岸辺へ辿り着く頃には、ギルバートの思考は整合性を取り戻していた。けれど彼の頭は、別の興奮でぐつぐつと満たされた。

「びっくりするだろうが! 
どうしてお前はそうなんだ!!」

ギルバートがマキャヴィティに飛びかかると、二匹の毛並みは濡れてぺったり体に張り付いていたので、とても掴みにくかった。すぐに双方とも泥だらけになる。

「だって、ギルが俺のこと無視するから悪いんだろう!」

マキャヴィティはギルバートの頭を掴んで、土に押し付ける。

「お前が筋の通らないことを言うからだ!」

ギルバートの後ろ足が、マキャヴィティを何度も蹴る。黄色い猫の白い腹に、ギルバートの爪あとがいくつも筋を引いた。
とうとうマキャヴィティは弾き飛ばされた。

黄色い猫は泥の上に尻餅をつき、尾骨のじんじんする痛みに顔をしかめた。ギルバートは、馬乗りになってマキャヴィティに殴りかかった。
黄色い猫は腹を擦りあわせてギルバート抱きつき、拳の威力を半減させる。ギルバートはもがいた。牙を光らせて叫ぶ。

「なんで俺のものを返してもらうのに、交換条件が必要なんだ!!」

ギルバートが腹をたてているのは、この一点だった。

「そんなに怒ることないだろう?!
 ほんのちょっと、冗談をしたつもりだったのに!!
ギルは、俺がぜったい無理を言うって決めてかかってる。
俺はただ、明日も一緒にあそぶ約束をしたかっただけなのに!」

ギルバートは、ますます憤って黄色い猫の肩に思い切り噛みついた。

「痛い!!」

マキャヴィティはギルバートの背中に爪をたてて、ばりばりと引っ掻いた。
ギルバートの鼻に皺が寄る。
顎にいっそう力を込めて、黄色い猫を噛み締めた。

「痛い、痛いって!ギルの馬鹿やろう!!」

マキャヴィティと違って口の塞がっているギルバートは、ふーっ、ふーっと威嚇音を続けざまに発して、黙って背中の痛みに耐えていた。
よだれが牙を伝い、マキャヴィティの濡れた毛並みのなかへ溶けて行く。

「汚いなぁ、もう!」

肩に滴る温かいものに気付いたマキャヴィティは、そう罵ると、ギルバートをしっかり抱えあげて立ち上がる。暗闇を迷うことなく歩き出した。池の中へ。

「放せ!!」

彼の意図に気付いたギルバートは、牙を外して必死で手足を動かした。こうぴったりと体が密着していては、どんな攻撃も力を削がれる。

逃げられずにいる三毛猫の背後に、月を反射する水が黒く迫った。

ギルバートは仰け反り、息を吸い込もうと大きく口を開いた。すかさず、黄色い猫の大きな掌が、顔の半分以上を覆った。





 ギルバートの喉仏が、引き攣るように上下に動いた。眦が裂けるほど見開いた目で、マキャヴィティを凝視する。頭に冷たい水の感触があり、耳にはじかに、ちゃぷちゃぷと漣の声が聞こえる。

頬を、波が打った。

マキャヴィティはギルバートを片手で抱えていた。ギルバートは、顎まで水に浸かっていた。
マキャヴィティは、それ以上彼を水に沈めようとはしなかった。口と鼻を覆っていた手を除ける。

「ごめんね、ギル。もう仲直りしようか」
「いやだ」
「ごめんね。お詫びに、なんでもするから」
「なんでここでやめるんだ」

ギルバートは納得いかない。
どうせやめるなら、自分が優位にいるときに、鮮やかに黄色い猫を許してやりたかった。今の状況で手打ち、なんてことになったら、ギルバートの面子が立たない。

「だって、これ以上ヤったらしゃれにならないよ」
「じゃあ、あっちの原っぱに行こう。それで続きをしよう」
「ギル、ずるい!
長引いたりしたら、ギルが有利になるの分かりきってるじゃないか」
マキャヴィティは悔しそうにうめいた。

「なんでだ?別に、俺だって疲れてるんだし、条件は同じだろう?」
「嘘ばっかり。俺が、長く走ったり、跳んだりするの、そんなに得意じゃないのはギルだって知ってるじゃないか」
「俺だって長く走ったら、疲れるぞ。そんなの皆同じだ」

ギルバートはとぼけてみせたが、黄色い猫は絶対に頷かなかった。

「ずるいよ、ギルは。自分が勝つまでやめないつもりだろ」
「お前だってそうすればいいじゃないか」
「だからずるいんだよ、ギルは!」

マキャヴィティは泳げるぶん、水を恐れない。
ギルバートは若くて体力があり、鍛えている分持久力がある。

公平なようでいて、フィールドを移そうというギルバートの提案は、ギルバートにだけ都合のいいものだった。
「わかった、わかったよ。
じゃあ、今日はお前の勝ちでいい」

「最初からそうしてくれよ!」
マキャヴィティは悲鳴を上げた。

水面は黒く、星や月を反して波頭だけが白かった。
ギルバートは、くんくんと友達の匂いを嗅いでみた。

「……うげっ」

生臭い。ギルバートは顔をしかめて舌を突き出した。黄色い猫は、ギルバートを高く放り投げる。ギルバートは握った両手の拳を、顔の前でそろえた。膝を抱えるように丸くなる。足の指までぎゅっと拳を握った。満月のなかに、手足を縮こめる小さな猫の、シルエットが黒く納まる。次の瞬間に、月に届きそうなほど長く水柱が立った。

