目覚めると、なぜか妙に身体が重かった。
朝日がまぶしく瞼を貫く。
早朝の公園は、春の太陽に早くも空気を温められていた。
だるい。
無理も無い。
猫は本来夜行性なのに、ギルバートはとても早起きで、一緒に暮らしている黄色い猫は否応無くつき合わされる。
瞼が腫れたように重くて、身体を起こすとくらっとくる。
我慢できないほどではないけれど、ギルバートに付き合ってやるのが億劫だった。
「起きたのか?
早くしたくしろ。もう鳥たちも、とっくに起き出してるぞ」
言われなくても、うるさいほどのさえずりがぬかるんだ大気に満ちていた。獲物は沢山いるらしい。
ギルバートは、腰に手をあてて捻っている。数回往復させると、今度は両手両足を大きく振り回し、目覚めたばかりの身体を狩りに備えてほぐしている。
朝っぱらから枕元で体操をされて、黄色い猫はこっそり眉をひそめた。
ギルバートは元気がありすぎて、見ているこっちまで苛つく。
「ほら、さっさと起き上れって。
お前、本当に寝起きが悪いな」
ギルバートに腕が抜けるほどひっぱられる。
彼の胸に倒れこんだ。
「どうした?」
小さなギルバートが押しつぶされてしまわないよう、力を加減して、けれど加減しているとは気付かせないほど重く、彼に圧し掛かる。
「なんでもない…」
はぁっと、熱い息を彼の耳元に吐きかけた。
「どうしたんだ?具合が悪いのか」
ギルバートの心配そうな声が、黄色い猫の耳を撫でる。
彼は黄色い猫の腕をさすって、元気付けようとする。
「ううん。平気。
ごめん。心配させて」
ギルバートから身体を離し、眉根を寄せた辛そうな顔をこれでもかと見せ付ける。
もう一度、大きな息をつく。
別に身体に異常はないが、今日はなんとなく疲れていて、狩りをしたり、その練習をする気にならない。
黙っていてもギルバートが黄色い猫の食餌を運んでくれるのだから、利用しなくてどうする。
黄色い猫は、ギルバートの前ではたよりなく振舞っていた。
怖いおじさんが来たら他の猫の背中に隠れるし、かえるや、大好物の蛇も怖がって見せた。そうすれば、ギルバートは「しかたがないな」という顔をしながら、嬉嬉としてそれらを追い払ってくれるから。
一種のサービスだ。
スキンブルシャンクスの、営業スマイルと変わらない。
なんだかんだ言って、まともな雄は頼られるのがスキなものだ。雌もか。
相手は異性とかぎらない。
むしろ、同姓に頼りにされる自分なんて、自己愛の悦にいるには充分な材料だろう。しかもそれが、自分よりはるかに体格の良い相手だったら、優越感はいかほどのものだろうか。
―――いるよな。小っちゃいぶん、小型犬みたいに気の強いやつ。
身体の大きなやつをライバル視して、そいつより優位に立とうと努力を惜しまない馬鹿。
だから、黄色い猫はギルバートに甘えてやる。
わざとそうしてやっているのだから、自尊心は痛まない。本当に助けが必要なわけじゃない。そうするのが楽だから、しているだけだ。
今のところ需要と供給のバランスは取れている。
ただ、あまりにギルバートががさつなので、これには傷つけられる。
どうして目が覚めた瞬間からパワー全開なんだ。
それで、どうして毎日、他のやつも同じに違いないと勘違いし続けていられるんだ。謎だ…。
まどろむ時間を、くれ……五秒でいい。
指を眉間にあてて、擦る。いかにも頑張ってます、という顔で歩き出すと、ギルバートに止められた。
「おまえ、今日はねぐらで待ってろ。
退屈だろうけど、俺が帰ってくるのを待ってろよ」
