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王宮を擁する首都クルンテープマハーナコーンからも遠くはないのだが、ギルバート率いる『海軍』が根城を築いているのは首都とは比べ物にならない貧しいスラム街だった。町は港も併せて、ほとんど整備されていない。漁港と見まごう狭い港に、ぽつんと巨大な軍艦がそびえていなければ、ここに軍の施設があるとも信じがたいだろう。

それが、今は華やかにざわめいている。道々にあざやかな色彩があふれ、人々は仕事の手をとめてぽかんと目を見開く。子供達は、見た事もない変わった衣装を着た芸人達を追って走り回り、彼らの一挙手一投足に歓声を上げていた。

「許可は、出てるんですか」

役者たちは華やかな舞台衣装に身を包み、狭い道を縦横に行進する。一座が打ち鳴らす楽器の音と、彼らを取り巻く熱狂に耳を塞ぎながら、マキャヴィティは隣のギルバートに聞いた。

「何が?」
「芸人たちが街頭で宣伝することを、貴方は許したんですか」
「それは警察の仕事だろ。俺は関係ない」
「何をいいかげんなことを…」

ギルバートは上機嫌で一座を値踏みしているが、マキャヴィティは落ち着かなかった。

「警察だって、貴方の意向をまず聞いてくるでしょう。ここの脆弱な警察力と、貴方の軍隊とでは、比べ物にならない」

おだてると、ギルバートはふふんと鼻を鳴らした。
彼は赴任してたった数年で、賄賂とコネに腐敗した警察組織の規律を正した。国から賜った海軍士官の地位と、自ら育て上げた軍隊とを後ろ盾に。
海沿いのスラムは、見違えるほど住みよくなった。

軍隊は道を整備し、犯罪を取り締まり、民を警察の汚職から守る。

その恩に、ますますギルバートの軍隊は彼への忠義を強くする。彼の『海軍』に入隊するのは、ほとんどがこのスラムに育った子供達だ。ギルバートは、道で寝起きする親のない子をまず軍隊へ招き入れた。仕事と住む場所と、食事とをいっぺんに与えられた彼らは、ギルバートの忠実な部下となった。ランペルティーザもそのうちの一人だ。

結果としてギルバートはこの町の恩人だった。中央は、こんな場末の港町のことなど気にかけていない。
その隙をついてギルバートが望んでいるものが見えるから、マキャヴィティは人々のギルバートへの信頼をとても危うく思う。今も、ギルバートに気付いた若い母親が遠くからぺこりと彼に頭を下げた。道端にたむろし、昼間から酒をあおっていた男達も、海のものらしく皆荒い顔つきだが、我が物顔で歩くギルバートへ当然のように視線を投げかけるのみである。誰も彼を咎めない。彼の歩く道を、遮ったりはしない。

現に、警察組織はギルバートに骨抜きで、もし彼がこの町で何か罪を犯したとしても彼だけは決して裁かれないだろう。この町を足がかりに、彼がしようとしていること。

「貴方が許さなくて、警察が彼らを港につけさせるわけがない」
「そりゃそうだ。で、お前は何を不安がってる?
俺がこういう楽しそうなことが好きなのは、お前も知ってるだろ」
「だって彼らは、海賊です」

ギルバートは、軽く目を見張ってみせた。

「どうしてそう思う?」

行列の最後の一人が、高く笛を吹き鳴らす。
派手な衣装に手招きされて、芝居小屋代わりのテントへ次々と人が飲み込まれていった。





ギルバートがテントの垂れ幕をくぐると、客席から黄色い声が上がった。

「ほら、お前も笑え」

集中する視線にさわやかな笑顔で応じながら、ギルバートは片手を上げる。マキャヴィティは、ギルバートの目立つ軍服を横目に捉えながら目を細め、引き攣った唇を無理矢理吊り上げて見せた。ギルバートは、振り返ってため息をつく。

