午後になると日差しは明度を落とし、春の光はいっそう穏やかに思われた。開け放した窓の外には、澄んだ空が広がっている。
本で満たされた室内は、セピアの光彩を帯びて物憂く、静かだった。
壁の両側に、部屋を挟みこむようにして背の高い本棚が並んでいる。知識の泉たる本たちは、斜めになることもできないほど棚に詰め込まれている。インクの匂い。
書き物机の上に、うずたかく重ねられた書物と、そこからはみ出す書類。
ペンたてには、白い羽根ペンが刺さっていた。吹き込む風が、開いたままのページと灰色をした教官の髭をそよがせる。
「正式な打診ではないんだがね。僕は、これが一番いいと思ってる。
君に、『海軍』へ行ってほしい」
老教官は、マキャヴィティのもっとも尊敬する人物のうちの一人だった。
マキャヴィティは、何も言わず頷いた。ほんのちょっと頭を上下する事で、もたらされる結果を知っていたけれど、拒否はしなかった。断れば、尊敬する人の立場を悪くする。
「誤解しないでほしい。君独りに犠牲になってほしいと…そう思って頼むわけではないんだ」
「もちろんです! そんなことを、思ってみたこともありません」
「いや、本当は、そうなのかもしれない。けれど、僕は教育者として、卑怯だろうが…一番犠牲の少ない方法を取りたい。だから千人もの学生たちの中から、君を選んだ。
なぜ君を『海軍』に行かせるのか、わかるかね?」
マキャヴィティは恩師の言葉の意味を真摯に考えてみたが、思いつかず今度は横に頭を振った。
教官は、その素直な反応に目を細めて微笑む。
「君ならば、機会を見て悲惨な状況から脱することができると見込んだからだ。
血気にはやる若者を『海軍』なんかに行かせたら、自暴自棄になって自ら破滅しかねない。しかし逆に慎重な君ならば、倦んで自分を粗末にしたりしないだろう。辛抱強く機会を待ちつづけなさい。必ずそのときは来る。
君は能力のある若者だ。チャンスをとらえて這い上がれる。
必ず、君は軍の中央に、必要とされて戻ってくると、僕は信じている」
オールドデュトロノミー教官は、マキャヴィティの肩に掌を置いた。温かさは、彼の包容力そのままだ。年老いた灰色の瞳には、マキャヴィティへの信頼が知性の光とともに力強く灯っている。
「教官、いままでありがとうございました」
「僕はずっと君を信じているよ」
送り出してくれた教官。
色々な事を彼に教わった。勉強のこと。人生のこと。セパタクローについて。
彼の知性はならぶものなく、また人柄も慕わしい。その彼が、なぜ下士官学校の教官などという、閑職へ追いやられているのか。
彼には、人を見る目がまったくないのだ。
それで何度も騙されて、結局今の地位に落ち着いたとか。本来ならば、将軍になっていておかしくない人物だった。ただ、人を見る目が絶望的にないだけで……たしか奥さんも、今の人で9人目だとか。
――信じているよ。
あてにはできないが、それでも懐かしい恩師の顔をひさしぶりに夢に見て、マキャヴィティは安らかな気持でまぶたを開いた。
「気がついたのか」
「ギルバート…隊長?」
鼻につく薬品の匂い。だだっぴろい天井。そこは、官舎の中にある救護室だった。
「すごい、偶然だな。俺の見てる前で、目を醒ますなんて」
ギルバートの声は少し上ずっていた。何かが擦れ合う不愉快な音が、少しの間続いたのはたぶん、ギルバートが寝台の側に椅子を引き寄せたからだろう。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
海賊は、どうなっただろう。仲間たちは。
「あらかた済んだところだったから、よかったんだ。あと10分早く倒れていたら、命も危なかったぞ」
「すみません」
「医者の話じゃ、胃の府がひどく荒れてるらしい。ずいぶん我慢してたんだろうって。痛みや予兆が、ずっと前からあっただろうって。
どうして、俺に言わなかった? 倒れるまで我慢して、仕事してるなんて、お前馬鹿じゃないか?」
「…すみません」
平坦に繰り返す言葉は、ますますギルバートを苛立たせた。
彼は、白いシーツを両手で殴りつけた。
当たりはしなかったが、寝台が揺れてまだ痛む腹にまで余波が走る。
「っ…」
押し殺した悲鳴を、しかしギルバートは鼻で笑う。
「そういうクソ真面目なところは、直したほうがいい」
賛同しかねる意見だと思いながら、マキャヴィティはぼうっと遠くを見つめた。ギルバートは、尖った声で畳み掛ける。「返事は?」
「隊長…」
「なんだよ」
「ここには他の病人も収容されているんじゃないですか? もっとお静かになさってください」
「お前なぁ…」
「他の隊員は? 負傷者は他に…」
