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 白峰は病院の庭にあるベンチに座っていた。
片手に持った文庫本は、開いてはいても読んではいないようで、眼球は固定されている。
愁いを帯びた顔は、同世代の女子を惹きつけてやまないだろう。
事実、女性看護師や入院している女性患者が彼の前を通り過ぎる時、
なかなか視線を外さずにいたものだが、彼は普段と異なり、そのいずれもにも関心を示さなかった。
「非連続な存在である私たちにとって、死は存在の連続性という意味を持つものである、か……」
 諳んじているバタイユの一節を呟いた白峰は、気配に気づいて顔を上げた。
 そこには少し前に知り合った夕隙社の三人がいる。
立ちあがった白峰は、大仰な仕草で両手を広げた。
「なんだか申し訳ないね。皆の貴重な時間を使わせてしまって。
ボクのことなんか、心配しなくたっていいのに」
 自己を卑下する白峰に龍介はつきあわなかった。
「調子はどうだ?」
「悪くはないよ」
 答える白峰の顔色は、少し血の気が少ないようにも見えるが、
元々自分や支我と比べると白い肌だったので、龍介には彼の返事が強がっているのか判断がつかない。
さゆりなら判るかと思って彼女を見ると、なぜか目が合ってしまった。
「何見てるのよ」
「いや……」
 説明するのも面倒だし、彼女を見たのも確かなので、龍介が引き下がると、
さゆりは鼻を鳴らして白峰の方に向き直ってしまった。
 二人の微妙なやり取りに、白峰が微笑する。
「キミ達は仲が良いんだね」
「誰が……!」
 と同時に言った龍介とさゆりは、互いのせいであると睨みあい、白峰の更なる微笑を誘った。
 ノートパソコンを起動していた支我が、我関せずとばかりに話題を変える。
「それで、霊のことなんだが、俺達はあの霊を倒さなければならない。
その為に、彼女について知っていることを教えてくれないか」
 簡にして要を得すぎている支我の訊き方に、龍介とさゆりは揃って眉をひそめた。
いくらなんでも、他に訊きようがあるのではないかと思ったのだが、
ではどう訊けばよいのかと言われると、とっさには思いつけない。
無言で成り行きを受け入れるしかなかった。
 酷薄ともいえる質問を発した支我ではなく、その後ろで同じ顔をしている二人を見た白峰は、
再び口元を綻ばせる。
だがその笑顔は、自嘲の成分が強く含まれたものだった。
「……ボクは、彼女を倒すためにゴーストハンターになったんだ」
 白峰の声に抑揚はなく、力もない。
さゆりなどは倒れるのではないかと心配したが、支我は落ちついた声で続けた。
「彼女はどうして霊になったんだ?」
「それは……ボクのせいなんだ」
 組んでいた足を解き、膝の上で手を組んだ白峰は語り始めた。
「二年前の春、ボクは彼女――小夜子と出会った」
 高校に入学した白峰は、その容姿でクラス中の注目を集め、わずか数日で集めた注目を失った。
「よお白峰。皆でカラオケ行くんだけどさ、お前も行くか?」
「私、白峰くんが歌ってるところみたいな〜」
「……どうしても行かなくちゃいけないのかい?」
 行くという以外の返事を想像していなかったとでもいうように鼻白む同級生に、
白峰は視線すら合わせなかった。
「別に、どうしてもってわけじゃないけどさ……コミュニケーションだよ、コミュニケーション。
これから三年間、同じ高校に通うんだしな」
