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広大な敷地内に、女性の声が響き渡る。
ひとつではない。
そして、一種類でもなかった。
短く、気合の篭った声は、低い英語。
そしてそれにやや遅れて聞こえてくる日本語は、同じく短かったが、
先の物よりも高く、若さを感じさせるものだ。
広大な邸宅の敷地内の、緑色に支配された一角で、ベネッサと葵は組み手を行なっていた。
もちろん格闘トーナメント本戦のような本気ではないものの、
二人とも目には真剣な輝きを宿し、特に葵は柔和な顔を修羅のように変貌させている。
二人は今では姉妹のような間柄であったが、その葵がこのような顔をしているのは、
この組み手を自分から言い出したというのもあるが、
あまりにも高い壁となって自分の前に立ちはだかるベネッサ達との差がそうさせていたのだった。
ベネッサと、この邸宅の所有者の娘であるサラ。
二人は優しく、葵はここで過ごす日々にとても充実したものを感じていた。
幼い頃より様々な稽古事を躾られてきた葵はほとんど外の世界を知らなかったので、
サラとベネッサに見せられる異国の地の、何もかもが新鮮だった。
そしてなにより、女性でありながら強さを求める葵にとって、
現在の自分の実力を遥かに凌駕する二人との練習は、この上もない刺激となった。
載拳道の達人であるサラと、軍隊式の格闘術をマスターしているベネッサの強さは、
葵にそれまでの闘い方を捨てる決断をさせるに充分なものだった。
むやみに先手を取ろうとするのではなく、後の先を意識する。
合気柔術の基本たる闘い方に立ち返り、倒すよりも負かすことに重きを置くことにしたのだ。
攻めようとするから見えなくなる動きも、防御に専念すれば見えるようになる。
女性にしては血気盛んであった葵は、格闘トーナメントという大舞台を意識する余りに
己を見失ってしまっていたのだ。
結果はもちろん惨敗で、葵は初戦で敗退したどころか、
その時の相手だったベネッサに脅威を意識すらさせることなく倒された。
己の奢りに愕然とした葵は、幾つかの事情が重なったこともあり、
トーナメント終了後にベネッサに連れられ、
彼女の雇い主であるサラ・ブライアントの屋敷に居候することにしたのだ。
次のトーナメント開催の時のために、サラとベネッサ、
二人の格闘家に教えを乞い、日々修行する。
その中で葵は、ようやく自分がどのような戦い方をするべきか、光明を見出したのだった。
唸りをあげて放たれるキックを体を巻き込むようにして躱す。
躱されたベネッサはそのまま、脅威的なバランスで倒れることもなく、
ニ撃目のキックを放つが、これも葵は避けた。
荒さと精密さが過不足なく同居したベネッサの攻撃は
一瞬たりとも気が抜けず、ありとあらゆる対応が求められる。
距離を置いた葵は呼吸を整えながらも、目だけは片時もベネッサから逸らさなかった。
中々決まらない攻撃に、ベネッサはわずかに苛立ちを覚えているようだ。
好機だったが、葵はなお慎重に出方をうかがい、受けに専念した。
力を溜めたベネッサが攻勢に出る。
しなやかな半円を描いた拳を、最小限手を添えていなすと、
そこにはかつては見えなかった、これから己の打撃が描く軌跡が見えた。
吸いこまれるように葵は、腕をその軌跡に乗せる。
気づいたベネッサが左腕で庇おうとするが、間に合わない。
葵自身が会心と思うほど、手刀はベネッサの鎖骨の中心を捉えていた。
華奢な、白い拳が一本の線となって身体に伸びてくる。
防御を──いや、間に合わない。
腕での防御を断念せざるを得なくなったベネッサは、無駄と知りつつ踏ん張りをきかせ、
いくらかでも来るべき衝撃を和らげようと試みた。
そこにありえざる速度で、アッパーが割って入る。
白い、人形のような葵の腕ではない、褐色のごつごつした、木の幹のような腕。
それは、ベネッサ自身でさえ予期していない攻撃だった。
意思によらない苛烈なまでの防御本能。
格闘兵器として「開発」されるはずだった運命が、
未だ忌まわしい呪縛となってベネッサを支配していたのだ。
武道家として未だ未熟な葵は初めて有効打が入る喜びに、防御が散漫になっている。
完全な死角から打ち上げられた拳は、無防備の顎に致命打を与えるだろう。
ベネッサは己の全神経に命令を発して、全身で腕の軌跡を捻じ曲げた。
無茶を言われた筋肉繊維が悲鳴を上げたが、構わず身体ごと捻った。
「……!!」
手刀が肩を叩いた時、拳は葵の眼前を打ちぬけていた。
カリフォルニアの夏風を受けたかのように黒髪が踊る。
己の攻撃を外したベネッサは、しばらくの間動かなかった。
まだ肉体が制御下にあるのかどうか、確証が持てなかったのだ。
倒すのではなく、殺そうとした拳。
急激に冷えていく身体に、ベネッサは疎ましさしか抱けなかった。
一方葵も、それまでとはまるで異質のベネッサの攻撃に、やはり動けなかった。
組み手なのだから、命のやり取りを意識する必要はない。
もちろんそれは、本気ではない、ということではない。
葵は全力で撃ちこんでいるし、ベネッサも手加減はしてくれているが、
それでもまともに当たれば痣では済まないだろう。
しかし、今のベネッサの攻撃は、明らかに致命傷となるものだった。
息の根を止めるという、あくまでも武道とは異なる格闘の深淵を覗いたのだ。
それでいてわずかの殺気さえも感じさせない攻撃に、恐怖を感じない訳はなかった。
それでも、最低限の覚悟はできていたし、己の未熟を素直に認めもして、
葵は肩から大きく力を抜いてベネッサに微笑みかけた。
「やっぱり、まだかないまへんなぁ」
軽く首を傾げ、心の底からの感情が出ている笑み。
それは普段ならベネッサや、今はこの場にいないサラを魅了せずにはいられない笑顔だったが、
ベネッサは、感覚の全てを閉ざしたような能面のままだった。
「……ベネッサはん?」
呼びかけてみても、ベネッサは顔の筋肉の一ミリをも動かさず去っていってしまった。
サラの邸宅に来て数ヶ月、初めて見るベネッサの反応を、葵は呆然と見送るしかなかったが、
やがて我に返ると、慌ててベネッサの後を追った。
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