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一時間後、龍介達は渋谷にいた。
「こんな街中でも幽霊は出るのね」
濡れる窓ガラス越しに渋谷の街並みを見ながらさゆりが呟く。
「街中だから、ともいえるな。人がいればその分、霊も出る可能性が増す」
至極真っ当な支我の意見が、さゆりは面白くなかったようだ。
足と腕を組み、唇を軽く尖らせてさらに言った。
「その割に、街中ではあまり霊が出たって聞かないわよね。この間は大変だったけど」
さゆりが指すこの間というのは、偽の夕隙社を騙った連中が喚んだ、悪霊の群れだ。
二十三区内の各所に発生した霊は一般人の中にも多数目撃例が生じ、
警察や消防は対応に大わらわだったそうだ。
夕隙社は間隙を縫って依頼を受けまくり、相当稼いだが、お世辞にもよい記憶とはいえず、
二度とあのような事件が起こらないよう、千鶴は龍介たちに厳命したものだった。
「そうだな……諸説あるが、霊は騒がしいところには出現しないとされている。
降霊会なんかだと、少し咳をしただけで霊が来なかったというケースもあるそうだから、
夜もうるさい新宿や渋谷辺りでは、目撃例も自ずと少なくなるだろう」
支我の説明は説得力に満ちていて、龍介は深く頷いたものだが、
さゆりは何が面白くないのか、龍介を強く睨みつけた。
「な、なんだよ」
「あんた、本当に支我君の説明理解してるの?」
「してるよ、失礼だな」
憤慨する龍介を、さゆりは軽く無視する。
彼女が顔をそむけた拍子に漂ってきた香りに惑わされつつ、
態度の悪い同僚に何か言ってやろうと龍介が考えていると、助手席の白峰が身じろぎした。
「このビルは……」
白峰の、怯えるようなつぶやきに気づいたのは龍介だけのようで、
何か知っているのか問おうとしたが、支我が状況説明を始めたので機を逸してしまった。
「依頼主はこのビルのオーナーだ。このビルでは以前から警備員が重傷を負ったり、
従業員が窓から転落したりと不審な事故が相次いでいたそうだ。
被害者は『不審な人物に追いかけられた』などと証言したそうだが、
オーナーは信じなかったらしい。ところが、先ほどオーナーがビル内を巡回していたところ、
不審な人物に襲われたそうだ」
「それで慌てて夕隙社に連絡してきた、と。
自分の目でみるまでは信じられなかったんでしょうね」
「オーナーが見たのは女性の霊だったということだが、それも含めて今日は調査だ」
説明を聞いた感じでは攻撃的な霊のようで、いきなり襲われる可能性も考えられる。
盛り塩や札などの防御手段も用意しておく必要があると考えた龍介達は、
機材の設置と準備のために打ち合わせを始めようとした。
「キミ達は、ここで待っていてくれたまえ」
ところが、白峰が剣を構えたかと思うと、スーツが濡れてしまうのも厭わず、
突如として飛びだし、ビルに突入していった。
「おッ、おい白峰ッ!!」
虚を突かれた龍介達は、半ば呆然と彼が姿を消すのを見送るしかない。
「どうしたのかしら、急に」
「何にせよ危険だ。追いかけて連れ戻してくれ」
「わかった」
龍介は単身白峰を追いかけてビルに入った。
十階建てのビルは、飲食店中心で展開しているようで、それらしき看板がそこかしこにかかっている。
大半はまだ営業時間外なのか、それとも霊の噂が広まっているのか閉まっているが、
営業している店もあって、手当たり次第に入っていくというわけにはいかなかった。
マイクを口元にやった龍介は、地図とメンバーの位置情報を把握している支我に訊ねた。
「白峰はどの辺にいる?」
「東摩から見て左斜め前方にある店に反応がある」
「入り口は……ああ、ここか」
その店は一階の約半分を占める大きな洋食店で、押して開ける、両開きのウェスタン風な扉が入り口だった。
扉を開けると大きな軋み音がする。
扉自体はそれほど古くないから、わざわざこういう音を出すようにしてあるのだろう。
もしかしたら音は別に用意してあって、センサーで鳴らすようにしているかもしれない。
いずれにしても幽霊屋敷のような音は、静まり返った中で響くとお世辞にも気持ちが良いとはいえず、
