訊くために彼を起こしたのだということも、
白峰の剣幕にすっかり忘れていた。
「あー……うなされてたみたいだけど、悪い夢でも見ていたのか?」
 とにかく彼の剣幕を和らげようと、龍介は話題を逸らす。
 当の白峰は話題を逸らされたことを気にするでもなく、落ちかかる前髪をかきあげて応じた。
「フッ、このボクに悩みなどあると思うのかい?
ああ、あるとすれば、愛しい人の気持ちがわからないという悩みだけさ。
フランスの作家、アルフレド・ド・ミュッセはこんなことを言っている。
『人生とは深き眠りであり、愛とは夢を見ることだ。もし誰かを愛したのなら、
人は生きたことになるのだ』と。愛が深ければ深いほど、人は夢を見ずにはいられないのさ」
 どうやらいつもの白峰に戻ったようだ。
龍介が内心で安堵していると、さゆりが肩をすくめた。
「屁理屈もここまで来れば立派よね。
東摩君は誰かを愛してもないのに夢ばっかり見てるけど」
 唐突に飛んできた火の粉に慌てふためくような醜態を龍介は晒さなかった。
「いつか誰かを愛する時のために、俺は夢を見続けるのさ」
 さゆりの顎がゆっくりと上がり、そして下がる。
それはミサイルの最終角度調整にも似た動作だったが、発射口は開かず、
無論龍介を木っ端微塵にするであろうミサイルも、彼女の口から紡ぎ出されることはなかった。
 勝った、と龍介は思ったが、中央を頂点に急角度に曲がった口の形からすると、
言い返すのも馬鹿らしいと思われたのかもしれない。
続いて踵を返し、無言で自分の机に戻ったところをみると、
予感は当たらずといえども遠からずといったところらしく、龍介の昂揚は長くは続かなかった。
 小休憩も終わり、龍介が再び記事の作成を始めようとすると、白峰がやってきた。
「カフェインを補給する必要があるみたいだ。ラミよ、付き合ってくれないか?」
 仕事から休憩には瞬時に切り替わるのに、休憩から仕事へは重いサイト内をページ移動する時の
ように切り替わらない龍介は、彼の申し出を受けて立ちあがった。
 傘がぎりぎり必要な程度に、外は雨が降っていた。
自動販売機まで、走っていけない距離ではないが、白峰が傘をさしたので龍介もならって傘を開いた。
龍介は普通の黒色の傘であるのに対して、白峰はスーツと同様、傘まで白い。
統一感もあまりやりすぎると滑稽ではないかと思いはしても、
靴のつま先までひとつの汚れもない白峰の拘りを目の当たりにすると、圧倒されてしまいもする龍介だった。
 白峰はミネラルウォーターを、龍介は紅茶を、それぞれ買う。
編集部内で飲むか迷っているうちに白峰がキャップを開けたので、龍介も倣ってここで飲むことにした。
「雨のせいか、少し寒くなってきたね」
「そうだな」
 動こうとしない白峰に、何か話したいことがあるのではという龍介の予感は当たった。
彼は灰色の空から落ちてくる、霧のような雨を眺めて言った。
「キミは霊という存在をどう思う?」
「どう、って」
 質問の意図がわからずに訊ね返す龍介に、白峰は視線をやや上方に傾けて呟いた。
「……ボクは時々分からなくなるんだ。霊という存在は善なのか、それとも悪なのか。
霊にも家族や恋人がいたはずだろう? 『亡くなった人ともう一度会いたい』――
家族や恋人のそんな願いが、霊を生んだんじゃないか?