ギルバートは緊急で会得した犬掻きを駆使し、やっとのことで岸辺へ戻ってきた。生存本能の賜物だった。

本気で泣きを入れながら、ヘドロの混じった泥水を吐き出していると、黄色い猫が淵まで彼を迎えにきた。そう、ギルバートは思ったのだが、違ったらしい。

「臭い水をいっぱい飲んだから、もうひとの匂いは気にならないだろう?」

にっこり微笑みながら、黄色い猫は見下ろしたギルバートの傍を通り抜ける。浅い波打ち際を、何かを探すように歩いていた。

マキャヴィティは腰を屈めて、池のなかに手を差し入れる。水しぶきを滴らせながら、長い美しい武器を拾い上げた。
棍の両端から銀色の曲線を描いて、水が池に還って行く。月の虹のようだった。

「あったあった。
よかった。せっかく拾ってきたのに、隠した場所を忘れちゃったかと一瞬あせったよ」

ギルバートは、あんぐりと口を空けて黄色い猫の手の中の棍を見つめた。

「お前、いったいどうやって」
「なに?
こんなの、すぐに見つけたよ」
「じゃあ、どうしてすぐ戻ってこなかったんだ」
「ああ、池のなかに潜ったら、いっぱい魚がいたから。
あんまりいっぱいいるから、一匹くらい捕まえられるかと思ったんだけど、片手はこれで塞がってたし、やっぱり、水の中を泳いで魚を捕まえるなんて無謀だったのかな。追いつけやしなかったよ。
けっこう頑張ったけど、一匹も仕留められなかった」

マキャヴィティはギルバートの手に、彼の大切な棍を握らせる。

「ごめんね。ギルの大事なものなのに。
ブチ切れて、意地悪してごめんね。
もうしないよ」

まっすぐにギルバートを見つめるマキャヴィティの目は、まるで射抜くようだった。お前も謝れ、と命令されているようで、ギルバートは息苦しかった。

ギルバートがそっぽを向くと、黄色い猫は苦笑して彼の肩に手を乗せる。ギルバートは呼ばれたように、黄色い猫を見上げた。誰かの体温は、たいてい心地よい。特に、全身ずぶぬれの時はそうだった。掌の重さに励まされて、ギルバートは黄色い猫を叱った。

「お前が、変なこと言うから悪い」
「ごめんね」
「ガスの大切なものなのに、粗末に扱うな」
「ごめんなさい」
「わざと心配させようとしただろ」
「そうだよ。ごめん」
「……」

 謝られてしまうと、それ以上ギルバートは責められない。
透明な視線が、ギルバートの眉間に突き刺さる。
 ギルバートはとうとう小さく口を開いた。

「俺も…悪かった」
「いいよ。許してあげる」
またマキャヴィティの勝ちだった。




ギルバートを謝らせてから、やっとマキャヴィティは別の話題も口にしだした。それまでは決して、自分から口を利こうとしなかった。
「すごく大きな魚がいた。
びっくりしたよ。ギルのお腹くらい太かったよ」
「へえ。すごいな」

長身のマキャヴィティは、手足の長さだけが目立って、実際よりずっと華奢に見えた。本当は、鍛え上げたギルバートと同じくらい、彼の腕や胴回りも太い。

「ニンゲンより大きい魚もいた…飲み込まれるかと思った」
「うそだ。そんなわけないだろ」
「うそじゃないって…あれ、本当に欲しかったな。みんな羨ましがるよ。
 一匹捕れたら、百日は寝て暮らせるね。それくらい大きかった」
「お前の頭には、腐るとかそういう言葉はないのか」
「俺たちくらいの大きさなら、三日で食べ切れる?
三日くらいなら大丈夫だろ」
「無理に決まってる」

マキャヴィティは、ニンゲンの食べ物を好んで食する。だから狩りの実感が乏しいのだろう。三日も四日も腐らないなんて、ギルバートには食べ物というより、プラスチックか何かのようにしか、思えない。

「あのな、生の魚なんて、一晩で腐る。そんなもの食べたら、下してかえって腹が減ることになるんだから、諦めろ」
「でも、釣りは楽しそうだよ。
今度、道具を作ってやってみようか」
「ダメだ。自分が食べられる以上の狩りは、絶対に駄目だからな」
 