「悪いけど遠慮させてもらうよ、興味が湧かないんだ」
 日本の高校生にとって、その場のノリや協調性といったものは時として個人の人格にも勝る。
勉強ができようと容姿が優れていようと、和を乱す者は同類として扱わない。
すでに白峰は彼らにとって、未知の言語を話す異種族に過ぎなかった。
「……あ、そう。じゃあな。よしッ、残りは行こうぜッ!」
 同級生たちは大挙して教室を出ていく。
彼らの後ろ姿を見送りもせず、白峰も独りで彼らとは反対方向に歩きだした。
 あのような断り方をすれば、今後の学校生活は孤独なものにしかならない。
それも、話しかけても応じてもらえるかどうかわからない、無視に近い孤独だ。
学校といえども社会である以上、孤立するというのは、
あらゆる意味において避けるべき事態のはずだったが、白峰は意に介しなかった。
彼は孤立してはいても孤独ではなかったからだ。
「お前はどうしてこの世に留まっている? 何か伝えたいことでもあるのか?」
 うずくまっている黒い影に白峰は話しかける。
影、といっても物体が光を浴びて生じさせるものではない。
ほとんどの人間には視認が不可能な、かつて人間であったものの残滓――霊と呼ばれるものだった。
「――子供の頃から、ボクは霊を視ることができた。霊の言葉を聞き取ることができた。
無念、愛情、絶望、喜び、悲しみ……霊はボクに、様々な思いを打ち明けてきたよ。
霊との交流を経て、ボクは学校では学べないことを学んだ。
そのせいか、ボクはクラスの友達とは話が合わなかった。
クラスの友達と低俗な会話を交わすより、本を読んだり映画を見たりするほうが、
ずっと有意義な時間の使い方だとボクは思っていた」
 思春期の移り気な、時には自分自身でさえ把握できない心も、
霊となるに至った未練、つまり強い心を持つ霊が語るなら、深く、まっすぐなものたりえる。
それらが正しいかどうかは於くとしても、わずらわしい探り合いや打算から離れた霊たちとの
語らいは、確かに得るものもあったのだ。
「非連続な存在である私たちにとって、死は存在の連続性という意味を持つものである、か……
実に興味深い記述だ」
 数少ないお気に入りの場所である、公園のベンチで本を広げる。
人通りもなく、陽は強すぎず、至福の時を堪能できると思っていた白峰は、
突然本が陰ったのに驚いて顔を上げた。
そこには血のような赤い線の入った黒いセーラー服をまとう、髪の長い少女がいた。
「バタイユを読んでいらっしゃるんですか?」
「バタイユを知っているんですか!?」
 少女は美しかった。
やや血色の悪い、青白いくらいの肌に、物憂げな眼。
薄い唇は深い薔薇の紅を思わせ、異性というものにさほど関心を持たなかった白峰を、強く惹きつけた。
 しかも、彼女はバタイユを知っていた。
日本では高校生はおろか、大人でも知る人間は少ない、フランスの哲学者にして作家である、
ジョルジュ・バタイユ。
彼の名前が自分と変わらない年の少女の口から発せられたのは、白峰にとって福音に等しかった。
 絶叫気味の白峰の疑問に、少女は煙るような笑みで応じる。
笑みにはどこか小馬鹿にしたような成分も含まれていたが、
大人びた顔の彼女にはそれも似つかわしく見えた。
「私の父はフランス文学の研究者なんです。だけど、あなた……フフッ」
「何がおかしいんですか?」
「公園のベンチで一人、バタイユを読むなんて……昭和の文学青年みたいですね」
「バタイユは時代に左右される作家ではありませんッ!
