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葵が目を覚ました時、隣にベネッサの姿は無かった。
つい数週間前まではそれが当たり前だったのに、今はどうしようもなく不安になってしまう。
見渡しても気配は無く、親とはぐれた子のような恐怖に足首を掴まれた葵が、
薄い夜着のまま部屋中を探し回っていると、聞き覚えのある女性の闘声が窓の外から聞こえてきた。
慌てて着がえ、表に出る。
裏庭の一画、そこだけ芝生が刈り取られ土が露になっている場所で、
ベネッサとサラは拳を合わせていた。
不安から解き放たれた葵は、思いきりベネッサの胸に飛びこみたくて小走りで駆け寄ったが、
二人の半径三メートルほどに満ちている、
声をかけるのもはばかられるほどの冷たい空気に、足が勝手にすくんでしまう。
身体を動かすことも出来ず、唾を呑みこむのが精一杯の葵の眼前で、
二人は殺気を隠そうともしていない。
自分と対峙した時よりも険しい顔をしているベネッサに、
サラの実力を推し量って思わず武者震いをすると、まるでそれを合図にしたかのように、
じりじりと、足の指先だけで間合いを詰めていた両者の姿が突然ぼやけた。
たわめていた気合を一気に解き放った熱気と、二人の目にも止まらぬ動きが葵にそう見せたのだ。
截拳道のフェイントを多用したサラの足技と、それを断ち切るようなベネッサの拳が真っ向から
ぶつかり合い、鈍い音が幾度もこだまする。
どういう経緯なのかさっぱり判らなかったが、二人ともまるで手加減などしておらず、
格闘トーナメント本戦のような激闘を繰り広げていた。

三分ほども拳の応酬を行っていた二人が、突然動きを止める。
サラのつま先はベネッサの顎まで数ミリの所にあったが、
ベネッサの拳はサラの身体まで拳ひとつ届いていなかった。
「凄い……うちも、まだまだやわ」
絵画のようなその光景に全身を総毛立たせた葵は、
ハイレベルな闘いを間近で見られた事に感激しつつ、格闘家として気を引き締めなおす。
そんな葵の耳に、場違いな声が飛びこんできた。
「やったやった、私の勝ちね! いい、約束は守ってもらうわよ、ベネッサ」
「……仕方ないですね」
「あ、あの……」
あまりのサラの変わりように何が起こったか全く理解できず、
ようやくそれだけ声を上げた葵に、ようやく二人が気付いた。
「あら葵、起きたのね。もしかして見ててくれた?」
「は、はぁ、途中からどすが」
その言葉にサラは顔にますます喜色を漲らせ、ベネッサはふてくされたように頬を膨らませる。
初めて見るベネッサの子供めいた表情に、負けたのがそんなに悔しいのか、と訝りつつ葵は尋ねた。
「約束……言うてましたけど」
「それよそれ! ベネッサ、説明してあげて」
サラは勝者の権利としてわざわざ敗者に語らせ、
ベネッサは歯ぎしりしつつほとんどうなり声で葵に説明した。
「サラが、どうしてもあなたと1日デートしたいって言うから、
私に勝ったらって言う条件でOKしたんだけど……こんなに強くなってるとは思わなかったわ」
「はぁ!?」
自分が賭けの対象にされていたことを知った葵は、
驚きのあまり、素っ頓狂な声を出しているのさえ気付いていなかった。
動揺もあらわに叫ぶ葵に、サラの形の良い眉が泣きそうにたわむ。
「葵……私のこと、嫌い?」
「あ、いえ、そういうことやおまへんが、うちに何の相談もなしで……」
「だって、昔から好きな女は実力で勝ち取るものでしょ?」
字面だけ聞いていたら真っ当なことを言うサラに、
葵は助けを求めてベネッサの顔を見たが、彼女は諦めたように首を振るだけだった。
「そう言う訳だから、朝ごはん食べたらすぐに出かけましょ」
さっきの表情はどこへやら、サラは足取りも軽くシャワーを浴びに向かう。
その後ろをブルドッグのような表情でベネッサがついていき、葵も慌ててそれにならった。

