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 動きだした車内は、龍介の負の感情が充満している。
しばらく、少なくとも夕隙社に戻るまでは誰とも話したくなかった龍介はそれを歓迎したが、
支我の落ち着いた声が打ち払った。
「……白峰のことは、仕方がない」
 雑多な機械音に紛れてしまえばいいのに、低い声は正確に龍介の下に届く。
 龍介が答えずにいると、彼の顔を横目で見たさゆりが応じた。
「辞めるのを認めるってこと?」
夕隙社ウチは霊が視えれば来る者は拒まず、去る者は追わずだからな」
 支我が自分を説得しているのではないと解ってはいても、龍介は面白くない。
それは龍介が、白峰が辞めた原因は自分にあると思っているからだった。
 もう少し自分が強ければ、白峰に恋人を除霊させずに済んだのではないか。
小夜子の未練を晴らし、成仏させてやることは不可能だったとしても、
白峰の代わりに小夜子を倒すことはできたはずだ。
恋人を自ら手にかけた白峰の後悔はどれほどのものか、龍介には想像もつかなかった。
だから、去る白峰の背中に声をかけられなかったのだ。
「あんたは良くやったと思うわ」
 さゆりの安易な言葉が癇に障る。
「深舟の言うとおりだ。東摩はできるだけのことをやったと思う。
霊を取り憑かせて除霊しようとするのは、止めるべきだが」
 実際に龍介は体調を崩したし、さゆりに至っては完全に憑かれて龍介を殺しかけた。
支我の忠告は、おそらく正しいのだろう――いつものように。
 だが今日は、その正しいはずの忠告が、妙に龍介を苛立たせた。
そもそも世界が正しいのなら、小夜子が病気で死んでしまったのは避けられなかったとしても、
悪霊と化すことなどないはずではないか。
 ひとたび湧いた怒りは、毒の礫となってたちまち口をこじ開けようとする。
自らの腕を強く握ることで自制した龍介は、五拍待って心をなだめ、
さらに一度唾を飲み下してから話しかけた。
「お前、何ともないのか?」
 急に話しかけられて驚いたようで、さゆりの声は幾らか上ずっていた。
「えッ!? え、ええ、平気よ」
 目を何度もしばたたかせてから、さゆりはためらいつつ龍介に訊ねる。
「……あんたは平気なの?」
「一応な。少し気分は悪いけど」
「それ、本当に大丈夫なの?」
 さゆりが本気で心配しているようなのが、かえって龍介には面白くなく、
彼女と目を合わせないようにして答えた。
「俺としては、何ともないお前のほうが気になるけどな」
「どういうことよ」
「霊と接触すると、多かれ少なかれ気分が悪くなる。
その霊の記憶っていうか思考っていうか、とにかく何かが入りこんできて、
自分の記憶とごちゃ混ぜになる感じなんだよ」
 大したことではない、と格好をつけるつもりで投げやりに言った龍介は、
車の中で立ち上がらんばかりに激しく向き直ったさゆりに睨みつけられた。
「今までそんなの話したことなかったじゃないッ! なんで黙ってたのよッ!」
「そうやって騒ぐと思ったからだよ」
「でも」
 嫌味が堪えたのか、さゆりは続けようとした言葉を呑みこみ、じっと龍介を見据えた。
 頬に少し赤みが差しているのは、本気で怒っているからだろうか?
 だとしても、なぜ?