それなら霊は残された人々にとって、生きる希望なのかもしれない。
そんな霊たちを斃すことに、ためらいを覚えることはないかい?」
 龍介は即答しなかった。
 龍介の霊への対応は、まず会話が通じそうなら試し、
霊が現世に留まっている原因である未練について訊き、晴らせそうなら晴らして成仏させる。
無理なら倒して強制的に除霊するというシンプルな原則に基づいていて、
ためらいを覚えたことはなかった。
依頼主にもその旨はあらかじめ伝え、抗議を受けたことはない。
それに夕隙社は基本的に霊の退治を専門に行う会社だから、
白峰の言うような依頼はそもそも取り扱わないのだ。
 龍介の返答を待っていないかのように白峰は続ける。
「ボクはたまに思うんだ。霊と共に生きる方法はないのか、とね。
霊と共存できれば、ボクたちはもっと霊について知ることができると思うんだ」
「共存……か……」
 死んでしまった人ともう一度会いたいとは思わない。
そう思うのは酷薄なのだろうか。
だが、悪霊を退治し、未練を晴らした霊が成仏するのを目の当たりにすると、
霊とはそもそもイレギュラーな存在ではないかという気もするのだ。
 未練を残さずに死ねば、霊にならずに消滅――その後にどうなるかは、判らないとしても――
できるのだから、生きている間に悔いを残さないようにするのが大切なのではないか。
少なくとも龍介は、先日戦った悪霊の集合体レギオンのように、
自我を失くし、生者への執着と現世への恨みだけと化した存在などに成り果てたくはなかった。
あれがどのように発生したか知るすべもないが、人間の世界にも柄の悪い輩がたむろする界隈があるように、
霊の世界にも悪霊が溜まりやすい場所というのがあって、他の霊を惹きよせるのかもしれない。
そんな場所に運悪く惹きよせられ、悪霊として生者に害をなすなど絶対に嫌だし、
そこに知り合いがいるなどというのも辛い話だった。
 白峰の疑問に龍介が答えられないでいると、白峰も口を閉じ、両者の間には雨音だけが横たわる。
この時期にしては冷たい雨は、龍介の心までも冷やしていった。
 雨に縫いつけられた二人を剥がしたのは、向こうから歩いてきた男の、馴染みのある声だった。
「……ッたく、今日はいいことなしだぜ」
 気迫や意思といったものがまるで感じられないぼやきが、なぜか今日は温かみを感じさせる。
龍介だけでなく白峰も同様に思ったのか、揃って視線を冴えない中年男性に投じた。
「おっ、なんだ、珍しい組み合わせじゃねえか」
 若者二人の指向性のある眼差しにも動じる様子もなく、男は白衣のポケットから手を出してぞんざいに振る。
彼は二人と同じ職場で働く、左戸井法酔だった。
「ちょっと休憩してたんです。左戸井さんは?」
 龍介が問うと、左戸井は相好を崩した。
「俺はいつものパチンコよ。久々にでかい当たりを引いたと思ったら、
最終的には全部呑まれちまった。ありゃ良く出来た機械だよな、まったく」
 でかい当たりを引いた時点で止めれば良かったのではないか。
真っ当なことを龍介は考えたが、これはギャンブルをしたことがないから考えられたのだろう。
勝てばもっと勝とうと、負ければ負けを取り返そうという心理は、
古今東西を問わずに人を破滅させる強烈な誘惑なのだ。
 疑問顔の龍介に、いつもの薄ら笑いを浮かべた左戸井は、
よれよれの白衣のポケットからチョコレートを取りだし、二人にそれぞれ渡した。
「ほれ、今日の戦利品だ、やるよ」
「ありがとうございます」
「ヘヘッ、お前は礼儀正しいな、いつも」
 物をもらったら礼を言うのは当たり前の世界で生きてきた龍介には、
なぜこの程度で褒められるのかわからない。
左戸井はよほど殺伐とした世間を渡り歩いてきたのかと思うが、
彼の夕隙社以前については、何一つ知らなかった。
「……さてと、編集部に顔を出してくるかな。できればこのまま帰りたいところだがな」
 左戸井が労働意欲を見せないのは、パチンコに負けたからでも、雨が降っているからでもなく、
二十四時間三百六十五日のことだ。
とはいえ現状、夕隙社に車の運転ができる人材は左戸井以外にはなく、
霊退治の依頼が入った時に、彼がいなければどうにもならない。
経費節減と売上増加を金科玉条としている伏頼千鶴が、
なぜ無駄飯喰らいの筆頭である左戸井を放逐しないで雇っているのか、
さゆりなどは事あるたびに問題提起しているが、これも万事を明快をもって旨とする千鶴が、
左戸井の件に限っては極めてあいまいに口を濁すばかりで、
龍介達の労働の成果の何パーセントかが銀の玉に変わり、
さらにはチョコレートとなって戻ってくる現状はしばらく変わりそうになかった。
もっとも、さゆりと違って龍介はそれほど左戸井を嫌ってはいないのだが。
 いかにも面倒臭そうにあくびをして、それでも夕隙社の方に左戸井が足を向ける。
その背中に、白峰が声をかけた。
「左戸井サン、訊きたいことがあるんです」
「何だよかしこまって。タメになることなんか俺は何も知らねえぞ」
「左戸井サンも以前は除霊師ゴーストハンターだったんですよね?」
 そこまでは一応、龍介も聞いたことがある話だった。
支我が夕隙社に入る前、まだ夕隙社という形でさえなかった頃、
千鶴と左戸井は二人で組んで霊退治をしていたというのだ。
 打ち上げの際に千鶴がぽろりと漏らした二人の過去を、さゆりはかなり知りたがったが、
その剣幕が逆に警戒させたのか、千鶴はそれきり口を閉ざし、以後は一言たりとも喋らなかった。
「……まあ、一応な。今はただの老兵ロートルだけどよ」
「左戸井サンにとって、霊は善でしょうか、それとも悪でしょうか?」
 白峰の質問に、左戸井は整えてもいない髪を強くかき回した。
「……ったく、若者わけえのはすぐ真面目に考えるからいけねえ。
善とか悪とか、物事が全部どっちかに分けられるとでも思ってんのか?