「でも…悪いよ」
「いい」
「ギル、ごめんね」
背の小さいギルバートが、伸び上がって黄色い猫の頭を撫でる。
「なるべく早く帰ってくるから。
お前、身体弱いんだな」
温かい掌が、くしゃくしゃと黄色い毛をかき混ぜる。耳まで動くほど、乱暴に撫ぜられる。
「待ってるから、早く帰ってきてくれるね」
彼の体温は気持ちがいい。
撫でられるのも、不愉快ではない。
本当は、甘やかされるとたまらなく嬉しい自分がいた。
彼のそばから離れられない。
ギルバートを騙すためと言いつつ、この甘ったるい喋り方も、態度も、本当は半分以上地だ。
彼と居ると、自分が息を吹き返すのが分かる。
もう、長い間こんなに猫といっぱい喋ったことも、ましてや一緒にいたこともない。他の猫とは苦痛なのに、どうして彼だけは違うのか。
わからない。
正反対なのに。
がさつで、正義漢で、心の裏側の汚いところをしらない。単純で、ぶっきらぼうで、身体の大きさまで正反対だ。
体温の低い自分と違い、彼は子供のように熱い。
実際、まだ子供なんだ。
ギルバートを送り出して、自分の薄い体温が残る寝床へ、もぐりこんだ。
彼が、黄色い猫にあだ名をつけていることを知っている。
呼ばれたことはないけれど、たぶんあれは自分のことだと思う。
腕の中で眠らせていたギルバートが、
「名前の…ない猫」
そう呟いた。
すぐに気付いた。自分の事だと。
ギルバートに聞き返しても、答えない。一瞬寝息をとぎらせて、また何事もなかったかのように規則正しく息を吐く。
彼が寝言で、何度かその言葉を囁き、そのたびに眠る彼の頬にほほえみが浮かぶ。
どんな夢を見ているのか。
たぶん、黄色い猫の夢を見ている。
彼の夢の中でも、自分は彼に甘えているのだろうか。
そう思うと、恥ずかしいようないたたまれないような気がして、健やかなギルバートの鼻をつまみあげたい気分だった。
―――なんてひねりのない、つまらない名前をつけてくれるんだ…
まだ、揶揄まじりの酷いあだ名をつけられたほうがマシだ。
「名無し野郎」とか、そういうのなら慣れてる。
ギルバートはおかしい。
適当な名前をつければいい。
ハデスとか、ヒュプノスとか、タナトスとか、いくらでもいいかげんな名前は考え付くだろう。ロキ、シヴァ、タンタロス、ベルフェゴール…なんでもいい。
なんなら、ジョージでもジェームズでもかまわない。贅沢は言わない。
どうして、「名前のない猫」なんだ。
それは驚くほど自分の本質をついていて、もし彼に真っ直ぐそう呼ばれたら、どんな顔をしていいのかわからなかった。
呼ばれない名前はないのと同じだ。
だから、黄色い猫には本当に名前がない。
ギルバートが黄色いのの名前をつけてくれると思ったのに。
街ごとに名前を変える自分は、本当に「名前のない猫」だ。
だから、そんな本当の名前だけはつけてほしくなかった。
なんて酷いあだ名をつけるんだ。
悪気もないくせに。
そういうところに、深く傷つけられる。
「おい!!」
飛び上がって覚醒した。
「ギル?
どうしたの。忘れ物?」
「いや、ほら。
お土産」
小さな鳥だった。
薄い灰色と、赤い縁取りを持った優美な姿は、見たことがある。とても機敏な野鳥だ。つまり、狩りにくい。
「すごい、こんなに早く…」
「いいや。ずいぶんてこずった。
ごめんな。お前の具合が悪いのに」
「あ、ああ…」
そうだった。そういう設定だった。
ギルバートの色が良く見えない。
形は、闇の中にむしろくっきり浮かび上がる。
暗い。いつの間に?