苛立つと同時に困惑もする龍介だった。
「とにかく、今は二人とも何ともないんだな?」
 割って入った支我の冷静な声に、龍介は落ち着きを取り戻した。
「ああ、気分は悪いけど、これは霊と接触した後遺症みたいなもんで、じきに治まる」
「本当に?」
「俺がおかしくなったら叩きのめせばいいだろ。望むところじゃないのか」
 なお食い下がってくるさゆりに言い放つと、
彼女の唇が良い紙でできた本のように一直線に引き結ばれた。
 決して期待したわけではないにせよ、とっさに言い返せなくなるほどの
強烈な反撃を予測していた龍介は、あてが外れて何故かがっかりした。
「そら、着いたぜ」
 いつの間に夕隙社に戻ってきていたのか、運転席の左戸井が面倒臭そうに言う。
いろいろ改造してあってうるさい車とはいえ、先程の龍介達の会話が聞こえていないはずがない。
それなのに全く無関心なのは、気を利かせているのか、単に面倒に巻きこまれたくないだけなのか、
おそらくは後者だろうが、とにかく車内に充満しきっている険悪な空気を
これ以上吸わずに済むのはありがたかった。
 機材を下ろした龍介は、倉庫を兼ねた萌市の研究室に置きに行く。
 今日は、というか今日も萌市はアイドルの追っかけをしているようで、部屋には誰もいなかった。
いつものことなので、かろうじて一画だけ残っている床に機材を置いて、
今度は報告書を書くために編集部に戻ることにする。
 萌市の部屋を出た龍介を、さゆりが待っていた。
 待っていた、と言い切れるのは、彼女が何も手に持っていなったからだ。
喧嘩の続きをしに来たのだろうか、と訝る龍介に、さゆりは手を前で組んだ。
年頃の少女のような仕種が、似合わないかというとそうでもなく、
龍介は場違いな感想に思考を引っ張られそうになる。
 女の子らしい、と失礼極まりないことを考える龍介を、
大きな瞳をせわしなく動かしてチラチラ見ていたさゆりは、
彼の左斜め前方四十五度に視線を固定して言った。
「これから先、無理はしないでよ。私だって鉄パイプくらい振れるんだから。
それから、何か異変を感じたら、すぐに言いなさい」
「あ、ああ……うん、言うよ、なるべく」
「あと……さっきは悪かったわ」
 鋭い舌鋒に備えて精神の盾を準備していた龍介は、
思わぬ肩透かしに肉体的によろけてしまいそうになった。
車内のやり取りが脳裏に蘇り、一旦油断させる作戦かと疑ってしまったのは、
もしかしたら、まだ霊に憑かれた影響が残っていたのかもしれない。
 よろけこそしなかったものの、内心は動揺してメビウスの輪のように出口を見失っている龍介に、
さゆりはさらに追い打ちをかけてきた。
「それと、その……私が霊に取り憑かれた時、助けてくれて、あ……ありがと」
 さゆりが礼を言うなどと、堕天使ルシファーが神に許しを請うよりありえないことだ!
あまりの奇跡に龍介は、目と口を活動させるのを一時的に忘れてしまった。
とにかく、向こうが譲歩したのに突っ張ったままでいるのは格好悪いと、
彼の性格の一部分を受け持つ天使に背中を蹴飛ばされて、口を開いた。
「いや、怪我がなくて良かったし……俺こそちょっと言い過ぎたよ」
 別に龍介は他人に頭を下げられない性格というわけでもないが、
この時は妙に頬が熱くなって、さゆりに笑われるのではないかと思った。
 ところがさゆりは笑うどころか、龍介の熱が伝播したかのように頬を赤くし、
なぜかまばたきもせずに十秒ほども見つめる。
 いたたまれなくなって何か話題をと考えた龍介は、ひとつ忘れていたことを思いだした。
「そ、そうだ、これ」
 ズボンのポケットから鈴を取りだし、本来の持ち主に渡す。
「どうしてこれを東摩君が持ってるの……?」
 当然の疑問に龍介は答えねばならない。
「お前……ていうか小夜子さんに首を絞められて、もう駄目だと思ったとき、
この鈴の音が聞こえたんだよ。それでちょっと借りて鳴らしたら、
小夜子さんの霊がお前から出ていったんだ。きっとお祖母さんが護ってくれてるんだろうな」
「……」
 さゆりが肩を震わせているのは、死してなお、孫を護る祖母の深い愛に感動しているのだと龍介は思った。
思い違いをしているかもしれないと思ったのは、鈴を見ていた彼女の表情が、
ずいぶん馴染みのあるものだったからだ。
「それで、私のスカートの中からこれを取りだしたってわけ……?」
 それが酷いセクハラであることを龍介は悟ったが、ここは引き下がれなかった。
「緊急避難だっての! 俺だって命がかかってたんだぞ」
「そんなの関係ないわよッ! 気安く手を突っこんで、
女子高生のスカートの中をなんだと思ってるのよッ」
 烈火のごとく怒ったさゆりは、セクハラの罰として龍介に平手打ちを与えようと一歩踏みだす。
しかし少し勢いが良すぎたため、床にあった萌市のダンボールにつまずき、よろめいてしまった。
「あッ……!」
 何が起こったのかわからない数秒が経ったあと、龍介が把握したのは、
自分の腕の中にいるさゆりだった。
しかもさゆりも龍介にしがみついている。
両腕をしっかり掴みあい、お互い以外を全く見ていないというのは、形としては完全に抱擁だった。
 息がかかりそうな距離でさゆりを見つめた龍介は、なぜとはなく呼吸を停止させた。
眼下にある、薄暗がりの中でも輝いて見える黒い瞳は、まばたきせずに龍介を凝視している。
いつも彼女はこんな、冬の星空のような眼で自分を見つめていただろうか?
掴みたいと――それが叶わないのなら、ずっと眺めていたいと思うような瞳をしていただろうか?
