枝のねじくれた大木が、一本だけ白い花をつけていた。
それだけで若木100本の値打ちがある、古さくらだった。奇妙に歪んだ黒い幹を、ギルバートは見慣れている。なつかしい、良い想い出がまつわる、木陰の涼しい大木。周りをぐるぐる回る。
老木のおかげで今日の獲物は手に入った。木の蜜をついばみにきた鳥だった。もう、今日は狩りをする必要はない。
「すごいな」
美しいというより、圧巻だった。すべての葉が落ちて白い花になり代わり、植物とは別の、何か他の生き物のようだった。
もっと良く見ようと、ギルバートは根元で見上げる。はるか頭上に口をあけている、ウロに気づいた。幹から太く枝分かれた場所に、隠れるように黒い穴がある。
好奇心を刺激されて、ギルバートは桜の木肌に爪を立てた。堅実に爪をかけて登って行き、やはり猫いっぴきほどが入れる小さな穴を見つける。
桜の中に侵入すると、ふわふわやわらかい内壁と、木のしめった匂いがたちこめて、とても居心地がよかった。
「なんだ、こんなところがあるんだったら、もっと早く気づけばよかった」
ギルバートからは地上が見下ろせたが、下界から三毛猫の姿は隠されていた。ウロの前に、咲き誇る桜の花が枝を差し伸べている。
白い花弁に遮られて、遠くの世界は隙間しか見えないけれど、むせ返るような花の香、しっとりした水脈の通る幹のなか、とても安全で美しい寝床に思えた。
ギルバートは即座に決断した。ここを、自分のねぐらのひとつにする。このままでもとても居心地がいい。
子どもだったギルバートの頭を、あの日マンカストラップが撫でてくれた。この木の下で、満開の花のもと、強くなれると請け負ってくれた。それで初めて、自分は身体を動かすことが好きだし、力のかぎりを尽くして闘う武術や格闘技が、性にあってると気づいた。
夢中になれるものをみつけた。とても、嬉しかった。
はじめて大好きな事をみつけた。
空を見上げると、薄紅の美しい空が広がっていた。
『俺が子供のころから、この木は一番見事に花をつけるんだ』
マンカストラップの声が記憶に蘇る。ギルバートが仔猫だったとき、マンカストラップという逞しいボス猫が、かそけき仔猫だったとき。それよりずっと前から、きっとこの花は辺りの木々の王様だった。
ウロのなかで、くるりと身体を丸めてみる。まるであつらえたように、小さな空間は三毛猫を心地よく受け止めた。うっとり目を閉じながら、眼裏にちらりと友達の影が差す。
ここに、つれてきたらどうだろう。
そんな考えがむくむく大きくなった。きっとびっくりするだろう。とても喜ぶかもしれない。
けれどウロは、ギルバート一匹のほかには、他の猫の前足を入れる隙間もない。ギルバートは少し思案すると、やわらかい床を掘った。ウロの口から、木屑が吐き出されてぱらぱら舞い落ちる。
「ふぅーっ」
壁を大きく穿って、猫二匹ぶんにねぐらを広げると、ギルバートは額の汗をぬぐった。爪をこしこしと擦ってみる。鼻先に両手を近づけて匂いをかぐと、さわやかな木の香とともに桜の花が、爪の間から濃厚に香った。枝の上で鞠のように咲き誇るさくらの花。それだけでなく、こんな無骨な芯にまで、芳香が封じ込められている。
木の内部はとても柔らかくて、ギルバートの手にほとんど負担をかけなかった。容易く居心地よいねぐらを作ると、ギルバートは早速そこから飛び出した。
根元にこんもり積もった、木のかけらを彼はしっぽで丁寧に散らす。そんなものがあっては、上に何かあると宣伝しているようなものだ。
小山をつくっていた木の欠片が、残らず風とギルバートの長いしっぽに吹き散らされると、彼は満足して駆け出した。
友達の、黄色い大きな姿を探しに。
「すごいだろ?」
そう胸をはると、友達はおずおずうなずいた。
「綺麗だろ」
自慢すると、マキャヴィティは怪訝そうに目を細めた。一瞬の間をおいて、
「うん…」
と答えた。
ギルバートは不満に口を尖らせる。
