光を弾く金の兜。
ばかばかしいまでに飾られた、正規軍の鎧。それら一つ一つを、ギルバートは自分で身につけて行った。もう二度と、それを着ることはない。

「準備はいいか」
「ばっちり」

操舵室に繋がるパイプから、ランぺルティーザの声が答えた。狭い管の中を通って、くわんくわんと反響しながら届く彼女の声は、しかしどう聞いても幼ない。彼女が、今のギルバートの航海長である。

蒸気機関は黒煙を吐きだす。ギルバート達が乗っている船も、中心に突き立っている煙突からもうもうと煙を吐き出していた。それは、爆撃された海軍の施設が吐き出す煙にまぎれて、めだたなかっただろう。もし町が砲撃を受けていなければ、一瞬たりとも見逃されるはずはなかったのだが。

朝日は昇ったばかりで、風は凪いでいる。この時間を、ギルバートは待っていた。帆船は風がなければ動けない。蒸気船は、石炭さえあれば何より早く海を往く。

ギルバートは右足を引きずって、甲板へ出る。情けないが、船尾へ移動するにも四つん這いで這って行くしかなかった。船のへりに手をかけ、なんとか立ち上がる。のたくるロープをさけ平らな場所へ右足を下ろしたが、そのとたん感電したかのような痛みが突き抜けた。ギルバートの頭上を嵐の雲のように、蒸気船が吐き出す煙が通り抜けていく。船は今や、全速力で入江から沖へと船出していた。

艦隊の動きが乱れ、一艘がギルバートの乗る蒸気船へ舳先をむける。ギルバートがまとう鎧は黄金の光を弾いている。彼らはギルバートを見つけただろうか。町へむかっていた砲撃が、つぎつぎ蒸気船を襲う。しかし、運よく着弾はせず、むやみに船のまわりに水柱をたてるだけだった。

揺れるごとに、踏みしめた右足首の痛みが脳天まで駆け上がる。それでもギルバートは船べりにはつかまらなかった。軍艦から望遠鏡が、船尾にいる自分の姿を捉えていると確信しながら、兜を脱ぐ。海風が頬にあたり、黒煙のにおいはなお強くなった。

いっそう砲撃が激しくなり、ギルバートは敵が自分の姿を認めたと知る。

搭載してある燃料で船がいつまで走れるのか。試運転もしていない蒸気機関が、いったいどれほど連続しての使用に耐えるのか。すべては手探りだ。火の粉をはらんだ蒸気船の黒煙は、不安になるほど大きく広がっていく。
すぐそばで立ちあがった水柱が、ギルバートを頭からずぶぬれにした。ギルバートの耳はさっきからおかしくなっていて、まるで水の中にいるようにしか音が聞こえない。

なみいる艦隊のすべての船長たちが、なんとかギルバートに鉄の玉をあてられないかとやきもきしている。それを、ギルバートは手に取るように感じる。

顔に濡れた髪をはりつかせたまま、ギルバートは真っすぐそろえた人差し指と中指に唇を当てた。その二本の指で、水平線のかなたへ小さくなっていく軍艦達を指し示す。

この姿を、気取りかえった貴族くずれの士官たちが見ていると思うからこその挑発行為だ。その効果はすさまじく、波へ着弾するごとに上下する船の上に、立っていられなくなったギルバートが尻もちをつき、物陰にうずくまっていてもなお、執拗な攻撃がどこまでも蒸気船に追いすがってきたほどだった。
蒸気船の木炭がつきる前に、軍艦を引き離せたことは幸いだった。



――あんなやつでも、町のために動くことがあるのか…。
ギルバートが顔をさらして多くの戦艦をひきつけたので、町への被害は多少は抑えられたのではないだろうか。少なくとも、逃げる時間はだいぶ稼げただろう。

しかし、だからといって彼に心を許すことはマキャヴィティにはできなかった。もともと、町にあの災禍を招いたのはギルバートだ。ただ……ただ、ギルバートにとっても、あの港町を離れることは骨から肉を削り取られるように辛い事だったらしい。