龍介は戸惑い、彼女の瞳の中に答えを求めようとしかけて、不意に我に返った。
近すぎるさゆりの顔に、自分が極めて危険な状況に置かれていると理解する。
たとえ彼女がよろめいた原因が、自分を殴ろうとしたからであったとしても、
今の状況は紛れもなくセクハラで、先の分と合わせると、往復ビンタは覚悟しなければならない。
だがこれはあくまで事故であり、決して良からぬ意図があってのことではないと
さゆりに納得させる必要があった。
実にこれが難題で、新宿の地下には巨大な先史文明の遺跡があり、
そこに巨大な生物が封印されているという都市伝説を確認するよりも難しそうだった。
 思考回路をフル回転させた龍介は、まず、可能な限り優しくさゆりを抱きしめている腕を離し、
なぜか呆然としている彼女をまっすぐ立たせた。
それから慎重に後ずさりし、彼女の手が届かない位置まで退がる。
さらに手を広げて悪意がないとアピールし、意識してゆっくり喋った。
「ああ、ええと……怪我はないか?」
 さゆりの返事はない。
ぼうっとしているのなら、今のうちに逃げてしまおうかと思った龍介は、
それは少し酷いのではないかと自省して踏みとどまった。
何か機嫌を取る方法はないかと頭を巡らせ、ふと、胸のあたりに違和感を覚える。
制服の胸ポケットに手を突っこんでみると、そこには女性が喜びそうなものがあった。
「あ、あのさ、これ」
 薄暗がりでさゆりからは良く見えなかったので、手に直接渡す。
「私に……?」
 さゆりが手に載せられたものを確かめると、それは板チョコだった。
といってもコンビニで売っていないような、少し珍しいメーカーのものだ。
先日左戸井にパチンコの景品としてもらった物で、
その後すぐに除霊の出動があったりして存在を忘れていたのだ。
「あ、ああ、チョコがなくなったって言ってただろ?」
「でも、東摩君が食べたんじゃないって」
「そうだけどさ、落ちこんでただろ?」
「……ありがと」
 さゆりから一日に二度も礼を言われるなど前例のない事態なので、
彼女が機嫌を直したのかどうか、龍介には判断がつかなかったが、
とにかく危機を乗り越えることはできそうだった。
 危機回避が上手くいって、幾らか龍介は舞いあがる。
そのまま黙って一旦別れれば良かったものを、つい要らぬことを言ってしまった。
「ん? お前、ちょっと顔が赤くないか?」
「えッ!? そ、そんなことないわよ」
「大丈夫か? どっかぶつけたのか?」
「だ、大丈夫……よ」
 歯切れの悪さにかえって龍介は心配してしまう。
「霊に憑かれた影響が残ってるのか? 医者に診てもらうか?」
「大丈夫だってば」
「そうか……? 顔も赤いみたいだけど、熱があるんじゃないのか?」
 暗いところにいるので良く見えないさゆりに、龍介は顔を近づけた。
「だッ、大丈夫だって言ってるでしょうッ!?
先に戻ってるから、あんたもさっさと報告書書きに来なさいよッ」
 地面に落ちていたセミが突然羽ばたくように、いつもの調子に戻ったさゆりは、
そのまま身を翻して行ってしまった。
 とりあえずは危機を回避できた龍介は、さっそくさゆりの言いつけを破って、
報告書を書きに編集部に戻ろうとせずにぼんやりと考えていた。
 さゆりの怒りかたが、いつもとはどうも違う気がする。
その、どう違うのかを言葉にするのが文筆業だと千鶴なら言うだろう。
龍介も心がけてはいるのだが、まだ駆けだしの身で、どうにも頭の中をまとめられなかった。
 一分ほど考えて、早々と自分の国語的才能に見切りをつけた龍介の脳裏に、
不意に抱き起こした直後のさゆりの顔が浮かんだ。
 さゆりの顔は見た目は平均以上だと思う――口の悪さが平均の遥か下であるのと同様、
認めなければならない事実だ――が、あの時の彼女は、龍介にいつもと違う反応をもたらした。
うかつに身体に触ってしまったことに対する罪悪感というか、
そんなようなものを抱かせるような、有り体に言えば、見た目通りの可憐な少女である深舟さゆりだった。
もしあの表情で「謝って」と言われたら、過去の因縁はともかく謝らずにはいられなかったかもしれない。
UMAや宇宙人に遭遇するよりも貴重だと思われる、あの彼女がいつも降臨するなら
揉め事は起こらないし、除霊も雑誌の制作も今の倍くらいはスムーズにできそうな気がするのだ。
 ではこれが東摩龍介にとって理想的な深舟さゆりかというと、
なぜか素直には同意できず、疑問符がついてしまう。
しかもその疑問符がどこから生えてきたのか、頭の中を掘り返してみても、
どうにもはっきりしないのだった。
 薄暗い場所で考えこんでいても全く結論は出そうにないので、
龍介は諦めて編集部に戻ることにする。
その途端、床に置いてあった萌市の私物にしこたま足をぶつけ、
声にならない悲鳴を薄暗い部屋に響かせたのだった。



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