降りまわされていた武器が、高みにあった枝にぶつかり、ギルバートの手から離れた。
マキャヴィティは、ゆさゆさ揺れて葉を散らせる枝を見上げた。

―――よくも、あんな高い場所に届くものだ。

ギルバートのジャンプ力はすさまじい。この街で、一番高く飛べるのはタンブルブルータスだろうが、ギルバートもなかなかだった。

長い武器は、回転しながら落ちてきた。マキャヴィティの傍に、下草を千切るように深く、突き刺さる。
ギルバートが走り寄る前に、マキャヴィティはそれを抜き去った。掌のなかで、すべすべしてずっしり重い武器を値踏みする。中心がわずかに太い。

「すまんすまん」

ギルバートが、それをよこせと無造作に片手を伸ばした。
マキャヴィティは、渡すまいと胸に「棍」を抱きこんだ。まるでギルバートの目から隠そうとする仕草に、三毛猫の眉根が寄った。

「寄越せよ」
「いいよ。その代わり、なんでも俺の言うこと聞いてくれる?」
「冗談は止せ」

すぐに不機嫌のオーラが、三毛猫から立ち昇る。

「いっこだけでいいから。俺のいうことなんでも聞くって約束してくれたら、返してあげるよ」





ギルバートがふいに肩の力を抜いた。体から怒気が消える。
くるりと背中を向けて、ギルバートは歩き出してしまう。

「え? ちょっと、待ってよ!
ギル、これ…」
「お前にやる!」

振り返りもせず、ギルバートはどんどん足を速める。マキャヴィティは棍をしっかり抱いたまま、ギルバートの後を付いて回った。

「待って、ごめん、ごめんって。返すよ、ほら!」
「いらない。お前にやった!!」

マキャヴィティはそんなぁ、と情けない声をだしてみたが、ギルバートはますます足を速めるだけだった。ざかざかと、競歩のように土を蹴散らしながら、目的地もなく歩き続ける。話しかけても返事もしない。
下手に出ていたマキャヴィティも、だんだん苛立ってきた。

「あっそう。ギル、いらないんだ…」
 
ギルバートは答えない。彼を振り返らせることに失敗し続けたマキャヴィティは、すぐに善い事を思いついた。
幸い、公園には大きな池がある。ほとんど湖と言ってもいいような大きな水面が、月光を反射してきらきら光っている。

マキャヴィティは大きく振りかぶって、ギルバートの大切なおもちゃを池の中心に投げつけた。

水音が跳ねて、ギルバートはやっと何事か、と、そちらへ視線をやった。ギルバートの大きな目が夜の池に向けられるのを、マキャヴィティは薄笑いしながら見守った。

木でつくった武器だから、棍はしばらくはぷかぷかと浮いていた。先端を金属で処理してある分、片方の端から沈んでいって、金色の頭を立てるようにして池の中へ消えて行く。

ギルバートは、軽蔑するようにマキャヴィティを睨むと、その場から離れるためにゆったりと歩き出した。

「ギル?」
「なんだ」
 
ギルバートは、今度は無視せず足を止めて、マキャヴィティへ答えた。怒りを抑制した、冷たい声だった。

「あのおもちゃ、無くなっちゃうよ。いいの?」
「しかたがないだろう。水に沈んだら、もうどうしようもない」
「だ、…って」

あの棍は、ギルバートが大切に手入れしていたものだった。





不器用なギルバートが木の枝から造形しても、どうしても曲がったり、途中で折れたり、表面が粗かったりして、長く使える代物はできなかった。遊ぶたびに、ギルバートの掌に棘をのこす棒を、見かねたマキャヴィティがこっそり遠くへ捨てたこともある。
そのときは、烈火のごとくギルバートに怒られた。

たとえ小さな棘といっても、肌の中に残って化膿でもされたら、傍で見ているマキャヴィティが溜まらない。ギルバートに散々叱られながら、マキャヴィティはでも、と思っていた。

―――俺、悪くないもん。

目じりに涙を溜めながらも、マキャヴィティは絶対に謝ろうとしなかった。反抗的な態度にギルバートは激怒して、お互いに暫く口を利かなかった。一ヶ月ほどは、間に挟まったコリコパットがあたふたするほど、二匹の間は険悪だった。賢いミストフェリーズは口出しせず、静かに傍観しながら、たまにコリコパットの肩をたたいて瞳で説得した。
「放っておきなさい」。
「関わっても無駄だから」。





そのとき失くした棒よりも、今マキャヴィティが池の中に捨てた棍のほうが、ずっとギルバートにとっては大切な物のはずだった。
ガスが、昔使った小道具だと言って、ギルバートにくれたただ一本の武器だった。ガスが溜め込んでいる若かりし日の栄光のよすがを、誰かにあげるなんてことは滅多にない事だった。たとえ百あるうちの一つでも、ガスは誰にも、ジェリーロラムにさえ容易に触らせようとはしない。

その思い出の形見を、ギルバートはガスから貰いうけた。
彼がどれほど感動したかは、言うまでもなかった。
本当は、マキャヴィティがそれを「おもちゃ」あつかいすることさえ、ギルバートは腹にすえかねていた。

マキャヴィティはそうと知っていたから、ギルバートを怒らせたいときや、彼に怒っているときは平気でそれを「おもちゃ」呼ばわりした。

そうするとギルバートが途端に不機嫌になるので、面白かった。
まるでリトマス試験紙のように反応が顕著で、ギルバートは分かりやすい。

だから、マキャヴィティはすぐ気付いた。

ギルバートは怒鳴りもせず、真っ黒い目でマキャヴィティを見つめている。体から余計な力が抜けて、一年草のように自然にまっすぐ立っている。逞しい体が、今は風にさえそよぎそうだった。