「ランぺルティーザと、マンゴジェリーが出て行った」

ギルバートは頭から掛け布をひきかぶったまま、そうかとも答えなかった。
スコールが安宿を壊してしまいそうな強さで屋根を揺すぶっている。
天井近くにある窓は、ガラスも嵌っていなかった。壁を四角く切り取り、格子を渡しただけの窓からは、灰色の空しか見えない。そこから、ぱらぱらとこぼれた雨水がマキャヴィティの顔を打った。

相部屋の時はともかく、いつもはギルバートの部屋になどはよりつきもしないマキャヴィティだが、その時は動揺していた。風がふくごとに土台ごと揺れるその宿が、心細い気分にさせたのかもしれない。魔がさしたとしかいいようがない。

ギルバートの態度に、マキャヴィティはかえって我に返った。いちおうランぺルティーザの置手紙をギルバートの枕元に置き、そのまま部屋を出て行こうとした。
寝台の側を通り過ぎようと踏み出した足を掬われる。マキャヴィティの身体ががくんと沈んだ。



ギルバートは彼の町と彼の配下、すべてを失ってから、すねた子どものように鬱々と過ごしていた。笑わないし、しゃべらない。たまに人間の言葉をしゃべったかと思えば悲観的な独り言だったりするので、マキャヴィティはなるべく彼には触らないようにして過ごしていた。

ギルバートのすさんだ様子は、マキャヴィティの胃袋と、肩口にある人の歯型の形をした古傷をうずかせる。グりドルボーンに捨てられたあの時のように、ギルバートが荒れ狂ったら、誰にも止められないのではないか。マキャヴィティは艦隊を振り切ったすぐ後から、それを不安に思っていた。

戦艦を振り切り、安全が保障されてからのギルバートはむしろ無気力状態に陥り、マキャヴィティのそんな予想だけは肩透かしを食わされた。しかし、真っ黒く落ち込んだ人間とふたりきりで過ごすのが嬉しいはずはない。ただでさえ一言の会話もないマキャヴィティとギルバートの間に、きゃんなランぺルティーザと陽気なマンゴジェリーがいてくれたからこそ、マキャヴィティは隣国まで逃げてこられた。

あの二人がいなくて、ギルバートと人間らしい協力ができるとは思えない。

いっそ一人で逃げたいが、逃げる道を指し示してくれるのはマンゴジェリーで、そのための資金を握っているのはギルバートだった。




「なにをするんだ」

マキャヴィティは努力して怒りを押さえた。
おそらく、下ばきの布をギルバートに思い切り握られていたのだろう。だから、普通に歩こうとしたマキャヴィティはつんのめって転んだ。手や膝はひりひりするが、すぐそばにある寝台の柱に額をぶつけなかっただけましだった。ギルバートが呻く。

「世界がまっくらだ。もう、俺は二度と立ち直れない」

酒も飲んでいないのに、泥酔者の有様だ。

「雨なんだから暗くもなる。当たり前のことを大層に言うな」

それが、出港してからギルバートと初めてかわすまともな会話だった。まともかどうかは、とりあえずとして。

「この世界は終わったのか。空が、俺のために咆哮し涙を流しているのか」

この感性が、マキャヴィティは嫌いだった。

「……手を離してくれないか」

マキャヴィティの裾は依然としてギルバートに握られたままだった。マキャヴィティがつとめて冷静に頼んでいるというのに、ギルバートはむっとした顔をする。

「あれだけのものを手に入れたのに、最後に残ったのがよりによってお前なんてな」
「他の奴を船にのせればよかったのに」
「そんなことをしたら、そいつを反逆者にしてしまう」

ギルバートの中にも、情のようなものがあるのか。それがマキャヴィティにはとても不思議だった。彼の側にいるのに、吐きそうにもならないし、身体も硬直しないのはそれでだろう。しかし。