彼はフランス文学を象徴する作家であり、哲学者であり……」
「否定しているわけじゃありませんよ。ただ、フフッ……おかしくて」
 少女は当然のように白峰の隣に腰を下ろした。
ありふれたフランスの恋愛映画のように。
「――それが小夜子との出会いだった。彼女の笑顔に、ボクは一瞬で心を掴まれた」
 世界中でたった一人、彼女に逢うために自分は生まれたのだ。
白峰はそう信じて疑わず、これまで蓄えてきた知識や考えの全てを、初対面の彼女に話した。
 彼女は白峰の言葉の洪水にも溺れることなく、良く彼の話を聞き、
彼と自分の見解が異なっても、臆することなく披露した。
それは、白峰にとって人生で初めての心躍る会話であり、彼女は理想以上の女性だった。
気がつけば陽は彼女の上に陰り、彼女との別れを強いる太陽を、白峰は心から呪った。
「それからしばらくの間、ボクは彼女との再会を期待して公園に通いつめた。
彼女は滅多に姿を現さなかった。……だから彼女に会えたときは、
ボクは興奮のあまり口数が多くなったよ。そして何度めかに会った時、
ボクは思いきって彼女に意を伝えたんだ」
 もっとキミと会いたい、できれば毎日でも――
 それもまた、フランスでは野良猫でさえ使わないような、ありふれた告白だった。
けれども科白に込められた熱量は、凱旋門すら壊してしまいそうなほどだった。
「……私は貴方を傷つけてしまうかもしれない。それでもいいの?」
 小夜子の返答は白峰の予想にないものだった。
ウィットに富んでいるわけでもなく、薄暗い表情は、
恋愛映画ではなくフィルムノワールにこそ似合いそうだった。
 だが、白峰はそれを、彼女流の諧謔、あるいは照れだと解釈した。
うやうやしく小夜子の手を取り、甲にくちづけて喜びを伝えた。
「どんな痛みだろうと、ボクは乗り越えてみせるッ! キミと一緒にいられるなら」
 白峰の覚悟に偽りはなかった。
ただしそれは、彼自身が受ける痛みに関してだったのを、
後に、計り知れないほどの悔恨とともに知ることになる。
「晴れて恋人同士となったボク達は、色々なところにでかけたよ。
カフェ、動物園、美術館……」
 程なくして二人には共通のお気に入りとなるカフェができた。
白峰は雰囲気を、小夜子はケーキとそれぞれ別々の点を気に入ったのだが、
どこかへ出かけた後は大抵この店に行く程度には二人ともこのカフェを愛した。
「ねえ、半分こしようか?」
「それはテーブルマナーに反するんじゃ……」
「カタいこと言わないの! 半分こしたほうが二倍楽しめるでしょ?」
 素早く白峰が頼んだケーキを半分切り取って口にした小夜子は、
幸せそうに全て食べてから、思いだしたように自分のケーキを半分にする。
未練がましく目を細める小夜子に、白峰が笑いながら要らないというと、
彼女はシャモニーの雪原に反射する陽光のように目を輝かせ、
白峰が前言を翻すのを恐れるかのように一口で食べるのだった。
 「彼女と付き合うようになってから、見るもの全てがそれまでとは違って見えた。
狭い世界に閉じこもっていたボクを、彼女は広い世界へと連れ出してくれたんだ」
 ある日、二人は動物園に居た。
それほど動物に興味がない白峰とは対照的に、小夜子は子供のようにはしゃぎ、
園内のすべての動物を鑑賞しようと白峰を連れ回した。
「……もし生まれ変われるなら、何の動物になりたい?」
「ボクは、やっぱりライオンかな。美しくて強いからね」
「白峰くんらしいわね」
「小夜子は?」
「私は……群れを作る動物ならなんでも。一人きりで生きるより、
家族や友達と一緒に生きる方が楽しいでしょ?」
 小夜子の意見は孤独を好み、家族とも距離をおいている白峰とは正反対だった。
だが、白峰は異を唱えなかった。
彼女と共に生きるという夢想は、彼の心のキャンバスに鮮やかな色彩を施したのだ。
 ある時は美術館に行き、絵画を鑑賞する。
「ゴーギャンの作品はマティスに影響を与えたと言われているんだ。
