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わけがわからず隣の上官を見つめると、ギルバートの拳が、何度も無遠慮に腹へ当たっているところだった。逃れようと上体を倒しながら、マキャヴィティは何を、とギルバートへ視線で問いかけた。

彼は、唇をほとんど動かさずに口の中で訴える。「どうにかしろ…」

腹を庇って、屈みこみながら、マキャヴィティは首を傾げる。どういうことかと天幕の中を見渡すと、子供はともかく、女性たちはみな、もと道化の顔に見とれているようだった。さっきまでギルバートへ熱い視線を送っていたのが嘘のようだった。なるほど、これでは彼も面白くないに違いない。

腹に拳を叩き込まれるたび、身体がぐらぐら揺れる。ギルバートの力は強い。ひょっとしたら手加減をしていないんじゃないかと、マキャヴィティはいぶかった。けれど、マキャヴィティはそもそも剣の練習をするつもりの重装備である。肩当てはかさばるので外してきたが、薄い上着の下の腹には、ちゃんと防具を巻いている。だから、ギルバートのしていることはギルバートの手を傷めるだけのことだった。しかし痛くないかわりに、何度も殴られたマキャヴィティは身体を揺さぶられて酔ったようになってきた。顔が青ざめていくのが、自分でわかる。

胃の痛みも相変わらずなので、これ以上揺すられるとえづいてしまいそうだ。

「隊長…」

失礼に当たらないよう、マキャヴィティは細心の注意を払って上官の理不尽な拳を自分の掌で包み込んだ。柔らかく受け止めたつもりだったが、つい力が入りすぎてギルバートの指の関節がぱき、と鳴るほど握り締めてしまっていた。
そんなつもりはなかったのに……自分に言い訳しつつも、目前に迫るギルバートの顔までなんだか真剣味を帯びてくるのだった。

――貴様、上官に逆らうとはいい度胸だなとそこには書いてあった。

きゃあ、とひときわ高い女性の声がかかったのは、ギルバートと鼻のこすれあう至近距離で不毛な攻防を繰り返していたときだった。

ギルバートが、何事かとすばやく女性達を振り返る。拗ねたような、不機嫌な顔をして。
いつもの気取った顔ではない、素の彼は、若いせいでとても一軍の長には見えなかった。

「なんだ?」
「さあ」

あわてて笑顔をとりつくろったギルバートが、白い歯を光らせつつ片手を上げて挨拶してみても、女性たちの反応はいつもと違う。くすくす笑い声が起きるのは、ギルバートの調子にのった嬉しそうな顔を彼女たちが見てしまったせいだろう。
ギルバートは、そっと手を下ろした。彼にしては珍しく、収まりの悪い恥ずかしそうな顔をしている。舞台の上で、こほんと咳払いが響いた。

もと道化が、髪を覆っていた布をするりと解き、長めの髪を肩先で躍らせる。彼は、改めてギルバートへ頭を下げた。
確かに、人前に出れば被り物を脱ぐのは礼儀だろう。けれどその何気ないしぐさに、また女性たちの視線は彼へ釘付けにされた。何をしても、さまになっている。

ギルバートの拳が、また背後からマキャヴィティの背中を襲った。

「痛…痛いですって……やめてくださ…い」
「変な声を出すな…そしてなんとかしろ。お前、頭いいんだろ」
「旦那方、どうぞそろそろお引取りいただけませんかねー押してるんですよ、仕事が。お望みなら、仮面どころか服だってここで脱ぎますが、旦那方もせっかく舞台を見に来たのに締めが男のストリップなんて面白くないでしょう」
「誰がそんなもの見るか! お前がやりたいと言っても法律でとりしまるわ」
「そりゃあよかった。俺は気にしないが、そんな野蛮なところを見せたら女性を怖がらせますからね」

彼が客席へ視線を走らせただけで、観客たちはまるでいきなりスポットライトを浴びたかのような反応を返した。
ギルバートも悪くない顔だちをしているが、彼と比べたら分が悪い。残念なことにギルバートと彼とでは、文字通り役者が違いすぎる。

「…うぅ」
ギルバートは隣のマキャヴィティにしか聞こえないくらいの小声で、悔しそうに呻いている。ほとんどマキャヴィティの背中に張り付いている格好だった。殴ることさえ、忘れてしまったようだ。彼は他人の肩に顎を乗せて、意図せず髪や額でマキャヴィティの耳の後ろをくすぐっていた。
荒れた髪にちくちく頬を刺されて、マキャヴィティは青ざめた顔のまま、客席に立ち尽くすしかなかった。まさか置いて帰るわけにもいかないだろう。

