透明な壁に囲われて、小さな部屋が、幼い自分の住処だった。くるくる色を変える壁が、ガラスと言う名前だと、後で誰に教わっただろう。

母親や幼い兄弟の記憶さえ遠く、触れ合えそうで触れられない、壁の向こうの世界をぼんやりと見つめる毎日が続く。

あるとき、世界は一変した。

無理やり小さな箱に詰め込まれた。ゆらゆら揺られて、箱の中で体が滑る。目が回る。

蓋が開き、新しい世界が口をあける。爪の引っかかるふかふかしたものが敷き詰められ、色の変わる壁と、変わらない壁がそびえる巨大な部屋。その中に置かれた時は、パニックを起していた。逃げ場所を求めて駆けずり回り、やっとみつけた狭い隙間に頭をつっこむ。がたがた震えていると、むりやり大きな物に身体を掬いとられ、明るい光のもとに連れ出された。嗅いだことの無い匂いにすくみあがった自分を、優しく撫でるのはおおきな手。

ミルクと、次第に自分の匂いが馴染んでいく暖かな部屋。
ここにいるのは、苦い匂いのするのと、食べ物や洗剤の匂いのするのと、甘酸っぱい匂いのするの。合計みっつ。抱き上げ、撫でて、いつも食べ物を運んでくる手が、そのうちのたった一人のものであることに気付いた頃には、そこが自分の住処になっていた。甘いにおいの色白の少女。

同時に、自分の形さえ思い出せなくなっていく。
兄弟の記憶はもとから薄い。
食事をくれるこの人が、自分の母親なのだろうか。
では、自分もこの人のような形をしているのだろう。
 




「よお」

 色の変わる壁に美しい男が映っていた。銀糸のような雨がちらちら光る背景を背に、金色の長毛まじりの。

「口がきけねえの?」

男は聞いた。
マンカスより大きいが、マンカスと同じような大きさ。
彼はあの少女のように、マンカスを掌で掬い上げることなどできないだろう。

「窓が閉まってるから聞こえねえ、ってことねえよな。ガラス一枚間にあるっていったって、これだけ近ければ聞こえてるはずだし…」

手で、空気を払うような仕草を彼はした。
マンカスはそれが、あっちへ行けというボディランゲージだと気付いて、部屋の奥へ逃げた。
なぜだか胸がどくどく脈打って、頭がぼーっとした。

下がっていたのは正解だった。
物の壊れる不愉快な音がして、ガラスの欠片がきらきらと光りながら降って来る。自分の所までは届かないと分かっていても、マンカスは頭を抱えた。

「よーし。
これで聞こえんだろ。
な、お前。こっち来いよ」
男は悪びれず、マンカスに誘いかける。

破壊を間近に見て、マンカストラップはすっかり竦みあがってしまった。足元にはガラスの欠片と、投げ込まれた石がある。

「早く来いよ。ニンゲンに見つかるだろう?」
彼はマンカスを急かした。
不機嫌な声に命令されて、マンカスは思わず従ってしまう。

「ば、っか!!
お前、足元見ろ!」

急いで彼のところへ駆けて行ったマンカスは、ガラスを避けずに踏んでいた。痛みを感じる一瞬前に、男が小さな身体を抱き上げる。

「あーあ、お前…
痛くないのか」
 
痛い?
何が?

確かに、足のへんに違和感がある。
マンカスがちらりと自分の足を見ると、肉球から透明な欠片が頭を覗かせていた。
血は出ていない。
欠片が埋め込まれている。

状況を理解すると、マンカストラップの頭に強烈な痛みの信号が点滅する。

「泣くなよ。
ちょっと我慢してろ」
男は、マンカスを抱き上げるとすぐに歩き出していた。
初めて街の風がマンカストラップのひげを揺らす。
身体を雨が濡らし、湿った毛並みが小さく角を作る。
足には経験したことの無い痛みがある。

泣くなというのが無理だった。

「あー…。
ったく。どうすっかな」
男はばりばりと頭を掻いた。
泣きじゃくるマンカスを片手に乗せて、小さな足を美しい顔の前に持ってくる。赤い舌が、マンカスの足裏を舐めた。
欠片を抜くとき、いっそう鋭い痛みが走る。
男は小さなガラスを、構わず道端に吐き出した。

血が噴出す。
温かい口のなかで、もう一度棘を抜くようにガラスを吸い取られる。
舌が、位置を確かめるようにガラスを押すと、痛みと恐怖でマンカスは身を強張らせた。

マンカスの両足を嘗め回して、もう一欠けらも残っていないことを確認すると、男はまた歩き出した。

「どこ行くの?」
「なんだ、喋れるじゃねえか」

マンカスもびっくりした。
自分は、まだ言葉を話せないのだと思っていた。
だって、食事をくれる家族たちがいくら話しかけてくれても、決して答えることはできなかったのだから。

「お前、名前は?」
男が聞く。
「マンカス…トラップ」
マンカスは忘れかけていた名前を津波のように思い出した。
言葉を、形を、兄弟たちを。この世のすべて、自分が猫だという事実を思い出した。

「あなたの名前は?」
それは特別な問いかけだった。
男は答えた。

ラムタムタガー。

綺麗でむちゃくちゃな男の名前だった。






タガーは、マンカストラップを教会まで連れて行くと、ぽいと放り出した。
「こいつ、これからここで暮らすから」
教会には、怖そうな老猫がいた。

こんなに年取った猫を初めて見た。マンカスは、綺麗なタガーのしっぽをぎゅっと握った。
「この子をどこから連れてきたんだい、タガー」

見た目より、ずっと優しそうな声だった。
それでも、マンカスは甘えるようにタガーの片足にすがりついた。
「ああ、ニンゲンの家。
こいつ、可愛いだろ。ここで飼おうかと思って」
「無理だよ。
この子の家に帰してあげなさい」

