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逃げていく船へ鷲のような視線を当てながら、ギルバートは唇の片方を不敵に吊り上げている。

「隊長、よろしければ舳先から離れてください。そろそろ、大砲の射程圏内に入ります」

うみねこが、まっすぐ伸ばした両翼で青空を切り裂きながら去っていく。哀しげな鳴き声は、悲鳴のようだった。
鳥たちは次に吹く風を察知するという。だから彼らは、これから来る嵐も知っていたのかもしれない。

甲板の上で、マキャヴィティは鉄の鎧を身につけていた。
演習用の鎧は革を使用しているが、実戦用のそれは革も利用しつつ多くが鉄で構成されている。正規軍の装備は、実用性はもちろんのことそれ以上に悪趣味なほど飾り立てられていた。ぎらぎらした金色。

一番の見ものは胸を覆うリングメイルで、鉄でありながらしなやかに身体を覆う。金色に塗付されて、まるで本物の黄金のようでもある。強い輝きに一見豪快な印象を受けるが、ところどころにはめ込まれた透明な色石と、つなぎ目がわからないほどの複雑な織りとが相まって、間近で見れば繊細さが際立った。天へ反り返る肩当には、魔よけとされる精霊の目が大きく開いて、敵を威圧する。それもまた、白き瞳を囲んだ群青を、更に金色が縁取っていた。

ギルバートの鎧は、彼の位の高さを表すように一般兵よりいっそう特徴的で、ばかばかしいほど手が込んでいる。リングメイルそのものが、繋げた金の鎖でもって精霊の目を織り成し、ちりちりと揺れる飾り石も、兵卒のそれより多い。どてっぱらに、口のように大きく開いた青い瞳が、獲物を見すえている。
奇襲のための装備ではなかった。
正面から敵を睥睨し、罪悪感なく踏みにじるための道具立てであった。
精霊の目は魔を払う。
精霊の目は悪を滅ぼす。

ギルバートの額宛には、蛇の意匠が鎌首をもたげている。とても巧妙な造りで、細い舌を触手にして今にも伸ばさんばかりの姿態と、赤い石の埋め込まれた目つきの冷たさは、ギルバート自身に勝るとも劣らない。

ギルバートとサーカスへ行ってから、太陽は沈んで昇るをくりかえし、あれから数日が経過しようとしていた。

「かまうな。ここで、海賊たちが右往左往するのを見るのが、俺の楽しみなんだから」
「そうでしょうが、立場をわきまえてください」
「ほら、あいつら、とうとう飾りを海に捨てだしたぞ」

旅芸人の船らしくさまざまに装飾を施した船体の、腹にくくりつけられた救命ボートにも、こんもり造花が盛られていた。ボートはロープを切り離され、色とりどりの花びらを散らしながら海面に激突し、井戸の中のつるべが水に沈むように波の底へ引きずりこまれていく。

「そら、もうひとつだ」

船の反対側に繋がれたボートも、同じように落ちていった。
平らになった船腹に、カモフラージュされていた大砲口が開き、くろがねの砲身が突き出す。

彼らをただの旅芸人ではないとマキャヴィティが見抜いた一番の理由は、この船の造作にあった。女性の形をした彫り物や、ごてごて飾られた造花に紛らわしてあっても、ボートの陰の大砲口や手すりに残された刀傷は隠しきれない。商船にしては異常なほどの性能も尖った船体から計り知れた。

また、芸人を装う彼らの、隙のない足取りも確信を強めた。
地面に張り付くようにすり足で歩くのは、重い刀を上着に隠しつつへそのあたりから下げて暮らす者特有の癖で、マキャヴィティも気を抜くとそうなる。右利きのものは左側に帯刀するから、重さに引かれて肩がそちらへ傾くのが恒だった。

海賊たちの砲身が、火をふいた。ギルバートの船の舳先から、少し離れた場所へ着水する。高く水が跳ね上がって、ギルバートのいる甲板を濡らした。
海賊船は、虚飾を脱ぎ捨てて本来の姿にもどろうとしつつある。