龍介はさっさと白峰を探すことにした。
「白峰?」
店内は薄暗く、見通しが悪いが、白峰は真っ白なスーツを着ているから、見れば気づくのは簡単だろう。
ざっと見渡した限り、白峰の姿はない。
万が一倒れている可能性を考えて、下方も見てみるが、どこにも見当たらなかった。
右手には厨房があって、左手には龍介よりも背の高い樹木が壁を作っている。
樹木はどうやら喫煙席と禁煙席を隔てる役目があるらしい、と気づいた龍介は、
そちらから調べてみることにした。
その時だった。
「……どうしてなんだ?」
「……貴方のせいよ」
男女の話し声が樹木の向こうから聞こえる。
龍介は足音を殺し、樹木の陰から覗いた。
そこには白い影が二つあった。
ひとつは白峰で、もうひとつは少女の形をしていた。
ほんの一瞬ではあるが、龍介は二人とも人間だと錯覚した。
それほど少女の姿はくっきりと人の形をしていた。
だが、白峰の視線は上を向いていて、一方、少女の足元は朧に消えている。
もしもあの少女が人間だとしたら、足の長さは一メートル五十センチ以上ある計算で、常識ではありえない。
あの少女が依頼を受けた、倒すべき霊なのだろうか。
白峰は彼女を、少なくとも知っているのは間違いないようだ。
事態が呑みこめず、龍介はとっさに声をかけて良いものかどうか、判断に迷った。
「……ボクの?」
「全て、貴方のせい」
「……どうしてなんだ? どうして……」
白峰からさゆりに対する時の図々しいまでの自信は失せ、尻尾を丸めた子犬のように怯えている。
ただ事ではない、と龍介が踏み出そうとすると、少女の霊が動いた。
「白峰ッ!!」
体当たりしてきた霊を、白峰は避けようともせずにまともに受けた。
たちまち白峰は膝から崩れ落ち、床に倒れる。
うかつさを呪いながら龍介は対霊用の剣を腰のベルトから抜いたが、すでに霊は消えていた。
「どうした、東摩。何が起こった」
「白峰が霊にやられたッ! 一度撤退する」
支我に状況を伝えつつ、白峰の状態を確かめる。
息はあるようだが、呼びかけに全く反応しない。
霊の方もあの消え方ではすぐには再出現しないだろう。
ここは撤退するしかなさそうで、龍介は白峰を担いで店を出た。
表に出るとさゆりが駆け寄ってくる。
「白峰君!」
「今社長に連絡して、病院を手配してもらった。すまないが東摩、機材を片づけてくれないか」
「わかった」
白峰をさゆりに任せ、龍介は出したばかりの機材を再び車に積みこんだ。
車には寝入りばなだった左戸井がいて、大きなあくびを抑えようともせずにぼやいた。
「お、なんだなんだ、ずいぶん早いじゃねぇか」
「すみません左戸井さん、白峰がやられて、病院までお願いします」
「……さっさと機材を積んじまいな」
左戸井の態度は変わらず、龍介は安堵した。
これほどまでに完全な失敗をしたのは初めてで、怒鳴られるのも覚悟していたのだ。
左戸井が怒鳴る、というのは想像しにくいことではあるが。
機材を積み終え、龍介達も乗りこんだのを確かめると、左戸井は車を発進させた。
左戸井の運転はその風貌に似合わず丁寧で、かつ速い。
他の車にあまり乗ったことのない龍介達は、はっきりとは気づいていなかったが、
病人を乗せ、かつ急がなければならないという状況でも、
車体を大きく揺らすことなく、おまけに東京の道を熟知しているのか、
信号をギリギリのタイミングで抜けていき、夕隙社が懇意にしている新宿の病院まで、
ほとんど止まらずに着いた。
白峰はただちに診察室に運びこまれる。
龍介が長椅子に座ると、さゆりも少し離れて腰を下ろした。
「大丈夫……よね」
「……たぶん」
自分の経験に照らし合わせて、龍介は答えた。
霊と接触すると、猛烈に気分が悪くなる。
それに伴って吐き気やだるさも感じるが、死にそうになったことはないはずだ。
ただ、それはあくまでも龍介の場合で、ここまで症状が重くなったこともないから、
楽観的に断言はできなかった。
「……東摩。白峰が襲われた時の状況を、できるだけ詳しく教えてくれないか。社長に報告する」
「ああ」
こんな時でも事務的な支我に、さゆりが何か言いたそうに彼を見たが、
支我はあくまでも冷静だった。