「なんでだよ」
むっと口を尖らせて、タガーは反論する。
「ここにはいろんな餓鬼が預けられてるじゃないか。
こいつ一匹増えても、変わりねぇだろ」

「他に行き場のない子達だよ。
自分で暮らせるものや、ほかに家のあるものが居る場所じゃない。
だいたい、「飼おう」なんて、何様のつもりなんだね、タガー」
老猫はにこにこしていたが、本気で怒っているようだった。

「はぁ?
ニンゲンのところにいるより、同じくらいの餓鬼と毎日遊びまわれるほうが、よっぽど幸せだろ。決まってるじゃねぇか」
タガーは片足をぴるぴる振って、まつわりつく子猫を振り払う。小さな背中を押して、長老の前に突き出した。
「こいつ、最初は口が効けないみたいだったんだぜ。
ニンゲンのところに置いといたら、そのうち自分が猫だってことも忘れちまうよ。
そのほうが可愛そうだろ」

「タガー。お前が本当にその子に同情して、自分で面倒を見るというのなら反対しないよ。
でも、お前はここにその子を置いていこうとしている」

「俺が子供を育てられるわけねぇじゃん。
雄だぜ、俺は」

「そうやって、気まぐれに猫に構うのはいいかげん止したらどうだろうね」

「気まぐれって何だよ。
可愛いから撫でてやる。理由なんているか?
とにかく、こいつはまかせた」
「待ちなさい!!」

「待って、お兄ちゃん!」
マンカストラップの呼びかけにも、タガーは応じなかった。
「待って!!」
子供の悲痛な叫びを、平気で無視する。
風のように逃げていった。

「やれやれ。
いくつになっても仕方の無い子だ。ワガママなんだから。
やあ、私はオールデュトロノミーと呼ばれているよ。
君の名前は?」
長い毛足が顔に掛って、ほとんど顔立ちさえわからない老猫は、小さなマンカストラップにおどけて挨拶した。

「マンカストラップ」
先ほど思い出したばかりの名前を、マンカスも口にした。
「お家はどこかな?
送っていってあげよう」
「わからない…」

長老は、悲しそうな顔をした。
ほとんど毛玉と呼ぶにふさわしいところから、どうして表情を読み取れたのか謎だが、本当に悲しそうな顔をした。

「わからないよ。
だって、お兄ちゃんがだっこして連れてきてくれたから。
お兄ちゃんの顔ばかり見てたから、どの道を通ったかなんてわかんなかったよ!」

マンカストラップは、結局教会の世話を受けることになった。






「たがー!!」
金色のしっぽを見つけて追いかけると、それは逃げるように曲がり角へ消えていった。
「待って!」
懸命に走っても、どこへ消えたのか。彼の姿はもうどこにもなかった。
「どうしてだよっ」
マンカストラップは憤慨する。

タガーはマンカスのいる教会へ寄り付かなかった。
すぐに会いに来てくれると待っていたのに、タガーは教会の扉の前を素通りした。

堪らず、マンカスは窓から飛び出し駆け出した。
そして追いかけたが、こうして見失った。

「なんでだよ。
俺をここに連れてきたのはタガーじゃないか」
べそをかきそうになって、マンカストラップはほっぺたを掌でぐい、と擦った。

マンカスはタガーを見つけるたび、追いかけた。
「つかまえた!!」
抱きつくと、タガーはぜぇぜぇと息をとぎらせていた。

タガーは、あまり体力がない。

「…おま……どんだけ、…走れんだよ」
「どうして逃げたのか教えてくれよ!
俺のこと嫌いなのか?!」
「ああ、うぜぇ…」

タガーは観念して、道端に座り込んだ。
マンカスは逃がさないよう、豊かな鬣を握り締める。
「ずるいじゃないか!!
俺を連れてきたくせに、どうして自分は逃げるんだ」
「あー。
お前、口が達者になったな」
「うん。
あそこにはタンブルやボンバルリーナがいるから、いっぱい喋れるようになった。でも、タガーにも会いたかったんだ」
嬉しそうに、もふもふとタガーの毛並みに顔を埋めるマンカスを、タガーは片手で押しのけた。

「よだれつけんな、馬鹿」

きゃぁきゃぁ笑いながら、マンカスはその手に噛み付いた。

「あー!遊んでやってるんじゃねぇ!!」

そう言いながら、走りすぎて膝が笑っているタガーは、子供のマンカスに押し倒されて路地に寝転がった。

もうどうにでもなれ、という気分で、彼は空を見上げた。
曇天を遮り、マンカスのまだ小さい顔が、タガーを覗き込む。

「もう終わりか?
もっと遊ぼう!!」

ふぁさふぁさの胸の上に跨ったままで、マンカスは年上のタガーを焚きつけようと飛び跳ねた。
タガーは重さに咳き込んだ。

「遊ぼう!遊ぼう!!」
「いやー…、俺って今まで、後悔とかしたことあんまねぇのよ。
さすがに今は、その苦さを身を持って味わってるって感じか」
「何?
タガー、何か失敗したのか?」
「ああ、すげぇ失敗だったかも」
「それじゃあ遊ぼう!
遊んでたら嫌なこと忘れるから!!」

タガーはしばらく考え込んだ。
唇の端をゆがめて笑う。
「いいぜ。
何して遊ぶ?」