ゴーギャンの大胆な色彩は、マティスの……」
「しっ。今見入ってるんだから、静かにして。必ずしも絵を理解する必要はないのよ。
そのまま受け取ればいいの」
「……そうかい? じゃあ、ボクもそうするとしよう」
 ただ絵を眺め、そこにあるものだけを感じる。
画家の経歴や描かれた絵の背景まで調べてから鑑賞する白峰にとって、
小夜子の原始的ともいえる鑑賞法は、もっと味わう術があるのに美味しいところを捨ててしまうようで、
はじめは馴染めなかった。
しかし、美術館を出てカフェで観たものについて語らい、彼女自身の、
そして白峰自身の感想が全く異なることに気づいたとき、白峰は世界が開けたような衝撃に打たれた。
それは大げさに言えば、白峰勇槻という個が確立された瞬間だったのかもしれない。
しかし常日頃フランスの思想や哲学に親しんでいる白峰の脳裏に浮かんだのは、
それらとは縁遠い陳腐な言葉だった。
「彼女と一緒にいる時、ボクは心から笑うことができた。
彼女を抱きしめている時、ボクは心から幸せだと思えた」
 白峰の語るほとんど全てのことに小夜子は応じ、白峰の知らない多くのことを教えてくれた。
彼女の紡ぐ言葉のひとつひとつに白峰は魅了され、ひとつでも多くの言葉を聞こうと、
彼女と一緒にいられない時間もすべて彼女のために費やした。
「――だけど、幸せな日々は長く続かなかった。彼女は病気に、それも進行性の病気にかかっていたんだ」
 あまりにも顔色の悪い小夜子を気遣った白峰は、思いもよらぬ返答に立ち尽くす。
空は、木々は、世界はたちまち色を喪い、彼女と同じ白と黒モノクロームと化した。
「……ずっと黙っていてごめんなさい」
「どうして教えてくれなかったんだ……!」
「言えば貴方が離れてしまうんじゃないかと思って……怖かったのよ」
「キミが病気だろうと、ボクはキミを捨てたりなんかしないッ!!」
 彼女に信じられていなかったという失望が、白峰を怒りへと駆り立てる。
だが、白峰以上の怒りを募らせていた小夜子は、タールめいたそれを噴出させた。
「そんなの分からないじゃないッ! いずれいなくなる相手を、あなたは心の底から愛せるのッ!?
たくさんの人が私から離れていったわ……家族も、友達も。
表面上は私を心配するふりをしてくれたけど……見込みのない相手に愛情を注いでも無駄だものね」
 彼女の家族が小夜子を見捨てたなどと、白峰には思えない。
だが、すでに絶望の底にいる小夜子は、彼女を見下ろしている万物を憎み、
同じ底へ引きずりこもうとしていた。
 多くの霊と会話してきた白峰は、年齢に比べれば充分な思慮と分別があったが、
死者と生者にはやはり大きな隔たりがある。
怒りや恨みといった未練を持つ霊でも、生きるという最も強い執着からは解き放たれており、
まして、若くして死ななければならないという理不尽を突きつけられた少女の、
世界の全てを敵に回してでも生きたいという妄執など理解できるはずもない。
 白峰の小夜子を見捨てないという気持ちには一片の偽りもなかったが、
小夜子から噴きだす圧倒的な負の感情に、わずかながら怯んでしまった。
 その怯えを鋭敏に感じ取ったのか、小夜子の表情が曇る。
「貴方にだけは側にいてほしかった。貴方に捨てられたら、私……」
 白峰は自分が致命的な失策を犯したことを悟った。
言葉で挽回できるものではない、という後悔が白峰の口をつぐませ、
さらなる失策の連鎖を生んでしまう。
もしこのとき白峰が、ためらいでもなく言葉でもなく、
激情の赴くままに小夜子を抱きしめていれば、彼女の死は避けられなかったとしても、
彼女の絶望を幾分かは和らげてやれたかもしれない。
けれどもこのときの白峰は、小夜子の表情から彼女が本当に欲しているものを見抜くことができなかった。
 小夜子の顔から憑き物が落ちる。
憑いていたのは希望――白峰勇槻という名の希望だった。
「やっぱり私、貴方を傷つけちゃったね。本当にごめんね。
お願い、私のことは忘れて、別の人を見つけて」