「俺達は正義の味方なんだから、彼女たちの声援にはそれらしく笑ってこたえろよ」

胃が、むかむかと不快だった。

「あっち座れ。そこじゃない! そんなうしろじゃ舞台が見えないだろう」
「え、でも、一番後からきたんだからここに」
「いいんだって。こっち。来いよ」
「いや、それはどうかと思いますけど」

ギルバートは意に介さない。どかどかと前の座席に割り込む。そういうことが大嫌いな性分のマキャヴィティは、ギルバートを止めようと思わず彼の手首を掴んだ。それが、よけいに彼の気分を害したらしい。

「隊長、行きます。着いて行きますから、もっとゆっくり…あ! 人を、人を避けて歩いてください!」

ギルバートに襟元をわし掴まれて、引き立てられながらマキャヴィティは無力にあがく。ギルバートが構わず服をひっぱるせいで、マキャヴィティは他人を踏まずに歩くことさえ難しかった。柔らかいものを靴底に感じると、同時に痛そうな声と非難の視線がマキャヴィティだけに突き刺さる。ギルバートは要領よく人と人との隙間に爪先を下ろしているらしいが、彼に服を引かれるせいで上半身からつんのめって歩くマキャヴィティにはそれが出来なかった。ギルバートの満足する座席にたどり着くまで、何十人の恨みを買っただろうか。
胃袋がまた痛んで、きりきりと差し込むようだった。

ギルバートが腰を落ち着けたのは、客席の中央に近いところだった。それでなくても狭いところへ割り込んだのに、誰も彼を咎めない。やはりこの町は、ギルバートのものなのだろう、あらゆる意味において。

道ばたで聞いたのと同じ高い笛の音が響き、舞台の始まりをつげる。期待に満ちた歓声が天幕を揺らすので、マキャヴィティも素直に拍手を打った。

芸人達は、奇術やダンスを次々披露する。
光る石のびっしり縫いこまれたドレスを翻し、腿も露に踊る女達と、大きな舞台装置を使った手品。どれもこれも、期待ほどじゃないと思うのは豪奢な衣装や小道具と比べて、肝心の芸がぎこちないせいだ。
さまざまな奇妙な装置は、ほとんど使われることもなく客席に見せびらかされるだけで終わった。輪舞の踊り子が一人、小道具を落として舞台の中央に立ち尽くした時など、場が凍った。鈴とリボンのついた銀のリングはガシャンとけたたましい音を立てたので、彼女の失敗は嫌に目立った。

唯一、仮面をつけた背の高い道化が、流れるようなパントマイムを披露したときだけが、何もかもを忘れて舞台に集中したひとときだった。マキャヴィティも、その時だけはいつしか舞台に見入っていた。

道化は口を利かない。他の演者とは違って、木綿の粗末な服を着ている。まずしい漁師という設定なのだろうか。金茶の髪を布の下に押し込めて、額から後頭部を覆った布は後できつく結び目をつくっている。甲板の上で一日中、まともに陽をあびながら過酷な作業をしていても、額を布で覆っておけば汗が目のなかに落ちてこない。

彼の上着と下穿きの色はちぐはぐで、所々擦り切れてさえいる。

こっけいで大げさななかにも、背中合わせに哀愁を感じさせる道化独特の芸に、ぞっとするような凄みを添えるのは彼の白い仮面だった。おかしな動作とは裏腹に、鼻筋の高い端正な仮面が、彼に冷酷な印象を与える。

彼が架空の魚網をたぐりよせるとき、マストへ綱を結ぶとき、見えない船から転がり落ち、波の中で空へ向かって毒づくとき、なにげないしぐさのなかに、彼は他の団員たちとは反対に右の肩をわずかに下げる。
彼の癖だろう。左利きだなと、マキャヴィティは見当をつけた。