世の中にゃ、すっぱり割り切れる事のほうが少ねえんだよ。
酒は悪か? ギャンブルは悪か? そういう奴もいるかも知れねえ。
だが俺にとっちゃ、少なくとも悪じゃねえ。霊だって同じよ」
 左戸井の、ある意味では狡猾な解答は、白峰を満足させなかった。
「霊が悪でないとするなら、彼らを倒しているボクたちは何なんですか!?」
 雨を貫くような白峰の舌鋒にも、左戸井は動じなかった。
 普段であれば鈍い、とさゆり辺りに一刀両断されそうな態度が、
今は年月を経て川底に収まった石のような頼もしさに見えるのは、
雨のせいでは多分ないだろうと龍介は考えた。
 こっそり龍介に高評価された左戸井は、さっそくその評価を覆そうとするかのように、
せわしなく身体のあちこちをまさぐる。
それが煙草を探している仕種だと気づいたのは龍介だったが、未成年で当然煙草を持っていないので、
左戸井の意を汲むことはできなかった。
 一通りポケットを調べてお目当てのものがないことを悟った左戸井は、
あからさまな落胆をしつつ、それでも返事を放棄はしなかった。
「勘違いすんなよ。俺たちゃ別に正義の味方じゃねえ。
依頼を受けて霊を倒しているだけの除霊師だ。善とか悪とか難しいことを考える必要はねえよ」
 それは左戸井にも、そして千鶴にも何度となく言われていることだから、
今更龍介は表立って反応はしなかった。
白峰の方は、彼の思いの丈をここぞとばかりにぶつけることにしたようだった。
「残された人々がもう一度会いたいと願ったからこそ霊は生まれたはずです。
彼らにとって、霊は希望ではないんですか!?
もしそうなら、霊を倒すということは、残された人々の思いを踏みにじる行為です。
ボクたちに、その権利があるんでしょうか」
「女のケツばっかり追いかけてる優男かと思いきや、芯の通ったところもあるんだな」
 左戸井は唇を曲げ、嫌味であると言外に伝えたが、ポケットに両手を突っこんでさらに続けた。
「亡くなった人ともう一度会いたい――霊を生み出すのは、そんな願いかもしれねえ。
しかし、だ。霊は霊であって、亡くなった人そのものとは違う存在なんだよ。
時が経つにつれ、霊は人であった頃の温もりを失い、人としての感情を忘れ、
やがて人ではなくなっていくんだ。死後肉体が腐るように、魂も腐っていくんだよ。
例えば錬金術における三原質、霊魂アニマ精神スピリトゥス肉体コルプスでいうとだ、霊であるアニマは人間の本能のようなものであり、これは成長しないとされる。
その逆に精神は成長することができるって考えりゃ解りやすい。
生きている時、人間は肉体という器に精神と霊魂とを宿し、
それらは肉体の健全な活動によって保たれる。人として生きるってことだが、人は成長するだろ?
ところが、ひとたび肉体が死ぬと、霊魂と精神はバラバラに放り出される。
大抵の場合精神はそのまま消滅し、霊魂だけはいくらかこの世に留まることができるわけだが、
それは成長することがないばかりか、精神を失っているがために、生前のようにはいられない。
かくして、死んだ者は衰えていくしかないというわけだ。
霊は生前と比べて低俗になったり、野蛮で恐ろしい存在に成り果てたりする。
それも結局、霊が成長から切り離され、ただ衰えていくばかりの、本能的な存在だからだ。
つまり、うっかり霊を生前と同じだと思っちまうといくつもの落とし穴が待ってるって塩梅だ」
 これほど質と量を伴った言葉を左戸井の口から聞くのは龍介も初めてで、白峰ともども圧倒されていた。
左戸井の霊に対する解釈は、ただ霊を倒す存在としてのみ見ていたら到底なしうるものではなく、
龍介は、今さらながらに左戸井が運転手としてだけのために夕隙社に居るわけではないのだと知った。
 もっと話を聞きたい、と思う龍介の、スマートフォンが無常にも鳴る。
連絡は支我からで、居留守を使うわけにはいかなかった。
「……うん、夕隙社前の自販機にいる。白峰と左戸井さんも一緒……わかった、すぐに行く」
 通話を終えた龍介は、二人に告げる。
「渋谷区の雑居ビルに霊が出現したそうです。支我もすぐに夕隙社に来るって」
「ちッ、柄にもなく真面目な話するとこれだ。しょうがねェ、戻ろうぜ」
 特大のあくびを一つして夕隙社に戻る左戸井に、龍介と白峰も続くのだった。



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