「そんなこと出来るはずがないだろうッ! ボクにはキミしかいないんだ」
 心底からの白峰の叫びにも応えず小夜子は立ちあがる。
引き留めようとした白峰は、彼女のモナ・リザめいた笑顔に阻まれた。
どのような想いを宿しているのか、世界中で語られ、永遠に答えの出ない微笑。
……その答えを、図らずも白峰は知ったのだった。
「……彼女はボクの前から姿を消した。悪い夢でも見ているのだろうと思った」
 出会った直後からあまりに小夜子と深く理解しあっていたために、
彼女の住所や通っている学校さえも知らなかった白峰は必死に探し、
ようやく探し当てたときには、もう彼女は帰らぬ人となっていた。
「彼女の葬式に、ボクは顔を出さなかった。彼女の死を受け入れるのが怖かったんだ」
 小夜子が死ぬはずがない。
 太陽であり、月であり、世界そのものだった彼女が喪われるはずがない。
彼女が居ないのなら、白峰が今いる世界こそが偽であり、意味を持たない虚無なのだから。
そう信じて白峰は小夜子を探して、彼女と過ごした思い出の場所を彷徨った。
「数日後、ボクは彼女と出会った公園にいた。何も手につかず、
これからどうしたら良いかもわからず、そこに座っていることしかできなかったんだ」
 白と黒の世界。
白峰の目に映るものはすべて、もはやそれだけの存在だった。
輪郭も不明瞭となり、ただそこにあるだけの白と黒。
自分もその中に塗りつぶされてしまえたら、そうぼんやりと考える白峰の前に、
信じられないものが現れた。
「……また、会えたね」
「嘘だ……そんな、まさか!?」
 白と黒だけれど、それは明瞭な形をしていた。
艷やかな髪、白皙の肌、黒いセーラー服。
突如として現れた世界そのものに、白峰は立ちあがった。
「貴方に会いたいって祈ったら、神様が奇跡を起こしてくれたのよ」
「だけど、キミは……」
「どうしてそんな顔をするの? 私のことが嫌いになったの?」
「そんなはずがないッ! ボクだって、キミに会いたかった」
「二度と、私を離さないでね」
「ああ……!」
 白峰が語る過去に、三人は声もなく聞き入っている。
 龍介は背中に何かが触れるのを感じ、それがさゆりの手だと判っても、払いのける気にはなれなかった。
龍介自身が何かに――自分以外の誰かの温もりを感じたいと思っていたからだ。
 三人の誰とも視線を合わせないまま、白峰は話を続ける。
「ボク達はまたデートするようになった」
 彼女がお気に入りの公園に、美術館に、カフェに。
どこであろうと、白峰は彼女といられるだけで良かった。
「……珍しいね、いつもなら半分こしようって言うのに」
「食欲がわかないの。それより、最近学校はどう?」
「順調だよ。少しずつ、友達が増えてきたんだ」
「良かったじゃない」
「キミのおかげだよ。平凡な日々の中に美しい輝きがあることを、キミがボクに教えてくれたんだ」
 白峰を店員達が遠巻きに眺める。
一人で来店し、二人分の注文をし、一人で喋る彼は、率直に言って近寄りたくはない存在で、
追加注文で白峰が店員を呼んだ時などは役目を押しつけあう有様で、それはすぐに客にも伝わり、
店中の人間が怖いもの見たさで白峰を一瞬見て、
慌てて首を引っ込めるというのが店の名物となりつつあった。
「彼女が霊であることくらい、ボクにも判っていた。それでも、ボクは幸せだった。
彼女と一緒にいられるなら、何だって構わなかった。だけど、それは禁断の願いだったんだ」
 小夜子以外の人間などただの考える葦に等しい白峰ではあったが、
カフェから遠回しに退店してほしいと言われれば幾らかは思うところもある。
店員の無粋を嘆きつつ店を出た白峰は、落胆を隠して公園に行くと、
人気のないベンチに座って小夜子に話しかけた。
「夏になったらどこかに出かけないか? ボク達のことを誰も知らない、遠くの土地に。
そうだ、せっかくならフランスに行ってみないか? 
バタイユの生まれた国で、彼の足跡を辿るのはどうかな? 少し背伸びし過ぎかな?