「隊長…」
「わかってる。お前は本当に心配性だな」
「指揮をとってください。砲手たちも待ちかねています」

ギルバートは海を見つめていた。真昼の海の青を映してさえ、瞳の漆黒は薄れない。鎧が、豪奢な金の光を弾く。波に負けずに、ぎらぎら光っていた。

「あいつらは、海の上で略奪するだけでなく人質を取って身代金を奪う」
「……」
「商家の娘がかどわかされた。主人は莫大な身代金を、言い値でやつらに払ったが、娘はもどらなかった。わかるか?
あいつらは馴れてる」

マキャヴィティは、伏せていた面を上げてギルバートを見つめた。黒い瞳の真意をさぐる。

「遠慮はいっさいいらない。凶悪な海賊のなかでも、もっとも性質の悪いやつらだ」

金の兜を陽光のもとに捧げて、マキャヴィティは静かにそれを頭上へ戴いた。目の下、頬までを兜は覆う。ギルバートへ向かって一礼すると、重苦しい鉄は耳元でちりりと髪にこすれた。
マキャヴィティのうしろへ控える隊員達も、続々あとへ続く。何十もの兜が鳴らす鉄の音が、甲板中に広がる。真昼に、不穏な風が戦の始まりを告げていた。海賊船の船尾は、手に取れそうに近い。



「敵は凶悪であればあるほどいい」

刀を振るい、文字通り戦端を切り開きながら、マキャヴィティはギルバートの言葉を思い出していた。

「それでこそ、狩りがいがあるってものだ」

その声に背中を押されて、戦場へ打って出た。
血煙うずまく酸鼻の光景より、海賊の手ごわい抵抗よりも、なおマキャヴィティの心を暗くするのは自軍が戴く隊長殿のことだった。

彼の野心、欲望。その道具になることが、果たして正しいのか。
考えれば胃が重くなる。すっかり慣れてしまった痛みだ。

「お前たちも、いくら悪党とはいえあの人の出世の餌になるために罪を重ねたわけではあるまい」

憐れみを持って、5度打ち合った相手の身体から6度目の刃を引き抜く。答えはなかった。いつのまにか、死も血も仲間のものでない限りマキャヴィティの心を動かすことはなくなっている。こんなところを友人に見られたら、彼はなんと言うだろう。散る花のもとで別れて以来、彼とは一度も会っていない。

わあっと背後で声が上がった。女性たちの嬌声とは比べ物にならない、野太い悲鳴。
ギルバートがこの海賊船に乗り移ったのだろう。彼が来るとすぐにわかる。

正規軍の、暗闇にも紛れることない金の鎧や、色鮮やかな旗。「国」という巨大な力の存在を、後ろ暗く生きる奴腹にいやというほど見せ付ける。
ギルバートの、ひときわ精緻に飾り立てられた姿は、彼の強さとあいまって恐ろしい。

己の腕で提督の座を切り取ろうというだけあって、ギルバートが率いる部隊のうち、最も強いのは大将たるギルバート自身だった。

彼が出れば、膠着状態だった戦況もいっきに転がる。彼はそうやって、何度も自軍を勝利へ導いてきた。ギルバートよりずっと早くこの船に飛びこみ、四苦八苦して道を切り開いてきたマキャヴィティに、ギルバートが追いつくまでもそう長い時間はかからなかった。

