スキンブルシャンクスのねぐらは、駅のなかにある。
駅員の休憩室から、更衣室に向かう廊下の片隅にある。ニンゲンに用意された場所に、彼は暮らしている。駅の舞台裏は、ばたばたと駅員が行きかうにぎやかな場所で、神経質な猫なら耐えられない。
航路のような路線図が張り出された壁や、駅員のフロッグコートが無造作に投げかけられたダンボールが、放置されている。なぜか、小さな列車の模型が一車両分、転がっていた。スキンブルは、それを大切に寝床の隅に隠していた。
猫の胸におさまる小さな列車だった。多くの乗客を腹に飲み込んで走行する、雄大な夜行列車と違って、模型は自力で走らない。けれども、楽しい旅を思い出すよすがとして、スキンブルの宝物だった。
小さな箱が、スキンブルの寝床だった。
駅長さんが給与がわりにあてがってくれた柔らかいタオルケットは、スキンブルの隙をついて誰かが洗濯してくれる。おかげで、いつでも柔らかく清潔だった。
本当は、もっと自分の匂いに包まれたい。
そう思っても、スキンブルはそれについて文句を言った事はなかった。
今日も、旅から帰ってくると寝床からは猫の匂いが消えていた。
涼やかな洗濯石鹸の匂いも嫌いではないけれど、今回だけはちょっと恨めしく思ってしまう。
自分の匂いといっしょに、タンブルブルータスの雄くさい体臭も、そこから消えていたから。
「お前、こんなところに寝起きしているのか」
容易に人の入り込めない、路地裏の奥の奥、その下にある枯れた下水道の中が、タンブルブルータスとカッサンドラのねぐらだった。
それに比べれば、いかにも無防備であけっぴろげな場所だろう、ここは。
訪ねてきて早々、タンブルブルータスは低い声でスキンブルに聞いた。こんなに人気の多い場所で、本当にお前は暮らしているのか、と。
「そうだよ。タンブルは、こういうの嫌い?」
「嫌いというより、よく眠れるな。こんなに煩い場所で」
スキンブルはタンブルブルータスを寝床の箱の中に隠してしまうと、ニンゲンから見えないように覆いをかけた。
いつもはこんな小細工はしないが、それで野生猫のタンブルが安心できるなら、選択の余地はない。
「これで安心?」
「べつに……」
「うれしいよ。君が遊びに来てくれるなんて」
「べつに」
空には満月が輝いていた。ジェリクルムーンのような全き真円が、星のない虚空に輝いている。
彼女を取られてしまった月を思い出して、タンブルブルータスは誰でもいいから、一緒にいてくれる猫が欲しかったのだろう。
よくもそこで、自分を思い出してくれた。
スキンブルシャンクスは無邪気そうに微笑んだ。
「今日はいっぱい話そうね。
丁度良かったよ、僕が非番の時で」
「お前らしいのかもな、こんなねぐらは」
「そうかな。どんな所が?」
「汽車の気配がする。
音も聞こえるし、壁に貼ってある絵も、みんなスキンブルの列車が書いてあるだろう」
「違うよ。僕の乗っている車両じゃない。
それはペンドリーノ。国鉄分割民営化によって登場した、ヴァージントレインの最新車両なんだ。すごく静かに走るんだよ。居住性バツグン。流線型も綺麗だけど、形としては、ちょっと情緒に欠けるかな。僕は、やっぱり僕の乗ってる古き良き時代の寝台車が好きだ…。
でも、あの鼻づら、見るからに走りそうだろ?
どうして高速で走っているのに、揺れが少ないかっていうと、振り子車両を導入しているからで」
スキンブルはそこまでとうとうと喋って、息をとめた。
「こんな話、興味ないよね」
「いや…」
スキンブルのあまりの剣幕に、気おされていたタンブルがほっと肩の力を抜いた。
「ごめんね、へんな話して。
あ、この話はしたっけ。このまえ、エジンバラに行ったんだけど」
スキンブルは、誰が聞いても興味をもちそうな、不思議な話や、面白い猫の行動を話して聞かせる。
そういう時の彼の話し口調は落ち着いていて、優雅ですらある。
さきほどタンブルブルルータスに「ペンドリーノ」の性能をまくし立てた彼は、違っていた。何かに急かされるように早口で、頬が紅潮し、目線はうっとりと虚空の一点を見つめていた。
憧れるような目線は、彼の本当に話したいことがなんであるかをあからさまにタンブルに教えた。
「スキンブルは、本当に列車がすきなんだな」
「うん、今更だけどね」
「列車でする旅だけじゃなくて、列車自体が好きなんだな」
「え?」
青い瞳がおおきく見開かれる。
「さっきのぺん…の、だったか。
あれの話を、もっとしたらどうだ」
スキンブルは、じっとタンブルブルータスを見つめた。
「でも…君はそんなの興味ないだろう」
「よく知らないが、スキンブルが話しているのを聞いたらそうか、と思う。
知識がないから、見当違いな相槌を打つかもしれないが…」
「タン…」
「お前の一番、話したいことを話せばいい。
お前がみんなに好かれているのはわかるし、それをお前が誇りに思っていることも知っているが。
しかし、お前は少し無理をしすぎていると思う」
「そんなこと、ないよ」
「お土産をみんなの分拾ってくるのだって大変だろうし、なにより、お前は視線があうと誰にでもにっこり笑う」
「いけないかな。八方美人すぎて、タンブルは嫌悪を感じる?」