「お前、気絶してたのか?」
頭が痛かった。
あまりの頭痛に、指先まで痺れる。
いつもの偏頭痛か。
起き上がっていられなくて、答えず寝床に伏す。
「ごめんな。
約束したのに、こんなに遅くなって」
「ううん」
自分の声を出すのが、これほど面倒なのは初めてだった。
唾液さえいつもと味が違う。苦くて、飲み込みづらい。
「ほら、食べろ」
口元に血の匂いのする鳥を突きつけられて、思わず振り払った。
「ごめんなさい!
あの、僕…」
「いい。具合が悪いんだな。
朝から熱っぽかったけど、今は耳の中が真っ青だぞ、お前。
ごめん。
こんな風になる前に、帰って来るつもりだったんだ」
そうだったのか。
具合が悪かったのか、僕は。
気付かなかった。
「気付かなかったのか?」
ギルバートは驚いたようだった。
「だって…いつも誰かのなわばりをこそこそ通り抜けなきゃいけなかったから……頭が痛いなんて言っていられなかったんだ」
ましてや、誰かに心配されることもない。
具合が悪いのに、無理して受け答えするなんて、ひょっとしたら初めての経験じゃないだろうか。
子供のころにはあったのかもしれないけれど、少なくとも覚えているかぎりでは、初めてだ。
なんだか心細くて、彼の体温が恋しかったので、首筋を掻き寄せた。やはり熱い。
「こんなふうに、ゆっくり具合が悪いなんてだらだらしていられるのは、ギルバートのおかげだよ。
ありがとう。
平気だから。明日になれば治る」
つつじの下なんて無防備なねぐらで、前後不覚で眠りこけるとは、防衛本能が死んだとしか思えない。それほど、僕は彼に骨抜きにされているのか。
彼の匂いが留まる場所で、心底安心して、悪夢も見ずに昏倒した。
どうしてかわからないけれど、彼を見つけて本当によかった。
こんなに安心して身体を預けられる猫は、他にいない。
小さくても、馬鹿でも、彼のことだけは信じられる。
「食べられるか」
「せっかく採ってきてくれたけど、無理だ。
ギルが食べて」
「明日、目が覚めたら食べられるかもしれない。
それまで取って置こう」
「ギル、自分は何か食べたのか?」
「いや…
お前は自分のことだけ考えてろ。
気を使うな」
言われなくても、僕は自分のこと以外は考えたことがない。
いかに気分よく、楽しく過ごせるかがこの世のすべてだ。
「半分は食べておいて欲しい。
明日になったら、必ず残りを食べるから。
でなければ、絶対にそれに口をつけないよ」
一日中動き回ったのだろうに、何も食べていないと言っていた。
僕は今、とてもじゃないが物を口にいれられる状態じゃない。
だから、彼が全部食べてしまうのが効率がいいのだが、どうせ素直にそうしてはくれないだろう。
「…わかった」
なんでも分かち合う。
食餌も、寝床も、すべてを。
「もう、しゃべれない…よ」
頭の痛みはますます酷くなっていた。
首筋に手を当てて脈を止めたいと願うほど、ツキンツキンと痛みがはしる。
身体から力が抜けて、ギルバートを捕えていた両手がタオルの上に落ちた。
ギルバートが拾ってきて、ねぐらに敷いた白いタオルは、普段はニ匹分の寝床だった。
「具合が悪いなら、ひとりでゆっくり寝たいだろう?」
ギルバートが珍しく気を利かせる。
かすかに頷いて、口を閉じた。
むき出しの地面の上で、ギルバートの背中が丸くなる。
ギルバートに、急に「出て行け」と言われたこともある。もちろん断った。許してもらえて本当によかった。薄い唇の示すとおりに薄情なところもあるけれど、彼は優しい。
ギルバートの寝床の、小さなタオルのうえでひとり蹲り、痛みと戦いながら目を閉じた。
夜が明ければこの痛みが治まり、そうして楽しく獲物を狩ったり、遊びまわれるようにと祈りつつ、麻酔の効いた夢の中へ堕ちて行った。
『頭痛』