「なんだよ。すごいじゃないか。すごいと思わないのか? 気に入らないのか」
「え、違うよ。こんな高い場所に隠れていられるなんて、とっても面白いね。いい隠れ家だと思う」
「はな! 花は? きれいじゃないか」
「ああ、花? そうだね、こんなに一杯、同じ花ばっかり咲いていると、葉っぱみたいで面白いね」
ギルバートは小首を傾げた。思わぬ答えだったので、一瞬頭のなかをクエスチョンマークが舞った。けれど、友達の言ったことももっともだと思いなおす。
緑じゃない葉っぱなんて、面白いかもしれない。
「そうだな! 面白いな!」
「さくらっていうんだ。へえ。ギル物知りだね」
「物知りなのはお前のほうだと思う。俺の知らないこと、いっぱい知ってるだろう」
「ううん。みんな同じように見えるから、俺は花の名前だけは覚えられない。だから、不思議に思って……ギルは、なんで花なんか好きなんだ?」
ギルバートは友達を憐れんで言葉を失った。
目の前には白い花弁が、瑞々しい艶を放っている。
圧倒的に咲き誇る花に、息を呑む光景が広がっている。
それなのに、マキャヴィティはただきょとんと座り込んでいる。彼にはこういう、乾いたところがあって、それは誰にもどうしようもない。
「ギルは、花とか虹とか意外なものが好きだよな。そうは見えないのに」
「なんだよ。悪いかよ」
馬鹿にされているのかと、ギルバートは身構えた。喧嘩ならいつでも受けて立つ。友達のまえにずい、と身を乗り出した。マキャヴィティは身をひいて敵意のないことを示した。
「そんなに怒るなんて、ギルは本当に葉っぱが好きなんだろうな。ごめんね」
「どうしてそうなる。葉っぱが大好きなんて、俺は一度も言ったことないだろ」
「え? 葉っぱがそんなにすきじゃないのに、どうしてこの花が好きなの。同じようなものじゃないか?」
「違う。ばか」
マキャヴィティには、本当に葉と花が同じに見えているらしい。ギルバートだって、緑の葉だけから、その名前を推し量る事は難しい。マキャビティが花の名前を覚えられないというのは、それとまったく同じ意味だった。
ギルバートは嘆息してしまう。
「ギル、ごめんね。怒った?」
「いや。ちょっとがっかりしただけだ」
「俺がもっと喜べばよかったんだね」
「いい。無理やり嬉しいふりなんかするなよ。ぶったおすからな」
「わかってる…」
マキャヴィティは、ごくりと生唾を飲み込んだ。
眉根をよせた神妙な顔に、ギルバートは思わず噴出した。
「お前がそうでもなくても、俺はここが気に入ったから、しばらくはここを根城にする」
「うん。わかった」
笑いながらそれだけ言うと、ギルバートは友達に背を向けて身体を丸めた。狭い場所なので、そうやってみても身体のどこかしらに、友達の体温を感じる。
背中にマキャヴィティがぶつかる。
しばらくごそごそ音を立ててから、マキャヴィティもギルバートと同じように丸くなった。背中と背中をくっつけあって眠る。暑いくらいだった。
頭上から、きらきら光りながら白い花びらが落ちてくる。
猫は空を見上げた。
空に黒い枝をはり出し、桜はしんしんと散っている。
ぼうっとそれを見上げていると、ふいに強い風がふきつけた。
三毛猫の身体へ巻きつくように、風が渦を巻く。
白い花びらがギルバートを覆った。
瞳に入った激痛に、涙を流しながら腕で顔をぬぐうと、ほろりと小さな花弁が落ちた。やっと開いた眼前に、小さな猫へ襲い掛かる幾百の桜だけが見えた。
身体を切りつけながら、刃よりも薄い花びらが、ギルバートの身体へ張り付く。鼻腔へ侵入し、呼吸を求めて開いた口腔へどっと雪崩れた。
息ができない。
鼻の奥に、水っぽい菜のような味と、桜の芳香が立ち込めた。桜は匂いがないと言う。けれど、ギルバートは今日、確かに二度桜の匂いを嗅いだ。
―――幹を掘ったときと、同じ匂いだ。
ぼんやり思い出しながら、ギルバートは美しい花に息の根を止められた。