スキンブルは自嘲的に微笑んだ。
タンブルが目を覗き込むと、さっと青い視線をそらす。
「お前は、自分に視線が向けられるとわかっているときには笑顔で待ち受けているが、偶然視線が合うと逸らす。
気付いているか?」
うっ、とスキンブルは胸をつかんだ。
いけないいけないと思っても、その癖をどうしてもスキンブルは克服できないでいた。
「スキンブル。お前がみんなを好きなのはわかってる。皆そのことを知ってる。でも、お前が思うほど、みんなお前のことを完璧な猫だとは思っていない」
「ひどいよ、タン」
「泣くな。
もっと楽にしろと言っているんだ。
ペン…ノなんとかの話をしたいのなら、すればいい。
それでお前を嫌いになる猫はいないと言っている」
「いい子だね、タンブル。そういう優しいところが、ほんとうにいい子だと思うよ」
タンブルは、怒ったように背中を向けてしまった。
実際、スキンブルは彼を怒らせてしまったのだろう。
彼が真剣な話をしていて、一生懸命スキンブルに自分の心を伝えようとしていたのは分かった。けれどスキンブルは、その彼を子供あつかいにして話を終わらせようとしたのだから、腹を立てて当然だ。
いまやタンブルブルータスは、スキンブルよりも大きくなってしまった。太ももなんて、他のどの猫より太い。
タンブルブルータスは、だれより高く飛びあがれる強い足と、男っぽい低い声の持ち主だった。
ウエストの引き締まった黒い背中に、スキンブルも背中からもたれかかる。
「僕が君に気安くできるのも、おなじ「OTAKU」同士だからかな」
「なんだ?それも駅員用語か?」
怒りながらも、タンブルブルータスはスキンブルの話を聞いてくれる体勢でいる。
くすり、とスキンブルは、悲しい笑いをもらした。
「違うよ。まったく別の話」
OTAKU…そのもの悲しい響き。
東洋の片田舎で発生したこの言葉は、さまざまな場面で表れるニンゲンの一面を見事に活写していた。
animetion OTAKU
military OTAKU
train OTAKU……
「タンブルはカッサオタクだから…話しやすいんだ」
「だからその「OTAKU」とは何だ」
それには答えず、スキンブルは話題をそらした。
「僕やタガーはね、女の子みんなにもてるから、誰をどうやって特別にしたらいいのか、わからなくなってしまったんだ」
「嫌味か、それは」
「ちがうよ。
タンブルはいいね、って話だよ。
他の女の子百人に振られても、タンブルにはカッサがいるじゃないか」
しかも、永遠の誓いまで二匹は交わしているのだ。
「いいなー。うらやましい」
スキンブルはタンブルの背中の上でごろごろと転がった。折りたたんだ足を胸の前で抱えて、お尻だけを寝床につけて、タンブルの背中にもたれかかりながら左右に身体を振ると、重みにどんどんタンブルが沈んで行く。
「ぐっ…く、くるしい」
ついにタンブルを二つ折りにして、やっとスキンブルはタンブルの背中から滑り落ちた。腹から屈伸するタンブルの横に寝転がり、自分の足の間から顔を上げるタンブルの顎を掴んだ。
そのまま口付ける。
「お、お前…!!」
「タンブルはいいね。カッサには自分のすべてを曝け出せるんだろう?
僕もそんな猫がほしいよ。
君に、僕のそういう猫になってもらいたい」
唇を舐め上げると、タンブルは硬直したまま現実から逃避していた。
ダチョウは外敵の襲来にあうと、頭を抱えて尻を向けるという。
同じような対応に出会い、タンブルの固い身体に苦笑しつつ、都合がいいのでそのまま寝床に押さえつけた。
「僕、交尾したいんだけど、いいかな」
答えがなかった。
タンブルブルータスはまっしろになって固まっている。彼には刺激の強すぎる言葉だったようだ。
口から魂が抜け出ているのが目に見えそうだった。
沈黙を了承と受け取り、スキンブルは気持ちよくその先へ進んだ。
いただきます、とはさすがに口にださなかった。そんなふざけた事をいったら、抜け出たタンブルの魂が身体にもどってきてしまいそうだ。
さして抵抗もされずに、念願のものを手に入れた。
ピロートークには、ユーロトンネルを通過するドラマチックなユーロスターについて、トンネル突入時の風景や、リアルタイムにしかも車上で、簡易に離線状況の把握ができる集電方式切替について思うさま語り合った。
ほぼ一方的に。それは語り合うとはいわないか、ひょっとして。
黒に近い褐色の毛並みを、空気をはらんで膨らませ、いつもより白っぽくみえるタンブルブルータスは、呆然としたままスキンブルの寝床で朝を迎えた。おはようのキスをするまで正気に返ることはなかった。
ヨーロッパ大陸とイギリスを繋ぐ雄大なユーロトンネルと、その中を滑るように進む、白とオレンジ色の車体がポスターになり、スキンブルのねぐらを飾っていた。
スキンブルは、タンブルと過ごした満月の夜を思い返していた。タンブルブルータスの痕跡の消えた、白いタオルケットに、今は一匹で包まれている。
掌の中には、寝台列車カレドニアン・スリーパーの、いかつい四角の模型を握っていた。
今度は、ユーロスターの模型を手に入れたい。
そして、それを二匹の記念に、いつかタンブルブルータスに贈りたいとスキンブルは考えていた。
『汽車の旅』