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巨大な満月が、ハーバーを照らしていた。
漆黒の海は月の光を持ってしても仄く、深く、あらゆる干渉を拒絶する。
闘いを明日に控えて、なんとなく寝つけなくなったベネッサは堤防の先に向かって歩を進めていた。
月明かりがあるとは言え、地面と海との区別はかろうじてつく程度なのだが、
ベネッサは自らの銀髪を灯りにしているかのように危なげなく歩いていき、
端まで辿りつくと、腰を下ろして自分を照らす女王を見上げた。
「月……か」
ほとんど無意識に呟くと、目を閉じて記憶を探る。
探していたものを見つけ、微かに笑みを浮かべると低い声で口ずさみ始めた。
それはもはやほとんど全世界共通になっている、素朴な歌だった。
誰に聞かせる訳でもなく、何を伝える訳でもない、自分の為の歌。
それは、今はもういない父から習った最初の歌だった。
(感傷に浸る歳でもないのにな……)
頭の片隅で自嘲する自分の声を聞いたが、それでも歌を止めようとはしなかった。
すると突然、後方から、静かに、合わせるように歌う声が耳に流れ込む。
それは街頭で歌えばいくばくかの金を手にする事が出来るほどには上手な歌だったが、
自分の時間を邪魔されたベネッサは腹立たしげに振り向いた。
月の逆光に阻まれて顔を見る事は出来ないが、ベネッサにはそれが誰だか解っていた。
「ウルフ……か」
「ああ」
呼ばれた男は短くそう答えると、その場に腰を下ろす。
ベネッサは再び海の方を向くと、無機質なまでに冷たい声で問いかけた。
「何の用だ」
「用などないさ。お前と同じだ。寝つけずに歩いていたら、懐かしい歌が聞こえたんでな」
「……そうか」
それだけを口にすると、片膝を胸元に引き寄せて顎を乗せ、ベネッサは黙り込む。
「邪魔だったか?」
「いや……構わない」
こう聞かれて「邪魔だ」と言いきれる人間はどれくらい居るのだろう?
そう考えたベネッサは、しかし、最初の激情が引くと、
自分がウルフの歌に心惹かれている事に気が付いた。
もちろんそれを態度に出すような事は無かったが、
それはかえって自分の心が自分の物で無い気がして、微かに苛立つ。
もともと普段から不要な言葉は口にしないベネッサだったが、そんな内心も手伝って、
波の音が静寂を奏でるのにまかせ、口をつぐんだ。
何も喋ろうとしないベネッサに、
ウルフは何か話しかけようと口を開きかけては首を振る動作を何度か繰り返した後、
ようやく言葉を選びだす。
「……憎しみを心に宿して戦うのはやめろ」
それはウルフの頭にいくつか浮かんだ語彙の中でも最も出来の良く無い言葉だった。
自分の間抜けさを呪いながら、ベネッサが激高するのではないかと内心軽く身構える。
しかし、ベネッサは軽く肩を震わせただけで、振りかえろうともしなかった。
「……に」
可聴域ぎりぎりの声で、ベネッサが呟いた。
ウルフは己の肉体に一切余計な音を立てないよう命令して、全神経を耳に集中する。
「お前に何が解る」
それは充分に予想された返答だったが、いざ実際に耳にするとそれに抗うのは容易な事ではなかった。
「私には……ダディしか居なかった」
他人の前では決して口にしない言葉を使ってしまった事にも気付かず、ベネッサは続ける。
「母も無く……幼い頃の記憶も無い。私の記憶は、ダディと一緒になってから始まったんだ」
言葉の異様さにウルフはわずかに眉をしかめるが、かろうじて沈黙を保つ。
「生きる術を教えてくれたのも、生きる目的を教えてくれたのも、……あの歌を教えてくれたのも」
ベネッサはそこで言葉を切ると、不意に感情が反転したのか、立ちあがってウルフの胸倉を掴んだ。
「それを……それを、一瞬で全て奪われて復讐するなだと!?」
ベネッサが怒っているのは、目の前のウルフにではなく、
感情を殺さなければならない事を解っていながら抑制出来ない自分に、
そして家族が殺されても他人事として処理しなければならないと考えてしまう自分にだった。
それをウルフは敏感に感じ取ったが、だからといって最善の行動が取れる訳ではなかった。
胸倉を掴ませたまま、ベネッサを見下ろす。
月の光を受けて白く輝く髪に、やや慌てたように目線を外した。
激情を形にする事で少し落ち着いたのか、
ベネッサはウルフを掴む手を緩めると硬い笑みを浮かべる。
「安心したよ」
無骨な物言いながら、それは明らかに照れ隠しの口調だった。
「ここで抱き寄せられでもしたら、お前の骨を折っていたかもしれないな」
「……それは良かった」
選択肢の一つに確かにそれがあったウルフは、自分の選択に感謝しながら苦笑いを浮かべる。
ベネッサは少しウルフから距離を置いて立つと、静かに語りはじめた。
「私が戦うのは……復讐だけじゃない。私は……私は、J6の出身なんだ」
「……なんだと?」
「私の父は、国の特殊部隊としてJ6の機関を襲った時に私を見つけて、養女にしてくれた。
だから、J6に近づく事は、私自身を知る為にも必要なんだ」
一語一語から魂を削るような痛みをほとばしらせているのが伝わってくる。
想像もしなかったベネッサの過去に、ウルフは安易に傷に触れてしまった事を深く後悔していた。
「すまない」
なんと言って良いか皆目見当がつかずに散々悩んだ挙句、結局、短くそれだけを口にする。
こんな一言で許されるとは到底思えなかったが、それでもウルフにはそう言うしかなかった。
しかし自分自身過去に向き合う事で心情がいくらかでも整理されたのか、
それともこのどうしようもない朴念仁の思いがわずかでも伝わったのか、
ベネッサは口元にわずかに笑みを浮かべる。
それを和解の印ととって良い物かどうか、ウルフは真剣に考え込んでしまった。
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