でも、きっと楽しいと思うんだ」
 一秒でも小夜子との時間を共有したい、ひとつでも多くのものを彼女と見聞きしたい、
という白峰のささやかな願いは、ミルクを浸した皿に尻を沈めて溢れさせるように打ち砕かれた。
「……るさい」
「えッ!?」
「うるさいうるさいうるさいッ!!」
 春の嵐のように叫んだ小夜子は、白峰の周りに集まっている鳩の一匹の腹に手を突っ込んだ。
罪のない鳩は、何が起きたかも分からず絶命する。
周りにいる他の鳩が一斉に飛び立ち、フランス窓に打ちつける風のような音が響き渡った。
「小夜子……どうしたんだ!?」
「どうしたって、何が?」
「鳩を殺すなんて」
「鳴き声が耳障りだったから」
 絶句する白峰に見せた小夜子の笑みは、初めて出会った時の微笑ではなく、
幼児が初めて蟻を踏み潰した時のような、無限の残酷さに満ちていた。
「彼女は少しずつ変わっていった。だけど、ボクは気づかないふりをしていたんだ。
彼女は彼女のままだと。その結果――」
 白峰と小夜子は公園を歩いていた。
運命的な出会いを果たした公園だ。
しかし二人に出会った時のような煌めきはなく、冬の予感を覚えながら、
必死にそれを直視しまいとする旅人の如き険しさが、特に白峰の顔に濃く滲んでいた。
「雲行きが怪しいね。夕立が来るかもしれない、どこかに寄っていくかい?」
 返事のない小夜子に構わず、白峰は話し続ける。
「最近口数が少ないね。ああ、無理に話す必要はないんだ。
ボクはただ、キミと居られるだけでいいんだから」
 白峰は息の続く限り、彼にとってさえ何の意味も持たない、サハラの砂粒に等しい語句を吐き続ける。
一度静寂をもたらしてしまえば、訪れるのは虚無だと知っているかのように。
 だが、夜は必ず訪れるように、白峰の会話もやがて途切れる。
白峰は可能な限りの努力をしたが、酷使された喉が休息を要求したのだ。
「喉が渇かないかい? 紅茶を買ってくるよ。キミはいつものミルクティーでいいね」
 白峰は軽快な足取りで、その実全速力で自販機に走った。
できるだけ小夜子から目を離さないほうがいい。
言いしれぬ不安を押し殺して、白峰は取り出し口からもどかしくペットボトルを取り、小夜子の許に戻った。
 小夜子はいなくなっていた
白峰が慌てて周囲を見渡すと、茂みの向こうに彼女の後ろ姿が見える。
 どうしてあんなところに。
 疑問はすぐに解決した。
服が汚れるのも厭わず、茂みを直線的に突っ切った白峰が見たものは、二つの死体だった。
 立ち尽くす白峰に気づいた小夜子が、美味しそうな果実がなっていたのでもいだのだとでもいうように告げる。
「犬が私に吠えたの。だから黙らせたのよ。
そうしたら大声を出してうるさかったから、この人にも一緒に黙ってもらったの」
 小夜子は気まぐれではあっても残酷ではなかった。
それがバタイユの『眼球譚』に出てくる少女シモーヌのように、
死すら快楽の一形態として求めるかのような振る舞いをするようになっている。
いくら白峰が小夜子の復活を喜んでいるとしても、倫理的に許されるものではなかった。
「どうして、こんな事を……」
 つぶやく白峰に答える小夜子の声に、生者の温もりはなかった。
「わからないの?」
「何?」
「貴方のせいよ。私をこの世に引き留めた貴方のせい」
「キミは……もしや知っていたのか? 自分が……もう、死んでいるのだと」
 白峰の問いに小夜子は笑みを浮かべる。
その笑みは陰でありながらも暗黒ではなかったかつてのものではなく、
虚無のみが広がる、白峰をも戦慄させる笑みだった。
「いつから……いつから知っていたんだ?」
「……貴方と再会した日からよ」
「そんな……」
「霊となった私を貴方は受け入れてくれた。
最初は生きていた頃と同じように楽しかったわ。
でも……貴方と過ごしていく日々の中で私は変わっていった。
記憶や感覚が少しずつ死んでいったの。太陽の温もりや五月の風、紅茶の香り――それら全てが。
貴方の愛するものを、私はもう感じ取れないのよ。色も温度も味もない、砂と同じ。
私は少しずつ削り取られ、喪われていった……貴方に想像できる?