「逆にお前は、お前だけはぜったい道連れにしてやろうと思ってた」

恨みのこもったギルバートのまなざしが、マキャヴィティに突き刺さる。どうしてなのかわからなかった。なぜ自分は、こんなにも彼に憎まれているのだろう。

マキャヴィティは、ギルバートにさんざん酷い事はされたが、彼をかすり傷ほども傷つけられたことはなかった。逆境にあっては手助けさえした。ただ、彼のことが心底嫌いだっただけだ。
嫌いだったからこそ、切り捨てようとやっきになってきた。他人を使って、彼の弱みを握ろうとした。全身でしなだれかかってくる彼に、一度でも向き合おうとしたことがあっただろうか。ギルバートを知るために、自身の片腕だけでも動かしたことがあっただろうか。
好意は簡単に悪意に翻る。

ギルバートの無気力だった黒い瞳に、蛇のような冷たい火が灯る。ギルバートの未来に容易にそれが見当たらないように、マキャヴィティが助けを求めて伸ばした手の先にはやはり救いと希望がなかった。



誰も他の人間を、助けてやることなどできない。
「賊には賊のルートがある。蛇の道は蛇って、本当の話し」
マンゴジェリーはそう言って、お尋ね者の自分と反逆者のギルバートを隣の国へ逃がした。

ランぺルティーザは、マキャヴィティに、言った。育ててくれた『海軍』が消えた以上、自分が決して裏切らないのはこの世にマンゴジェリーだけだと。
しばらくは四人で旅を続けよう。けれど、きっと自分とマンゴジェリーはギルバートとマキャヴィティとは別の道を生きる。いつかは分かれることになるだろう。

それに反対できる人間がいるだろうか。

生まれ育った国を離れて旅するマキャヴィティの手元に、両親からの伝言をとどけてくれたものもいる。

――心配するなと、伝えてくれと頼まれた。あなたにはあなたの進む道があるように、自分たちには自分たちの仲間がいる。だから、自分たちのことは気にせず、使命を全うしてほしいと……

その男の名前もマキャヴィティは知らない。何も聞く隙をあたえず、彼は人ごみのなかに姿を消した。
き真面目な父が、地下組織のようなものに関わっていた事が、信じられなかった。しかしオールデュトロノミー教官も、彼らに匿われて無事だという。

かつての同僚である、『海軍』隊員たちの行方だけは、誰も知らせてくれる人はいなかった。だから、ランぺルティーザ以外の仲間たちが、今どこで何をしているのかをマキャヴィティは知らない。



故郷からの伝言が届くのなら、王国からの追手もまた、同様である。マキャヴィティとギルバートは、三日同じ場所に寝たことはなかった。これからは二人で、言葉もおぼつかない異国をさまよわなくてはならない。信頼できる仲間とであってもつらい旅を、 憎みあい、警戒しあっているもの同士でどうやって続けていけるのか。それも、マキャヴィティにはわからない。

大きな葉がぽたぽたとしずくを落とす。カーテンを引いたように雨が止み、太陽がまぶしい光を投げかけ始めていた。山間の小さな宿に立ちこめる土と、森のにおいは、マキャヴィティに懐かしい故郷を思い出させる。雨にあらわれたすがすがしい空の青さ。静寂を、ギルバートの声が破る。

「いくぞ」

ギルバートは旅支度にきつく結び目をつくり、固定していた。すっかり、いつもの傲岸で、どこか陽気なギルバートに戻っている。背負う荷物はひとつだけ。あとは自分の体のみ。マキャヴィティも、しっかりと靴を足にくくりつけた。

行き先はわからない。けれどどこかへ向かって歩き出した。



『風のうまれるところ』
2011.09.17
長い間おつきあいくださった方、ありがとうございました。
ギルマキャ海軍なんちゃってタイ風ストーリーはこれで完結です。
もし裏でまた何かしちゃったら18歳未満じゃない方はその時もよろしくお願いしまする。

ちなみに史実のタイは王室が大変尊敬されていて、列強からの直接の植民地化も 防ぐことができたんだそうです。なのでこれはなんちゃってタイ風でした。
タイ料理はフォーを使ったやつが特に好きです!