龍介にもさゆりの心配は解るが、一方で支我の態度も理解できる。
今、白峰に対してできることがない以上、少しでも状況を改善する努力はするべきだし、
とにかく話していれば、その間は不安を抱かずに済むのだ。
白峰が一人で突入してから気絶するまでの経過を、龍介は覚えている限り説明した。
支我がそれを口述とほぼ変わらぬ速さでパソコンに打ちこみ、報告書の体裁に仕上げる。
一通り報告が終わったところで、さゆりが口を挟んできた。
「女の霊が何を言っているかは聞こえなかったの?」
「距離があったし、短い文章だったからな。『あなたのせい』とか言ってたようにも聞こえたけど、断言できない」
「『あなたのせい』って……霊と白峰君は思いきり関係あるってことじゃない」
「そう言ってたならな。それに、関係があったとしたって、仲が良さそうな感じには見えなかったぞ」
「どういうことよ」
「だから、訊かれても解らねえって」
はっきりしない龍介に、さゆりは苛立ちを募らせているようだが、
龍介の方もなじるようなさゆりの口調が面白くはない。
二人とも、病院の中で大声を出すのは非常識だと心得ていたので激発はしなかったが、
その分、余計に苛々してしまうのだった。
「それにしても、白峰が霊と接触した時間はほんのちょっとだったけど、
こんなに深刻な症状になってる。霊に強さとかそういうのはあるのか?」
暴発を避けるため、龍介は支我に矛先を変えた。
手を顎に当てた支我は、龍介とパソコンの中間に視線を落として答えた。
「あるんじゃないかとは言われているな。いわゆる悪霊、恨みや怒りが強い霊に接触すると、
重篤な被害を受けるケースが多いという報告もあるが、何しろ実例が少ないし、
被害者の側の状態――霊能力や体調も関係するかもしれないとなると、とてもじゃないが断定はできない」
さゆりも龍介と舌戦をするのは避けようとしているのか、疑問を呈したのは支我に対してだった。
「その女の霊は、白峰君に強い恨みを持っていたのかしら」
「どうかな。精神は肉体があってこそ精神たりえる。容器を失ってしまった精神が、
まとまった思考を保ちつづけるのは難しいとされているんだ。
つまり、怒りや恨みといった感情そのものは残るとしても、誰を、とか何を、
といったところまでは次第に忘れてしまう」
「じゃあ、亡くなってすぐならまだ覚えているかもしれないってこと?」
「そうだな……その可能性はあるな。今の段階ではあくまでも可能性だが」
そこまで話したところで、診察室から院長が出てきた。
院長は龍介達の事情を良く知っているらしく、あれこれ詮索はしなかった。
立ちあがる龍介とさゆりを、むしろ煩わしげに見た後、白峰について身体に問題はない、
意識が戻るまで入院させると愛想のない口調で告げ、
なお訊ねようとするさゆりをあからさまに無視して去っていった。
「なッ、何よ、あの先生。ちょっと無愛想すぎない?」
「誰に対してもあんな感じだ。一応きちんと診てはくれるし、
こっちの事情も諒解してくれているから、そう悪く言うものでもないさ」
憤慨するさゆりをたしなめるように言うと、支我はノートパソコンを閉じた。
「白峰の意識が戻らず、入院するとなれば俺達がここにいても仕方がない。夕隙社に戻ろう」
「怒られる……よなあ、やっぱり」
「覚悟しておいたほうがいいだろうな」
肩を落とす龍介の隣で、さゆりもため息をつく。
「三十分で終わってくれればいいけど」
たぶん無理だろう、と等しく思いながら、三人は重い足取りで病院の出口へと向かうのだった。
白峰が目を覚ましたのは、龍介達がたっぷり一時間の説教を受けてから
おおよそ二十一時間後となる、翌日の夕方だった。
身体を起こした白峰は、ここが自分の部屋でないこと、部屋に誰かが居ることに気づく。
部屋にはさゆり、龍介、支我、それに千鶴までが居た。
「まだ起きないほうがいい。一晩中眠ってたんだからな」
「一晩中……? 霊は……!?」
「残念ながら取り逃がした」
冷静な支我の声に、白峰は自分の置かれた状況を認識した。
ここは病院で、自分は霊との接触で意識を失ったのだ。
白峰の推測を、壁にもたれかかっていた女性が補足する。
