去年の桜は、薄い肉色をしていた。
今、ギルバートの下に広がっている花弁は、血の色を失い白かった。
「痛いな。すりむいた」
亀裂から足を引き抜いて、黄色い猫は傷口に、ふーっと息を吹きかけた。
「あーあ、血が出てる。ギル?」
亀裂は深く、桜を二つに割った。けれど、幅は太くない。
蟻の通る隙間はあっても、猫一匹は入らないだろう。
「ギル、大丈夫か」
ギルバートは、うろの中に飛び込んでいた。マキャヴィティに届かなかった自分の手を、ぶるぶる震わせている。
「ギル?」
黄色い猫が顔を覗き込むと、はっと気づいたようにギルバートが瞬きした。それまで、眦が避けるほど見開いていた黒い瞳を、やっと瞼の裏に休ませる。
「行くぞ…」
それだけ呟くと、三毛猫はもう一度下界へ身を躍らせた。
「木としても、年寄りの部類だったからな」
マンカストラップは、古木を見上げていた。ギルバートは、まっすぐ立ってそんな彼を見つめていた。
「ああ。気をつけるよう、みんなに言って欲しい。中にいくつも亀裂が入っている。いつ倒れるかわからない状態だ」
「わかった。知らせよう」
ギルバートへ頷くと、マンカストラップは散り敷いた花びらを一枚拾い上げた。
「他がすべて開花しても、この長老だけは蕾をつけなかった。もう二度と、この木に花は咲かないものかと思っていたが、そうか。短い時間とはいえ、咲かせたか。最後の力を振り絞ったのかもしれないな」
賞賛するしぐさで、マンカストラップは幹に手を触れさせる。
「あまり近づくな。危ないぞ」
「判っている。特に子猫たちには、おもしろがって近寄らないよう、厳重に注意しないと」
「そうだな…」
マンカストラップがそこを去ると、ギルバートは自分の言葉を忘れたように桜の根元に立った。
朝触れたときは、力を秘めてほんのり温かかった幹が、今は氷のように固く、冷たかった。
花びらが白く地面を覆いつくしているのに、桜の匂いは消えうせた。
幹の内側から、もう何の音もしない。けれど、微かに、この木はまだ生きていた。
ギルバートは、黒い木肌に爪をかける。
ゆっくり、自分の体を持ち上げる。
うろまで這い登り、縁に手をかけると、薄いそこはギルバートの重さに割れた。
ギルバートは落ちていった。
地面に向かって視線を投げると、熟した小麦の温かい黄色が、視界の隅を掠めた。
受け止めようと手を広げるマキャヴィティの横に、彼を無視して軽々と着地する。
「ギル、やっぱりここにいたね」
「うん。おまえ、追いかけてきたのか?」
「だって、ギルが心配だったから…」
マキャヴィティは、大人が子どもにするようにギルバートの頭を撫でた。
「よせよ」
「ギル、自分のせいだと思ってる?」
赤と黒の両耳が、へたりと寝る。ギルバートは口を噤んだ。一瞬だった。彼はまっすぐ懺悔する。
「ああ。俺が内部を傷つけた。だから、この長老はこんなに早く散ったんだ」
命ある木は水分を通わせて粘り気があり、とても固い。それを、あんなに容易く掘り下げられたのは、考えてみればこの木が弱っていたからだった。
最後の花を、無駄に散らしてしまった。
ギルバートは瞬きせずにじっと立ちつくす。
「ギル…」
黄色いマキャヴィティが、労わるようにギルバートを抱こうとする。伸びてくる手から逃れながら、ギルバートは彼を睨みつけた。
「よせ!」
「慰められるのが気に喰わない?」
ギルバートの沈黙は、この場合その通りだという肯定だった。
「じゃあ、罰してあげようか」
マキャヴィティは、するりと防御を潜り抜ける。ギルバートは目を見張った。いつの間にか、彼はギルバートを胸の中に収めた。彼は、とても大きな猫だった。
「酷くしてあげる。今日は」
くすくす笑いが、ギルバートのぴんと立った耳に入りこんで中を擽った。
ギルバートは、黄色い猫の顔に手を伸ばし、ほっぺたを両手で引き伸ばす。
「いてて、いたた、ギル、いひゃい!!」
「この馬鹿、俺は、慰められるのがいやだって言ってるんだ」
ギルバートにようやく放してもらって、まっかに腫らした頬をおさえながら、マキャヴィティは怒鳴った。
「ギルの意地っ張り!!」
「…しつこいぞ」
腹を立てているらしいが、マキャヴィティはギルバートを置いて帰ってしまうつもりはないらしかった。
ニ匹で、古木を見上げる。
「いつまでここにいるの」
「この木が死ぬのを、見届けたい」
「……」
「何百年も生きていたんだ。最後の花を、俺みたいな若造に傷つけられて、悔しいかな」
ギルバートは二度しか春を経験していない。
この木は、何百回、春に花をつけたのだろうか。
「マキャヴィティ、俺につきあうことないぞ」
「いいよ。どうせ、しばらくは帰らないつもりだから。ギルがねむいときは、俺が変わって見張ってるから、この長老を見届けようよ」
「すまないな」
「ううん。ずっとは居られないけど、少しだけね」
「うん。わかってる」
「しばらくは、ギルに会いたくなったときは、ここに来ればいいんだね」
「うん」
「ギル」
「うん」
「ギル」
「…」
「ギル?」
「なんだよ」
「俺は、心配しているよ」
ギルバートは、言葉に詰まった。
「わかってる」
黄色い猫は、それだけ聞き届けると安心したようにため息をついた。
古木は、数日間を持ちこたえて威容を保っていたが、異変に気づいた人間によって、ある日切り倒された。
白き花びら2
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