けれどそれ以外は、観客は中だるみの舞台よりむしろ客席を気にしていた。隣に座っているマキャヴィティにはわかる。
ギルバートを、彼らはちらちらと振り返り、特に若い女性たちは彼に微笑みかけられると舞台そっちのけで恥ずかしそうな声を上げる。もちろん、抑えた声音ではあったけれど、自惚れ屋のギルバートの自尊心をくすぐるには充分だった。

舞台は未熟で、不満の残る出来栄えだったろうに、団長が締めの挨拶するころには彼はすっかり上機嫌だった。
きっちり詰まった襟足に指を入れて緩めながら、ギルバートはふうとため息をついた。ぶ厚い天幕は風を通さないようだった。海に近いのに、すこしも風が動かない。

そこここからギルバートへ、遠慮がちに、しかし熱い視線が送られている。
彼の隣にいるマキャヴィティまで、巻き添えで彼らの注視に耐えなければならなかった。注目を感じて、ギルバートはますます増長する。首筋を晒しながら気取った薄笑いをうかべるギルバートは、着崩した軍服とあいまって無頼で、小面憎く見えた。

「隊長…」
「ん?」
「このまま帰るんですよね」
「んん? どうしようかなぁー」

階段状になった客席から、波が引くように人々が帰っていく。
けれど、ギルバートは立ち上がる様子がない。
また片手を上げて、女の子たちに歓声を上げさせた。

「いいから、帰りましょう。私達は海軍です。決着は海でつけるべきではないですか」
「いやー、どうしようかな」
「隊長……俺達はふたりきりなんですよ。相手の人数を考えてください! お立ち下さい。今すぐ帰りますよ」
「何のことだ? 俺はここの踊り子へ花でも贈って楽屋に押しかけようかと思っているだけなんだが」
「いやもう本当勘弁してください」

耳元で叱りつけるマキャヴィティを、ギルバートはにやにや見つめながら足を組み替える。
幅の狭い客席は、背の高いマキャヴィティにとって足の置き所に困ったけれど、人がいなくなれば丁度いい背もたれになった。ギルバートは一列うしろの席に両肘をつき、ふんぞり返っている。ちっともその場を去る気配を見せない。そんなギルバートの様子を、じっと見つめる女性たちの存在も、自意識過剰な彼をここに留めている理由だろう。

「お客さま、本日の公演は終了いたしました」

聞いた事もないほど、華やかな声だった。
マキャヴィティは水を掛けられたように声の方向を振り返った。ギルバートは、つまらなそうに目を伏せている。

「お客さま?」

そこにいたのは、粗末な服をまとった道化だった。

天幕の中央にある舞台を取り囲んで、客席はしつらえてある。底にある舞台から一段ずつ高くなっていく客席は、半席以上が空になり天幕の中はがらんとしている。

客席の階段を下りて舞台に立てば、右肩をわずかに下げる独特の立ち方をしている道化の隣にすぐ立てただろう。
なぜこの男に歌でも歌わせなかったのかと座長に聞きたくなるほど、彼の声は深い。

「かまうな。気が向いたら立ち去る」
ギルバートは、犬でも追い払うように手をふった。

「ここはつかの間の夢を売るところ。これからは、夢の後始末をはじめます。夢の舞台裏は、次の夢を味わっていただくためにもお客さまにはお見せできません。
どうぞ、すみやかにお引取りを」
「ずいぶん言うな…」

ギルバートは、そこで始めて顔をあげて面白そうに彼を見た。むしろ柔らかい優しい声で、道化をいなす。

「俺は気にしない。お前ら勝手に後始末でも小細工でも、するといい」

頭を下げていた道化は姿勢を直すと、またあの華やかな声を天幕に響かせた。

「なあ、軍隊の旦那。こっちにはこっちの都合ってもんがあるんだよ。おとなしく帰んな。ガキのころ言われなかったか? いいコにしてないと、サーカスに連れて行かれるよってな」
「お前、誰に向かって口を利いている!」