月光は掠れて消えて、真っ黒い空は星を塗りつぶしていた。
空気は凪いだ。もうすぐ、朝日が昇る。

「ああ、眠い。ギル、お腹空いてないか?」
「まあな。しかたない」

狩りをしているヒマはなかった。
喧嘩というのは、本当に体力を使う。それでいて収穫がないので、しないに越した事はない。それでも、二匹はしょっちゅう衝突した。

一緒に暮らし始めた時は、少しもそんな気配はなかったのに、お互いを知れば知るほど、諍いも多くなる。マキャヴィティは、ほとんどギルバートの傍にいつかなくなった。一度こじらせてしまうと、不仲は長引いた。
今日も、久しぶりに昼夜を一緒に過ごしたのに、また喧嘩を始めてしまった。

「ごめんね、ギル」
黄色い猫が、せつない声を出す。
「俺が邪魔したから、狩りをする時間がなかったね。ごめんね。
ギル、一眠りしたら、きっとギルの好きなものを捕ってきてあげるから」
「じゃあ、俺はお前のすきなものをな」
 
何度も謝られるのは苦手だった。
一度で充分だった。

ギルバートは、居心地の悪さを振り払うように棍を回転させた。
マキャヴィティは身を低くして避ける。

「あ、悪い」
「ギル……ちょっと考えなしだよ」
「悪かった、って」
「当たってたら、どうするんだよ」
「すまない」
「ギルの力は強いんだから、誰かに怪我をさせないよう気をつけないと」
「しつこいぞ、マキャヴィティ」

ギルバートが睨むと、黄色い猫は悲しそうに鼻を鳴らした。

「ギルがあんまりこっちの思うとおりに動いてくれるんで、たまに苦しい。切ないよ」
「お前なぁ…本当にねぐらから叩き出すぞ」
「嫌だ。今日も一緒に寝る」




どんなに酷い殴り合いをしても、二匹は必ず一緒に眠った。
そういうときこそ、マキャヴィティはギルバートに身体を押し付けて眠る。嫌がらせか、とギルバートが聞くと、黄色い猫は心底傷ついた顔で睨み返してきた。それが彼なりの、さびしさの表現なのだとがさつなギルバートが気付いたのは、つい先日のことだった。

「ギルの背中、毛並みはぐしゃぐしゃだし、酷いことになってるよ。あとで手当てしてあげるから」
「ああ、頼む」

ニ匹とも、力だけ無駄に強いから、我に帰ってみると傷は深刻なものだった。
喧嘩のあとは、お互い手当てしあう。

自分では目の届かない場所もあるから、それなら相手の治療を引き受けたほうが効率がいい。仲直りのきっかけをつかむために、黄色い猫が始めたことだったけれど、それで頑固なギルバートが折れる事はほとんどなかった。

黄色い猫が謝ってからなら、すぐにギルバートは彼を許した。
それ以外の方法はなかった。

マキャヴィティに、苦しそうに謝罪されると、ギルバートの胸はなんだかざわめいた。
逆に反抗されると、鼻づらをひっつかんで振り回したいほど腹が立つ。

ギルバートから謝ることはなかった。それが二匹の力関係だった。

マキャヴィティが意地をはると、どこまでも平行線で、そういう喧嘩は長引いた。ギルバートは毎晩抱かれて眠りながらも、一月ほど黄色い猫と口をきかなかったこともある。

それでも、ギルバートは、黄色い猫に出会ってからは自分の血を舐めたことがない。
自分の血の味を、忘れてしまっていた。





ねぐらに帰り着くと、マキャヴィティは疲労を思い出したように立てなくなった。
ギルバートが先に、彼の手当てを済ませる。

マキャヴィティのしょっぱい血を舌で味わっていると、目の前の柔らかい肉を食べてしまえないのが、いっそ不思議だった。マキャヴィティの体は固く引き締まっていたけれど、使い込まれた筋力でその肌は柔らかい。

今日もギルバートは、表面を舐めるだけでごちそうを我慢しなければならなかった。それは辛くて歯がゆいことだった。特に、空腹が胃を刺す今日のような日は。

マキャヴィティの肩に唇を寄せて、骨ばった彼の首筋に鼻先をうずめながら、ギルバートは一心に傷を癒していた。

「あ……ギル!!」

牙が穿った穴を、舌先で抉る。あふれ出る新しい血を、唇をすぼめて啜ると、マキャヴィティが喘いだ。

「ごめん。痛いか?
でも、池の水に漬かったから、いつもよりもっと綺麗にしておかないと、傷が悪くなる。もうちょっと、我慢な」
「わかってる。
だけど、やっぱり痛いんだよ」
「後で俺に同じことさせてやる。
今は我慢してろ」
「ギル、…」

マキャヴィティの長い指が、ギルバートの背中につけた傷を数える。

「愉しみ……」

マキャヴィティの声が歪む。
笑いと、それ以外の得体の知れない感情によって、いつもより低い声が語尾を震わせた。

背筋がぞくりとあわ立つ。背中を反らしてマキャヴィティに乗り上げながら、ギルバートは手当てを続けた。
もう一度強く、傷口を吸い上げる。

三毛猫に押し倒されたマキャヴィティの肌に、鬱血が赤い痣となって残った。





『日常』
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2006.10.01