心が痛むこともなければ、満たされることもない。
貴方が私を変えたのよ……肉体だけでなく、魂までも人ではない存在に」
「ボクのせい……なのか。ボクがキミの死を認めなかったから、
いつまでも側にいて欲しいと願ってしまったから……!?」
 おそらく白峰のせいだけではない。
 白峰は確かに小夜子の死を受け入れず、ずっと一緒に居たいと願った。
 だがそれだけでは、霊に――それも、悪霊になどならない。
木は養分がなければ成長できないように、白峰の願いにも対象が必要だった。
小夜子の持つ生きたいという渇望、世界に裏切られた憤怒があってこそ、
彼女の魂は死してなお、彼女を愛さなかった世界を憎んだまま現世にとどまっているのだ。
「全て、貴方のせいよ」
 しかし小夜子は、小夜子であった霊は、もはや白峰の説得などに聞く耳を持たない。
身に受ける不幸の全てが恋人であった男のせいだと信じ、
満たされることのなくなった渇きを癒やすために気に入らない存在を消す、
ただそれだけの存在と成り果てていた。
「小夜子はその日を境にボクの前から姿を消した。
だが、成仏したわけではないことは解かっている。
ニュースで不可解な事件が報じられる度、ボクは小夜子の仕業ではないかと疑った。
小夜子が霊になったのはボクのせいだ。
だから小夜子のことは……ボクがけじめをつけなければならないんだ」
 背中に触れるさゆりの手が震えている。
彼女の受けている悲しみを、龍介は共有した。
これではあまりにも白峰が報われない。
「ボクは霊退治を生業とする連中を探しだして手を組んだ。
彼女を……彼女の霊を見つけ出して、葬り去るために」
「それで偽夕隙社と手を組んでいたのか」
 支我の質問に、白峰は小さくうなずいた。
「最初からキミ達と出会えていれば、回り道をしなくて済んだがね。
競技用のフルーレを鉄製の剣に持ち替えて、ボクは霊を倒す技術を磨いた。
いつの日か彼女を倒すために」
 白峰の声は乾いていた。
もう長い間考え、選んだ結論なのだろう。
 なんとかして小夜子の霊とコンタクトを持ち、彼女の恨みを晴らしてやれないだろうか。
そうすれば、回り道も無駄でなかったということになる。
なんとかしてやりたいと、龍介は強く願った。
 思い詰める龍介の横顔をちらりと見た支我が、彼にではなく白峰に話しかける。
「もしあの霊が白峰を狙っているのなら、白峰に任せるのは危険だ」
「何を言っているんだッ!? 言っただろう、これはボクがつけなければならないけじめなんだッ!」
 白峰の青白い顔に赤みがさす。
病人を興奮させるのは良くない、と龍介もさゆりも思ったが、支我はどこまでも冷静だった。
「霊が凶暴化するパターンは三つある。一つは何人かの生者を殺して歯止めが効かなくなった場合。
一つは先日のような、何体かの霊が混ざってしまった場合。
そしてもう一つは、特定の生者に強く執着する場合だ」
 支我の指摘は白峰を気遣ってのことではなく、除霊が再び失敗するリスクを考えてのことだった。
そうとわかった白峰は顔を曇らせたが、彼にも引けない道だった。
 絞りだすように、白峰は言った。
「……それでも、ボクは小夜子を止めないといけない」
 白峰の拒絶を予想していたのだろう、支我は黙って龍介とさゆりを見た。
その眼差しの意図するところを正確に理解した二人は、白峰に向かって頷いた。
「仕方ない、充分に警戒してくれ」
「ありがとう」
 三人は再び、小夜子の霊が出現する、白峰と小夜子の思い出の店へと向かった。



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