「ミッション失敗というわけよ。クライアントにこってり絞られたわ」
「……すみません」
社長直々のお出ましに、白峰は自分の失敗を痛感した。
どうしようもない失敗ではない。
回避――少なくとも、損害は出さずに済ませられた失敗だ。
悔やもうとする白峰に、社長である千鶴は淡々と言った。
「済んだことは仕方ないわ。ただし、同じ失敗は許さない。
そのためには、失敗を省みる必要があるわね」
「昨日は様子がおかしかったよな」
支我の声は冷たくはなかったが、事実以外を許す雰囲気でもなかった。
失敗は仕方がない――だが、失敗の原因を分析し、次に生かさなければ何の意味もない。
手元に視線を落とした白峰は、支我に倣うように感情のこもらない口調で答えた。
「昨日の霊……彼女は、ボクの亡くなった恋人なんです」
「……!」
さゆりは目を見開き、龍介は眉をしかめ、千鶴は目を細める。
支我のみが見た目には何も変わらぬまま、ただ真摯な表情で白峰を見た。
「……情けない話だ。ボクは、除霊師失格だよ」
シーツを掴む白峰の手が震える。
そんな彼を見て、さゆりがとりなすように言った。
「恋人の霊と遭遇するなんて、取り乱すのも無理ないと思うわ」
「でも、夕隙社はそれじゃ商売にならないのよ」
「それは……そうですけど……」
手厳しい千鶴に引き下がりつつも、さゆりの眼には承服しがたい色が浮かんでいる。
「気を使ってくれるのは嬉しいけど、同情する必要はないよ」
「そこまで思いつめなくても」
金よりも大切なものがある――そう信じていられる世代であるさゆりには、
アルバイトとはいえ十人近くもスタッフを抱えこみながらなんとか経営を成り立たせている
千鶴も拝金主義者としか映らないようで、白峰を慰めた口調には、
彼女に対する当てこすりのような成分が極微量含まれていた。
だが、白峰は少なくとも全人類の半分に見せているような態度ではなく、力なく頭を振るだけだった。
「倒せると思っていたんだ。彼女の霊を見つけたら、必ず倒すとボクは覚悟していた
……はずだったんだ。なのに、いざ彼女の霊を前にしたら、ボクは……」
さゆりはいかにも気の毒そうに白峰を見つめ、龍介も、
そんな覚悟をせざるをえなかった彼の事情に同情を禁じえなかった。
そんな若者たちに、千鶴は咳払いをすると社是を――夕隙社ではなく、幽撃社の――告げた。
「恋人の霊が現れるなんて、確かにそうあることじゃない。
でも、起こったからには対処しなければならない。
それが仕事というものであり、金銭を対価として事を行うプロの基本よ。
頑張りました、で満足していいのは学生まで」
龍介とさゆりは等しく首をすくめる。
それは龍介たちが夕隙社で働き始めてから、何度となく言われていることだった。
だから常に意識はしているのだが、こうして失敗してしまうと覚悟が足りなかったと自覚させられてしまうのだ。
すでにして充分な反省を見せている若者たちに、千鶴はなお厳しく続けた。
「今回の霊は、既に多くの罪のない生者を手にかけている。
そんな霊を取り逃がしたということは、新たな被害者が出るかもしれないということよ」
「……はい、分かっています」
除霊は血も流れず、実感に乏しい。
これまで大怪我をしたこともなく、せいぜい気分が悪くなった程度だったので、
逃した霊が他の生者に危害を及ぼすという可能性までは考えが及ばなかった。
だが千鶴の言う通り、霊が生者に取り憑けば、様々な悪影響が生じる。
良くても龍介のような精神的な不調、悪ければ精神崩壊、あるいは錯乱して死ぬということもありえるのだ。
多くの場合、それらは原因不明の突然死として処理される。
それは生者にとって不幸なことであり、その被害を少しでも減らすために
龍介たちのような存在があるのだった。
「……一歩間違えれば、怪我をしたのはボクじゃなくてキミ達だったかもしれない。
もしそんなことになっていたら、ボクは悔やんでも悔やみきれない」
白峰はシーツを掴んでうつむく。
これ以上は刺激しないほうが良いと目配せしあった龍介たちは、病室を後にすることにした。
「ねえ、これからどうするの?」
「どうって、依頼はまだ解決してないんだから、やるしかないだろ」