打って変わった道化の乱暴な口調に、ギルバートが何かを応じる前にマキャヴィティが割って入った。ギルバートに物を言わせるのは危険だ。

振り返らなくても、隣にいるギルバートの目の色が変わっているのがわかる。意思の強さで、実際より大きく見える彼の黒い瞳は、面白そうに見開かれてますます印象を強くしていることだろう。
普段は甘い微笑みばかりを浮かべている口許が、力を溜めた彼の身体そのままに冷たく引き結ばれているところを、見るまでもなく想像できる。

「控えろ! 卑しい芸人ごときが口答えしていいお方ではない」

マキャヴィティの首筋を、冷たい汗が撫でていく。急ごしらえの客席を、揺らして立ち上がったマキャヴィティが庇うギルバートは、好戦的なオーラを全身から立ち上らせていた。今にも彼の前にいるマキャヴィティを頭から押さえこんでしまいそうだった。
彼が一言でも発したら、終わりだ。腰に佩いた太刀一本を頼りに、さっさと彼らのなかに切り込んでいきかねない。
彼らは、マキャヴィティの予想が正しければ、それも十中八九外れなく、ただの旅芸人たちではなく海賊の一派だというのに。

「もちろんです。だからこっちは、お願い申し上げてるんですよ。
ねえ、男前の旦那」

華やかな声。
金茶の髪をした道化は、軍服に身を包んだ若き将校を仰ぎ見た。ギルバートは、仮面越しの視線をまっすぐ見つめて跳ね返す。表情の抜け落ちたギルバートの横顔。

――しかたがない

マキャヴィティは左腰から下げた大振りの刀へ、じりじり手をかけた。
道化は、見ていないふりをする。

「勘弁してくれませんかね。男前の旦那。それと、部下殿。
俺達はこれから、色々しなきゃならないことがある。どうぞ、お引取りいただけませんか」

やはり深い響きをもった、華やかな声だった。少しも焦ったところがない。彼は、舞台に膝をついてもう一度、先ほどより深く頭を下げた。
ギルバートは客席から彼を見下ろして、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
まだ天幕の内にいた人々は、すっかり足を停めてなりゆきを見つめている。ギルバートは、相変わらず女性や子供たちから憧憬の視線が浴びせかけられていて、その余波に彼の隣にいるマキャヴィティも居心地の悪い思いを味わっていた。

「人にものを頼むのに、仮面をつけてということはないだろう」

ギルバートが出した声は、思わぬほど力の抜けたものだった。マキャヴィティは刀から手を放す。警戒は解かなかった。

「こいつは失礼いたしました」

そう言うと、道化は長い指を眼前に翳し、戸惑いなく仮面を外した。
彼が顔を正面に向けると、息を呑むかすかな声が重なり合って風の凪いだ天幕の天辺までを満たした。ギルバートはほとんど表情を変えなかったが、マキャヴィティは思わず目を疑って瞬きした。こんな美貌を見たのは生まれて二度目だ。

「これでよろしいですか」

髪と同じ金茶の瞳が、明かりの落とされた薄闇の中で、ひときわ輝いている。
けぶるような睫も、同じ金茶。

よく見れば、さほど整った顔だちでもない。
左右対称ではない口と目と、鼻筋も、酷く殴られたことでもあったのだろうか。少しだけ歪で、眉間から口許まで物差しを当てたようにはまっすぐ降りてこない。人を喰ったような表情と、険しい顔つきをしている。それなのに、類まれな声のせいだろうか。なぜか彼は貴族的でさえあった。

マキャヴィティはもう一人、こういう飛びぬけて美しい人間を知っている。

スラムにも若い美女はいる。いくらでも。それなのに、どこがどう違うのか。はっきり言葉にはできないが、「彼女」は明らかに異質だった。まるで嵐のようだ。そこにいるだけで、すべての思惑をなぎ払う。彼女が現れれば、誰もが彼女に視線を当てずにいられない。
ギルバートもよく知っていることだ。

ふいに、マキャヴィティのわき腹にどすんと衝撃が走った。
「え?」