今までないほど深く、ギルバートを悲しませている。
そういうつもりは、マキャヴィティにはなかった。





うなだれるマキャヴィティが、もう一言も発しないのだと知ると、ギルバートは鮮やかに踵を返した。草を掻き分け寝床へ向かう。
不貞寝というわけではないが、胸のつかえを取るのにいつも有効な、身体を動かすことさえ、何かの欠損を思い出させて今は逆効果だ。
掌を握りしめると、そこが所在無い。

未練を振り払うように、ギルバートはぶるりと身体を震わせた。全身の毛を膨らませて夜風を孕むと、腹の底がすこし冷えて、心が落ち着いた。

背後で、ざっと水が鳴る。

振り返ると、マキャヴィティの姿はどこにもなかった。

「マキャヴィティ?」

水面が波立っている。
透明な水が丸く盛り上がると、黄色い小ぶりなふたつの耳が現れた。そのまま滑るように移動して行く。

「マキャヴィティ?!」

ギルバートは何かの話のついでに、マキャヴィティは泳げる、と彼自身から聞いたことがあった。けれど、ギルバートは泳いでいる猫を見るのは生まれて初めてだった。泳げるものは、魚と水鳥くらいしか知らなかった。

暗い池をマキャヴィティは泳ぎ渡り、中ほどへ到達すると、頭から潜ってしまう。すっかり水面が凪ぐまで、彼は顔を出さなかった。

ギルバートは、呆然とそれを見ていた。
 
後悔しても遅かった。
物なんかに執着せず、さっさと許してやるべきだった。

マキャヴィティの黄色い大きなふかふかの体は、深く水の中に沈んでいる。彼が顔を出すまで、ギルバートは無意識に自分も呼吸を止めていた。心臓が強く脈打つ。ずきんずきんと、こめかみに痛みが走った。

水面が丸く波紋を描き、目を閉じた顔がぷかりと現れた。遠い分、小さく見えるマキャヴィティは、表情を変えずにほとんど息継ぎもせず、…少なくともギルバートにはそう見えたのだが、そのまま、池の底へ消えた。

ギルバートには分かっていた。

―――つられない、ぞ。

マキャヴィティは、わざとギルバートを心配させようと危険なこともする。彼が子供じみた我侭を発動させたときは、相手にならないのが一番だった。泳げると言っていたし、本当はギルバートがやきもきする必要はない。

それでも、ギルバートは一匹でねぐらに帰る気にはなれない。
息を殺して、おとなしく待つしかなかった。

足に根が生えたように、じっと大地に立っていたギルバートが、しだいにそわそわと足踏みするようになる。足元の草が折れて、青臭い匂いが立ち込めた。
働き者の虫達が、叢のなかで立ちすくむギルバートにまつわり、耳元でぶんぶんと羽音を響かせた。ギルバートは手刀を一閃して、そのうちの一匹を叩き落す。透明な羽根が胴体とばらばらに地面に落ちると、恐れをなしたように虫たちは遠くへ逃げる。
ギルバートは鼻息荒くすごむと、ぐしゃぐしゃと自分の毛並みをかき混ぜた。

―――なにをしているんだ、あののろまは…!

さっさと諦めて戻ってくればいいのに。黄色い頭は何度も水面に顔をだしては、また暗い水の中へ消えていった。
池は、湖かと思うほど広い。

―――無理に決まってるじゃないか。

心配したら負けだと思っても、ギルバートは見捨てて帰ることができなかった。ギルバートが何度息を止めたか、数えていられなくなったころ、マキャヴィティは頻繁に息継ぎを繰り返すようになった。潜っていられる時間が短くなり、浮き上がると、暫くは冷たい水を掻いて、口を喘がせている。

疲れたのだろう。当然だった。

「もういい…戻ってこいよ」
俺の負けだよ。
ギルバートは呟いたけれど、池の中心近くにいる黄色い猫には、当然聞こえなかった。

「戻って来い!!
帰ろう!」

ギルバートの声に気付いて、マキャヴィティは微笑んだ。
遠目でも分かるように、大きく片腕を上げて合図を送ると、そのまま勢いよく水中へ飛び込む。

「あいつ…!!」

ギルバートの脛が漣を掻き分け、彼の毛並みは水藻のようにそよいだ。思わず池の中に分け入っていたギルバートは、冷たさに気付かず前のめりになって池の中心を睨み続ける。

マキャヴィティは、少しも浮かんでこなかった。

「どうせ、また俺をからかってるんだろうが!」

ギルバートは、ざぶざぶと水を蹴りながらマキャヴィティの大きな体を水面に捜した。喉に波が当たる。
風が強くなってきた。

ギルバートは、大きく息を吸い込むと頬を膨らませて頭から水に潜った。

体が浮き上がるような、未知の感覚がギルバートを包み込む。
胸を押さえられているようで、地上で息を止めるよりもここでそうするほうが、ずっと難しそうだった。思ったより、寒くはなかった。

ギルバートは、恐る恐る目を開けてみた。
暗闇を見通す猫の目に、水中の世界は思いがけないほどくっきりと見えた。翠がかった視界を覆うように、鮫のように大きな影が、ギルバートの目前で眼を光らせている。

ギルバートの口から、拳ほどもある気泡がいくつも飛び出した。
続いて小さな泡が、纏わるようにそれを追う。

ギルバートの喉が痙攣し、爪が三毛の身体を掻き毟ろうとするのを、大きな影が押さえつけた。

―――マキャヴィティ!

縦も横もわからないギルバートの首根っこを掴むと、黄色い猫は器用に泳ぎ出した。そんなはずはないのだが、ギルバートは彼がもっとも深い場所、池の中心へ向かっているのではないかと錯覚した。