「ギル、ギル!!」
脂汗を滲ませたギルバートが、悪夢から目覚めると、目に飛び込んだのは白い花弁ではなく、友達の黄色い毛色だった。
「ああ、大丈夫」
ギルバートは掠れた声で答えると、友達の頭を抱き寄せる。
友達の、通った鼻筋の感触を肌に感じて、ギルバートは目を細めた。悪い夢が遠ざかる実感に、ギルバートはもう一度目を閉じる。
マキャヴィティはギルバートの肩に頬を当てながら、裏返った声で訴えた。
「ギル、起きて! 大変だよ」
面倒そうに、ギルバートは瞼を上げた。
よく見ると、マキャヴィティの黄色い毛並みに白い花びらが数枚からまっている。ギルバートは笑って、それを取り除けてやろうと手を伸ばした。持ち上げた腕から、ばらばら花びらが落ちる。
ギルバートは目を見開いて身体を起こした。
もっと多くの花びらが舞い踊る。くるりと円を描いて、ふたりに降り注いだ。
彼らが眠っていたねぐらのなかに、一面に桜の花びらが敷き詰められていた。視界が真っ白に染まる。どこかで、ぱしんと何かが弾ける音がした。
「ギル、なんだか悪い予感がする。帰ろうよ」
「馬鹿、おまえ…」
「帰ろう! 早く!! ギル、早く」
「落ち着け!!」
ギルバートの腕を、ぐいぐいひっぱるマキャビティを、ギルバートは押さえつけた。花びらがウロのなかに再度舞い上がる。
ギルバートは怒鳴った。いつになく荒げた声が、内心の不安を心ならずも暴露していた。
「落ち着け! どうってことない。ただ、花が散っただけだ」
「でも、怖いんだよ…頼むから、早くここから逃げよう」
ギルバートによって、桜の内部へ押し付けられながら、マキャヴィティは小さく声を掠れさせる。
「逃げるってどうしてだ。
何が怖いっていうんだ。
俺がいる。何にも心配するな」
ギルバートは彼を落ち着かせようと、毛並みを舐めてやり、ぎゅっと抱きしめる。手ごたえのある大きな肢体が、抱きつくギルバートへたまらない充足感を齎す。
「落ち着いたか?」
「うん…」
「じゃあ、ゆっくり外へでよう。ここは高い場所なんだから、慎重にな。焦って、爪を外しでもしたら落っこちるぞ」
「うん。わかったから、早く…」
「まだ、だめか」
ギルバートは意地悪くそういうと、もう一度マキャヴィティの肩を上から押さえる。
「いやだよ! もういいから、早く行こう」
マキャヴィティはばたばた暴れながら、ギルバートを跳ね飛ばそうともがく。また、どこかでぱしぱしと音がした。
「焦ってたらかえって怪我する。もうちょっとここで寝てるか?」
「ギル、馬鹿やろう! あとで覚えてろ!!」
これ以上やると本気で怒らせてしまう。
ギルバートは、やっとマキャヴィティから離れた。
「まず、俺が外へ出て様子を見る。安全だとわかったら呼んでやるから、おとなしくしてろ。
怖がるなよ」
「わかってる。
早く行けって」
マキャヴィティがギルバートの背中を蹴り飛ばす。
苦笑しながら、ギルバートは恐る恐るウロの外へ身体を晒した。
地面が、白く染まっている。太陽の角度でさえ、いくらも変わらないのに、満開だったすべての花が枝から離れて、黒い幹は裸の肌を晒していた。花が散ったので、ギルバートたちがいたねぐらも、細い枝を透かして丸見えだった。
無防備な場所で眠りこけていた事実に、背筋を冷たいものが滑り落ちる。
ギルバートは慎重に、幹に爪をかけた。
ぴしりと、また不吉な音が頭上から響いた。
今度は一度で止まらず、何度も繰り返す。
こまかい音が合流して轟音となり、桜の幹を内側から割った。
「マキャヴィティ!!」
黄色い猫が所在なさそうに蹲る、桜の木のウロの中へ、深い亀裂が走る。ギルバートが手を伸ばしても届かない。
マキャヴィティの足元に、亀裂は大きく口を開いて、根元まで深い穴を穿った。黄色い猫が、足を取られて吸い込まれる。ささくれた棘が、空へむかって刃を剥いていた。
―――マキャヴィティ―――
2へ続く