「みんな無事だ! 間抜けなお前以外は」
がたんと大きな音が、振動とともに伝わる。
ギルバートが椅子へ身体を投げ出したのだろう。
「お前が何を考えているか、俺にはちっとも判らない!! ……心配したんだからな」
ギルバートの叫び声は、びりびりと病室に響いた。彼の真意を、マキャヴィティは測れない。
ここに配属されて数ヶ月。たったそれだけの時間で相手を把握しようというのが、そもそも無理な話ではないか。
学校の友人とは、一つの目標を共に追いかけてきたけれど、その数年間をもってしても彼らのすべてなんて、計り知れない。
ましてギルバートと自分は、心を通わせたときが一度でもあっただろうか。
白い天井を、虫の一匹も横切らない。
激情のあとの沈黙に、耐え切れなくなってマキャヴィティは初めて辺りを見渡した。首を動かして、枕もとの小さな棚を見上げると、そこには使い込まれた籠球が一つ転がっていた。
棚は、ここで寝起きするものの着替えや洗面道具を収納する為に、寝台一つごとに設置されている。全く同じ寝台と棚のいくつも並ぶ無表情な部屋に、遊び道具がぽつんと置きざりにされていた。
マキャヴィティは、目を凝らして籠球を見つめる。よく乾いた蔓を籠状に編んだ球は、大人の掌より少し小さい。マキャヴィティはこの球に見おぼえがあった。握りこんだとき、きしりと鳴る音。青空の中へ蹴りあげた感触さえ、想像できる。これは、自分の私物だ。
「お前の服を、取りに行かせて見つけた。家に勝手に上がったぞ」
「ああ、仕方ないです。ありがとうございました」
「お前の部屋、何にもないな」
海の近いマキャヴィティの部屋は、窓から見える景色だけが飾りだった。それと、この籠球だけが。
服だけでも大荷物だったろうに、ギルバートはこんなものまで病室に持ち込んだのか。使い込まれ、細かい傷のついた籠球。それは今、マキャヴィティが最も大切にしている物だった。
「そうですね」
「鍋とか、服とか食器とか…そういう、どうしても必要なものばっかりだ。だから、これがすごく目について、持ってきた。お前が、生きたいって思ってくれるように」
ひょっとして、隊長は直々にマキャヴィティの下宿へ足を運んだのだろうか。あの狭い2階の部屋へ入ったのか。
そして自分は、命もあぶない重症だったのだろうかとマキャヴィティは首をかしげる。いや、そうであれば父母のもとへ帰されるだろう。
ギルバートは大げさだ。感情の揺幅が激しすぎる。だから、マキャヴィティには彼のことが理解できないし、彼もきっとそうなのだろう。籠球は白い病室のなかで、静かに光を放っていた。
飴色の艶は、磨きこまれた証だった。このごろは触ってやれなくて、埃をかぶっていたはずなのに。
寝ている間に、誰が。マキャヴィティは手を伸ばしてそこに触れた。球は揺れたが、棚から転がり落ちはしなかった。輪状の支えが、下に敷いてあるようだった。
「学校では、こればっかりやってました。もちろん、勉強もしてたんですが…」
「お前は、勉強をするために国の学校に入ったんだろう? そう聞いたけど」
「それは、建前です。学問だけなら、べつに大学に入らなくても、独学で深めていく手段はある。そりゃあ、教えてもらうよりずっと難しい時間のかかることだっただろうけれど」
「じゃあ、なんで」
マキャヴィティは、急に恥ずかしく思って口ごもる。けれど、ここまで言いかけてやめるのも子供っぽい。
「セパタクローって、知ってますか」
「球遊びだろ」
「そうです。これは、一人じゃできない」
「まさか、お前…球遊びのために軍隊に入ったのか?」
ギルバートは呆れ顔だった。
今回だけは、彼のほうが正しい。マキャヴィティは慌てて言い訳した。
「とてもいいセパタクローの指導者が、俺の行った下士官学校にはいて、オールドデュトロノミー教官っていうんですが、そこのチームは、とても強くて……どうしても、そこに入りたかった」
「人生かけてまで、やることか?!」
「だって、年に一度、親睦を深めるっていう名目で国中の士官学校と下士官学校が集まって、何日もかけて試合をするんですよ。順調に勝ち続ければ、より抜かれた強いチームと試合ができる! そのためにチーム全員が、一丸となって練習した。そんなこと、市井のどこに行っても絶対に叶わない!」
「軍隊に入ったら命だって危険に晒すのに、たった数回の、お遊びの大会のために?」
「そうです。その数年のためなら、命をかけたっていいと思った」
ギルバートは、もはや化け物でも見る目でマキャヴィティを見ている。
マキャヴィティもさすがに、頬を熱く感じていた。一気に言葉を吐き出したせいか、走った後のように胸がどきどきする。