「どうだ、状況は。あの道化は見つかったか?」
「いいえ。ひょっとしたら、ここにはいないかもしれません」

残念そうに舌打ちする音が、マキャヴィティの耳に届いた。ここまで駆け抜けてきた彼は、恐ろしいことにほとんど息も乱していない。

「船長は討ち取りました。けれど、抵抗がやみません」
「ふうん。なんでだろうな」
「貴方が捕虜をどう扱うか、海賊達の間にも知れ渡っているからでしょう」

マキャヴィティの嫌味に、ギルバートはわざとらしい微笑みを頬へ刻むことで返した。

「船の腹へ入る。女子供も、容赦するな」

船倉への扉を部下に開かせて、ギルバートは薄暗い中へ飛び込んだ。
銃声が響いたのはその時だった。

「…っ!」

胃の府が浮き上がる。マキャヴィティは、背中を開いた入り口の影に押し付けて、すばやく回転しながら船倉へ躍り出た。

ギルバートが手にする名刀から、赤い雫が滴り落ちて床にいびつな絵を描く。
彼の足元に、女が崩れ落ちていた。豊満な体とは不釣合いなほど節だった手に、紫煙を細くくゆらせた短銃を握っている。
人差し指の第二間接あたりに、古い傷跡が行く筋も残っていた。

「隊長、お怪我は!」

邪魔な兜を脱ぎ去る。
金色のそれは床におちて、派手な音を響かせた。

ギルバートは、ちょっと肩をすくめて見せただけだった。金の鎧に血の色が飛び散っているが、彼には傷はないらしい。
マキャヴィティは思わず側の壁に寄りかかった。ずきずきと痛む胃の府に、知らずに手が伸びる。

「イヤァァァァ!」

物陰から女が飛び出してきて、マキャヴィティに襲い掛かった。刀身の反り返った長い獲物を振りかざし、大上段から振り下ろす。

先ほどまで凭れていた壁に、木屑を散らしながら鉄が突き刺さる。女は、壁に片足をかけてのけぞった。
乾いた音とともに抜き放たれ、再度閃光がマキャヴィティを襲った。

「殺すな!」

ギルバートの鋭い声。
マキャヴィティはとっさに切っ先を寝かせて、刃の腹で女の手を打った。びりり、と振動が刃を伝わって肘まで響く。それほどの力で打たれた女は、重い鉄が床に跳ね返るほど強く、持っていた得物を地に投げ出していた。
半月刀は、折れこそしなかったものの衝撃に負けて刃先を零れさせた。それでも、女は傷ついた白い手でそれを拾おうとかがみこむ。
剣を握らない左手の、人差し指の脇、第二間接の辺りに治りかけた傷跡が赤く滲んでいた。一つではなく、細く重なったそれは、間違いなく刀のつけた傷だった。マキャヴィティではない。マキャヴィティが打ったのは、剣を握る彼女の右手だ。

「よせ」

傷ついて血を滲ませているだけでなく、荒れはて、白く皮の浮いた女の手を、ギルバートが握りしめる。
女は、悲鳴を上げながらギルバートを凝視した。

「およしなさい、ベラ殿。ベラ殿ですね。父君から話しを伺って参りました。大丈夫です。お父君は陸で、首を長くして貴方を待っている」
「あ…あっ」
「大丈夫です。私たちは、お味方です」
「わた、わたしっ」

獣のようだった女の目に、みるみる涙が盛り上がる。

「帰れません…わたし、帰れません」
「大丈夫です。お助けします」
「だめですっ! 私、お、おどされていたとはいえ、海賊の、てだすけ、を…ひとを…あ、あぁっ」
「貴方は、彼らを助けたんじゃない」
「いいえ、…いいえっ」

押し殺した悲鳴を上げながら、彼女は床にうずくまった。

「聞きなさい。貴方は、銃で脅されて無理矢理やらされたんだ。思い出して。彼らのすることを、芯から肯定したことなど一度もなかったでしょう。
もし、貴方が望むのなら、この船にいたものを一人残らず消してさしあげる。貴方の秘密を、海の底へ封印してあげよう。貴方は、商家のベラ殿。それ以外は、みんな夢だったと忘れてしまえばいい」
「ひとが覚えていなくとも、自分だけは、偽れません…っ」
「それでもあなたは、帰らなくてはならない。お父上が港で待っている」
「お、父様…?」
「そうです。育ててくれた親の嘆きは、あなたの罪の意識より軽いものだと? あなたは帰らなくてはならない。その後、どんなに辛くても。
さあ、こちらへ。一緒においで」