ギルバートを背負いながら立っていると、また女性の視線を感じた。

舞台では例の男が采配を振るっている。彼がいるのに、なぜギルバートなんかを見るのだろうと、マキャヴィティは不思議に思った。
あんなに綺麗な役者がいるのに、ギルバートの醜態なんかを見て何か楽しいのだろうか。

背中から、ふいに重さが消える。
ギルバートは、くっついて来たときと同じくらい唐突にマキャヴィティから離れた。そして、まじまじとマキャヴィティを上から下まで見下ろしていく。

「何か?」

不躾な視線に、つい聞いてしまう。

「そのまま立ってろ」

ギルバートはそう言うと、マキャヴィティに今度は正面から抱きついてきた。
女性の悲鳴が、同時に沸き起こった。マキャヴィティはとっさに舞台を見下ろした。特に変わったところもなく、道化はそこに立っている。マキャヴィティは安堵のため息を漏らしつつ、悲鳴のあがった方向もすばやく確認する。赤いスカートをはいた少女が、笑いを抑えられないというふうに、両手で自分の頬を抑えて顔を伏せていた。おそらく彼女が先ほどの声の持ち主だろう。

「隊長?」
ギルバートの顔がせまる。

――ぶつかる。

マキャヴィティは思わず目を閉じ、そして恐怖からそのままにはできず、睫を上げて間近にあるギルバートの瞳を見つめた。そこに、自分だけが写っているのを見てしまう。
唇に、ぷにゅっとこの世のものとも思えない柔らかいものを押し付けられた。
今まで食べたことのある、どんなものより柔らかかった。水だってもう少し堅い気がする。コップに口をつけて、ぬるい水が最初に唇へ触れる瞬間。

得意そうな、ギルバートの顔。
ああそうか。柔らかいもの同志をくっつけたから、信じられないほど柔らかいと思ったんだ。水のように柔らかい。

今度こそ客席のいたるところからあからさまな嬌声が上がった。

マキャヴィティには何がなんだかわからなかった。ただ、わなわなと口許を覆う。

舞台の上では、金茶の髪の男が呆れた顔をしたまま「もういいから」と団員たちを舞台に呼びよせたところだった。客席を無視して、後片付けを初めてしまう。
夢の舞台裏は見せないんじゃなかったのだろうか。

「ふふふふふ」

ギルバートが、薄気味悪く息を吹きかけてくる。

「なんですか」

上官と部下の枠を超えて、眼前のギルバートを両手で力いっぱい押しのけつつ、マキャヴィティは聞いた。両肩にかかったギルバートの手も、ついでに引き剥がす。

「お前は気づいたか?」
「何を…ですか?」

マキャヴィティの頬にびりっと緊張が走る。
舞台は装置をばらす作業にかかっている。見た事もないような、奇妙な装置ばかりだ。あそこに、新種の武器でも隠されていたのだろうか。それに、ギルバートが気付いた?

「超ハンサムより、そこそこでも男二人が揃ったほうが、女たちの受けがいい!」
「ああそうですか」
「いや俺は超絶ハンサムボーイだけどな?! お前がな!」

ギルバートがもう一度、今度は口ではなくマキャヴィティの頬へ顔を寄せる。ちゅ、と音を鳴らして離れると、客席をまたどよめきが走った。
けっけっと、猫が毛玉を吐き出すように背中を丸めて小さくえづいているマキャヴィティの、正面を避けてギルバートはまとわりつく。
多くの女性はギルバートとマキャヴィティをほのぼの見守っていた。
一部の理性的な女性と、まだテントに残っていた数少ない男たちは、軽蔑の眼差しを隠さなかった。子供は泣いていた。

――隊長に期待した俺がバカだった。
そもそも何をしにここへ来たんだ。

観客の顔色を伺いながら、彼女らに受けようとしょうこりもなく抱きつくギルバートを、あるいは肘を当てて拒否しまたすばやく身をかわしつつ、マキャヴィティは今度こそ天幕を離れようと先頭に立って歩き出した。いまだかつて感じたことがないほどの、胃痛が腹を苛んでいた。

ギルバートは、一人で敵の中へ切り込むような無謀なことはせず、おとなしく後をついてきたらしい。そうでなくては、いくら彼が軍いちばんの使い手だとはいえ、マキャヴィティの隣に今並んでいるのは彼の幽霊ということになっただろう。