さゆりに龍介が答えると、千鶴が大きく頷いた。
「その通りよ。しかも、可及的速やかにね」
「それは分かってるけど、白峰君よ」
千鶴にではなく龍介に再度話しかけたさゆりに、応じたのは支我だった。
「白峰がこれからどうするのか、それは彼自身が選ぶことだ。俺達が立ち入るべきじゃない」
彼の返答は龍介には納得できるものだったが、さゆりは冷たいと思ったらしく、
軽く龍介を睨みつけた。
自分が答えたわけでもないのに睨まれた龍介は、
うかつなことを言うと彼女の怒りに火を注ぐと思ったので、理不尽を耐えて沈黙した。
しかし、さゆりはそんな龍介の努力を汲むことなく、
強い一睨みを残すと早足で廊下を先に行ってしまった。
大きくため息をつこうとする龍介に、千鶴が訳知り顔で頷いてみせる。
「いいわねえ、青臭いまでの若さ炸裂で」
何が良いものか、と実際に対応を強いられる龍介は内心で上司を批判するのだった。
授業が終わると龍介の教室に、隣のクラスから長南莢がやって来た。
彼女とは昼食を一緒に取る間柄だが、昼休み以外で彼女がこちらのクラスに来るのは珍しい。
しかも、彼女はさゆりだけでなく、龍介にも用があるようだった。
「あッ、さゆりちゃんッ! 東摩くんも」
「あ、莢……どうしたの、ニコニコして」
「今朝ね、こんなチラシを配ってたんだよ」
莢が見せたチラシは、ピンク色が多用されている、やや目に優しくないものだった。
「スイーツバイキング?」
「うんッ、駅前のフルーツパーラーで開催中なんだってッ。ね、一緒に行かない?」
いかにも育ちの良さそうな莢の顔に邪心は見られず、
純粋に友人として二人を誘っているのが龍介にも伝わってくる。
それだけに断るのが辛く、龍介は心底済まなそうに告げた。
「悪い、今日は駄目なんだ」
「え〜ッ、そうなのォ〜?」
「深舟と二人で行ってきなよ。で、美味しかったら今度は俺も連れてってよ」
「なんかずるく聞こえるけど、でもしょうがないかァ〜」
「ああ、それじゃまたね」
「うんッ、ばいばい〜ッ」
愛想よく手を振りつつ龍介は教室を後にする。
廊下に出てから振るのを止めた手を、そのまま頭に乗せて髪を掻いたのは、
手など振って照れくさかったからだが、そうやって髪を掻くのも格好をつけた気がして、
今度は息を吐いて肩から力を抜いた。
すると、背後から彼を呼び止める声がする。
「待ちなさいよ」
棘とまではいかないまでも、やや尖りぎみの声に、龍介は無言で振り返った。
特にさゆりを怒らせるような言動を今日はした覚えがないが、
理不尽な怒りをぶつけられたことが何度もあるので、愛想よく応じるのは愚かしいと考えたのだ。
案の定、唇を引き結んで真っ向から見つめている彼女は、機嫌が良さそうにはとても見えなかった。
「なんだよ」
それでも龍介は、できるだけ穏やかに訊ねた。
龍介の努力が実ったのか、さゆりは喉の調子を整えると、
怪我防止のカバーを被せたような声で用件を告げた。
「病院に行くんでしょう? それなら、一緒に行きましょうよ」
「……スイーツバイキングはいいのか?」
「莢には今度埋め合わせするって断ってきたわ。
あんたがさっさと断っちゃうから、続けて断るのがちょっと気まずかったけど」
「……そりゃ悪かった」
自分は今、カレーだと思ったら甘かった、あるいは、醤油だと思ったらソースだった時の
ような顔をしているかもしれない、と龍介は思った。
まあとにかく、争わないで済むなら、それに越したことはない。
それ以上余計なことは言わず、龍介はさゆりと一緒に歩き始めた。
校門を出たところで、龍介は再び後ろから声をかけられた。
「よォ、東摩に深舟。病院に行くのか?」
「ああ」
龍介が支我に声をかけなかったのは、単に龍介が帰ろうとした時彼が見当たらなかったからだ。
支我もそのあたりは心得ているのか、それについては特に何も言わなかった。
結局三人は支我が前を行き、龍介とさゆりが後ろに並んで三角形を構成するという、
いつも通りの編成で白峰の居る病院へと向かうのだった。
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