ギルバートは彼女の白い手を取り、縺れた黒髪までを涙で濡らした彼女の、ぐらぐら揺れる不安定な身体を助け起こした。

「隊長…」

だいたいの事情はわかった。しかし、本当に一瞬前まで敵だった女性を、信じていいものか。

彼女の肌は、ささくれてくすんでいた。手も、生まれて初めてやらされた荒仕事に傷ついて、ひどくひび割れている。
けれど、剥けかけた痛々しい皮膚を透かして、肌理の細かいミルク色が息づいているのが見える。過酷な数週間の汚れを洗い流せば、彼女本来の姿に戻れるだろう。毎日湯をつかい、乳液をすりこまれた薔薇の花びらのような肌は、そう簡単には荒廃にまぎれない。
彼女の手は、剣を握っていても場違いなほど華奢だった。働いたことのなかった者の手だ。

それと、人差し指の内側から脇にむかって走る傷跡。
剣のあつかいに慣れないうちは、鞘をにぎって刃を抜き出すとき、また、鞘に収めるとき、柄を握るほうの手に刃が当たってよく傷つけてしまう。利き手とは逆の手に、ああいう新しい切り傷を持つのは、最近剣をはじめた人間だ。また逆に、その場所にいくつもの古傷を重ねる者は、剣の扱いに慣れていると警戒すれば間違いない。

ギルバートは、軽く顎をしゃくってみせた。「連れて行け」としぐさで伝える。ギルバートが率いてきた隊員のうち、一人が心得て頷いた。

よろよろ連れて行かれる女性は、あの日鈴とリボンのついた銀のリングを舞台に落として、立ち尽くした踊り子だった。憔悴した彼女の顔には見覚えがなかったけれど、手の傷で気付いた。あの時も、彼女は手の痛みに耐えかねて小道具を落とした。
ギルバートは、彼女が女海賊に混じって群舞を踊っていたあの時から、人質にされた娘は彼女だと、勘付いていたのかもしれない。

その女海賊も、いずれの場所からか連れてこられた者達だったとしたら、気の滅入る話だ。

ずくりと、腹の中がのたうつ。
マキャヴィティは顔をしかめた。

「どうした?」
「いえ」

自分は、本当にこの仕事に向いていない。
自覚を強めながら、マキャヴィティは心配そうな上官へ大丈夫ですと答えた。手はどうしても腹を庇ってしまう。

青ざめたマキャヴィティの顔へ、何事かを言いかけて彼はやめた。代わりにその場にいる全員に向かって激を飛ばす。

「まだ海賊は残っている。ボートまで捨てたやつらだ。逃げだされる心配はないが、残らず殲滅するまでは油断するな」

マキャヴィティはできたら生け捕りにしたいと、(せめて、女たちだけでも…)その言葉を喉元で飲み込んだ。

「甲板の海賊は、」
「ああ。全部片付けた。
残りは、ここに隠れているやつだけだ」

静まり返った船倉へ、血刀をひっさげて部隊は降りていく。命がけなのだ。海賊は死ぬ気でかかってくるものを、どうか手加減してやってくれとは、マキャヴィティには到底言えなかった。

無理は身体によくない。
若い海賊を手にかけたとき、彼女に指一本触れさせなかったというのに、マキャヴィティは咳とともに血を吐きだした。

「マキャヴィティ!」

掌に、べっとりと赤黒いものが張り付いている。どろっとしていて、少しも液体のようではないが、血の色はすぐに見分けられる
狼狽するギルバートの声を聞きながら、マキャヴィティは天地が傾くのを感じた。これほど多くの血と死を見ているのに、自分のそれには飽きずに動揺する。

――こんなときに…

死ぬかもしれない。そう思いながら、マキャヴィティは自分が斬った女に折り重なるようにして倒れた。
閃き光る白刃を、最後に見た気がする。
心臓の鼓動とともに、焼きつくような痛みも腹の中で脈打っていた。