ガレージに降りた葵を待ち構えていたのは、純白のスポーツカーだった。
車のことなど何も知らない葵でも、それがフェラーリだということは解る。
汚れひとつ無い車体は触れることさえためらわせるような輝きを放ち、
覗き込む自分の顔を映し出していた。
「気にいってくれた?」
少し遅れてガレージに入ってきたサラはしげしげと眺める葵の肩を叩き、
洗練された身のこなしで助手席のドアを開ける。
有名人になった気分で腰をおろした葵だったが、
予想していたところよりも低い位置にあったシートのせいで、
すとん、と数センチほど落ちてしまった。
柔らかな衝撃が与えられたことで、シートから革の芳醇な匂いがあふれ出す。
それだけでうっとりとしてしまう匂いに加え、熱すぎも、冷たすぎもしない極上の感触は、
ここで甘い言葉を囁かれたらどんな堅物でも身を蕩かせてしまうだろう。
シートに身体を押しつけてそれを存分に味わっている葵を
反対側から颯爽と乗りこんだサラが微笑ましく見守った。
「そんなに気にいった?」
「あ、は、はい……凄いどすね」
サラも取り立てて車に興味がある訳ではなかったが、
葵がこうまで喜んでくれれば悪い気がするはずもない。
二人は釣られるようにお互いに笑顔を浮かべ、早くも心を浮き立たせていた。
「それで、どこにいきはるんどす?」
「海! 近くにうちのプライベートビーチがあるのよ。そこに行きましょう」
葵の質問を聞かれるのを待っていたとばかりに即答したサラに、
それを車から数歩の距離を置いて何食わぬ顔で聞いていたベネッサの顔の筋肉がわずかにひきつった。
「あの……うち、水着なんて持ってきてまへん」
「そんなのいくらでも買ってあげるわよ」
サラが気取ってウィンクすると、葵は今更のように照れて俯いてしまう。
黙りこくった葵に替わって声を上げたのは、手持ち無沙汰で立っていたベネッサだった。
「……待ってください。遮蔽物も無い、だだっ広い空間では危険過ぎます」
「そんなこと言って、あなたも葵の水着見たいだけでしょ。
ダメよ。今日は葵と私、二人っきりで過ごすんだから」
二人きり、の部分を強調するサラに、ベネッサはほとんど噛みつかんばかりの顔をしたが、
何しろ自分から言い出して負けた以上、従うしかなかった。
それでも、なんとか少しでも長い間引きとめようと口を開いたところで、
絶妙のタイミングでサラがエンジンを始動させた。
ガレージ内に響き渡る轟音に、葵はたまらず耳を塞ぎ、ベネッサもとっさには行動に出られない。
「じゃあねベネッサ、留守番よろしく!」
そう言い捨てて行ってしまったサラが見えなくなってから、
ベネッサは近くにあった小石を思いきり蹴り上げた。

サラに連れられて入ったスポーツショップ。
その水着コーナーの鮮やかさに葵は目も奪われんばかりだった。
「なんでもいいわよ。好きなだけ選んで」
「は、はぁ……」
そう返事はしたものの、葵はどこから見てよいのかさえ戸惑っていた。
実のところ、日本にいた時も水着など買ったことはないので、
流行や自分の好みさえさっぱり判らない。
途方に暮れてサラを見ると、心得た、とばかりに大きく頷いた。
その恐ろしく真剣な顔に圧倒される葵の手を引いたサラは、
自分の水着を選ぶよりも熱心に品定めを始める。
「これなんてどう?」
「……ちょっと、派手すぎやおまへんか?」
「そうね……じゃ、これは?」
「こ、こんなん着られるわけおまへん!」
一分も経たないうちに早くもサラが当てにならないことを知った葵は、諦めて自分で選ぶことにする。
手早く店内を一周して選んだのは、結局ごく普通のビキニだった。
それでも葵にとっては大冒険だったし、「ごく普通の」でなくなると、
サイズの関係で次はいきなりほとんど紐のような水着になってしまうので、
さすがにサラも無理強いはしなかった。
「それでいいの?」
「はい、これにしやす」
再び更衣室に入ろうとした葵を、サラが笑って止める。
「そのまま着てっちゃいなさいよ。もうすぐそこなんだから」
「あ……そ、そうどすね」
葵は返事をしながら、小学生の頃、水着を着たまま学校に行ったことを思い出して小さく笑った。
それを見たサラが訝しげな顔をする。
「ん? どうしたの?」
「いえ、なんでもありまへん。ほな、いきまひょか」
「何よ、教えなさいよ」
サラの小学生の頃はどんな子供だったのだろうか、そう考えると笑みが止まらない葵に、
サラは首を傾げるばかりだった。



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