「あまりに親不孝で、本当のことは誰にも言えなかった」
「当たり前、だ」
ギルバートは、無意識だろうが責める口調だった。
飴色の球は、静かに光を放つ。
「隊長」
「なんだよ」
「私は、隊長の望むような人物ではありません」
「そんなことはない。どんな目的があったって、お前がちゃんと士官学校へ行って優秀な生徒だったことには変わらない」
「前から言いたかったんですが、士官学校じゃない。下士官学校です。それとこれとじゃ、天と地ほどの差がある。
私は、隊長の助け手にはなれません」
士官学校は将校を育てるが、下士官学校は、しょせん「兵士」を育てる場所だ。マキャヴィティが、ギルバートのうらやむような出世をすることなど、ありえない。
「お前は、そんなことを悩んでたのか? 身体を悪くするくらい」
「そうでは、ないのですが」
なんと言ったらいいのか。マキャヴィティは思案するために目を閉じた。
視界を遮り、思考だけに集中する。
何と言って、この気の良い、けれどまったく「合わない」人間を説得したらいいのだろうか。自分は、彼の望みのようにはなれない。彼を置き去りにしてここから出たいと思っている。
唇に、この世のものとも思えない柔らかさを感じたのはその時だった。
しっとり濡れたものが、気配だけ残して離れていく。
「この前より、冷たい。でも、やっぱり柔らかいな。
お前結構いい身体してるのに、ここは鍛えられないものなのかな。お前のここ、女と同じくらい柔らかい」
マキャヴィティは驚かなかった。
冷たく瞳に映すと、見つめられたギルバートは意に介さずに微笑んでいた。指を、マキャヴィティの顎に置いたままで彼は言う。
「お前って、本当にバカだな」
「隊長。離れてください。
ここには見てくれる女性もいません」
「上司に向かってどういう口の利き方だ」
「もう、無理はしないと決めました」
二度と倒れるつもりはない。だから、これからはもう我慢するのはやめだ。
こんな無様を晒すのは、一度きりで充分だった。
ギルバートと自分は合わない。それだけのこと。
けれど長く話すと息が切れる状態では、ギルバートを押しのけるまでには至らなかった。それで、不本意にももう一度心の伴わない口付けを受ける。
「やっと地を出してきたな」
ギルバートは面白がっていた。拒絶も本気にとってはいないのだろう。今では、誰もが彼を愛しているから。
こういう楽天的なところも、マキャヴィティの気に障る。心底、分かり合えないと思う。
ギルバート自身は無理でも、マキャヴィティは卓の上を腕で払い、音を立てて籠球を落とした。軽く弾んで球は逃げていく。
マキャヴィティは不快感を露にし、表情を凍りつかせていた。その上に、寝台に腰掛けたギルバートの言葉がつぶてとなって降り注ぐ。
「俺は、お前がいいんだ。お前じゃないやつが来たら、俺の片腕にしてやるなんてきっと言わなかった。考えてみたら、いままでだって頭がよくてお前より剣の使えるやつはいた。だけど、俺はお前のひかえめなところが好きなんだ。計算だけで、世の中を渡れないところも。お前はなかなか男前だし、俺の側にいていい。
俺は、最初からお前のことを気に入ってたんだ」
固く食い締めるマキャヴィティの唇に触れながら、彼はもう一度寝台の上に屈みこんだ。
柔らかさを確かめるように執拗に、他人の唇を押したり摘んだりするギルバートの指先は、存外なめらかだった。
彼は何事かを思いついたふりで、少しだけ身体を起こした。
「本当は、男も女もそんなに変わらないのかもしれないな。今までそんなこと、考えたこともなかったけど。お前、どう思う?」
「っ……」
叫びたい衝動を抑えて、マキャヴィティは必死の思いでギルバートを睨みつける。ギルバートは水を運んできて、病の経過もさだかでない病人にそれを飲ませようとしたりした。
マキャヴィティの上体を寝台の上に起こし、背中を壁にもたれさせながら、食事はだめだ、薬はどうだとかいがいしく世話を焼く。まるでごっこ遊びのようだった。
二度と、我慢はしない。おもねらない。
マキャヴィティは、固く心に誓っていた。
――今日だけだ。
こんなふうに、彼のわがままに付き合わされるのは。
けれど頭に血が昇って、ほとんどまともに言い返すことはできなかった。胃の府は臆病に痛みを訴える。身体は正直だ。
結局ギルバートは、軍医が回診にやってくるまで、仕事を投げ出してマキャヴィティの傍を離れなかった。マキャヴィティの拍を取って、医者は血圧が高すぎると難色を示した。
すんでのところで取り逃がした美形の道化が、実は大海賊グロールタイガー腹心の部下であったと、知らせが入ったのはその日の午後だった。
『すべての風は海に帰る』