「マキャヴィティ」

『この名前をつけることで、お前が苦難を背負うことになるのはわかっている』
あれはやはり春だった。

風が吹くごとにあっけなく、ばらばらと白い花弁が舞い散る。口をあければ飛び込んできそうだ。目を覆わなければ立っていられない。花の散り際に、父は死を見て、そんな話をしたのかもしれない。

『こんな田舎の教師の息子に、こんな大層な名前をつけて……しかも、私は長男にはその名を托すことはできなかった。あの方の名前の影響が薄れたから、だから私はお前にその名前を付けることができた』

マキャヴィティは、父の手をぎゅっと握った。世界で一番信頼する大人が見た事もないほど悲しそうな顔をしていたから、心細くなったのだ。それを、父は励まされたと思ったのかもしれない。父は自分の腰にも届かない、小さなマキャヴィティを見下ろし、安心させるように微笑んだ。

『それでも私は、私なりにあの方の信念を子供たちに伝えていく。志を、手渡していく。それが、ささやかながら私の使命だと誇りに思っている。なぜなら……私はね、一度だけ、あの方にお会いしたことがあるんだよ。
そう、お前くらいの年頃のとき』

「だれ?」
マキャヴィティは聞いた。舌ったらずの声。自分は幼い時、こんな声をしていただろうか。

『お前の名前をいただいた方。老いてはおられたが、立派な方だった。お優しそうな目をなさっていたっけ…』

マキャヴィティの眼前に花弁が大きく迫る。
目をこすろうとする腕を押さえて、父は瞼を閉じさせてくれた。大きな掌だった。目をつむったまま歩くのも、恐くはなかった。父が手を引いていてくれたからだ。

『あるいは、私が会ったのはあの方ではなかったのかもしれない。革命が失敗してから、ずいぶん時間がたっていたはずだから。あるいは、あの方のご子息だろうか。それとも、志を継ぐ方か。だけど、それなら同じことだ。たとえ誰であれ、あの方の心を継いでいらっしゃるなら、それはあの方にお会いしたのと同じ事。
だから、私は会った事があるんだ。あの方、――マキャヴィティに』

水場について、冷たい水で顔を洗ってもらい、マキャヴィティはやっと父の顔を見上げた。肩の上や髪に、白い花弁が散っていた。

『私が今日言った事を、誰にも言ってはいけないよ』

マキャヴィティは頷いた。いつもは寡黙な父と、ふたりきりの秘密を持つのは嬉しかった。

『私ももう二度と言わない。お前は大人になる前に忘れてしまうだろうね。それでもいい。
 けれど、お前の名は世界一立派な方からいただいたんだよ。その事だけは、心のどこかに残っていればいいのだが…』

お前も、いつかあの方のように生きるだろうか。あの方の信念を、受け継ぐものになるのだろうか。
父のその、無言の期待。

――すみません。
俺は、永遠に、「マキャヴィティ」のようには生きられません。



「町から砲撃してる…どうして」

マキャヴィティは船倉の窓から、海の様子を伺った。この船からは大砲が一つ残らず取り去られていたはずだ。
王国から派遣された戦艦に応戦しているのは、小さな漁船らしかった。また、今にも沈みそうな漁船から火の手が上がる。砲撃をすれば、撃ち返される。当たり前のことだが、小さな船が艦隊に抗戦していられたのはほんの一時で、立ち直った軍艦にみるみる沈められていった。

マキャヴィティはたまらなくなって下ばきをつけ、上着を掴んで階段を駆け上がった。甲板へ続く扉をあけると、強い風が正面から吹き付け、肩にひっかけただけの上着がはためいた。マキャヴィティが姿勢を低くしてふなべりへ近づこうとしたとき、後ろから腕を掴まれる。上着が階段にかぶさり、それに足を取られそうになる。

「ばか、あっちから軍服が見えたら狙い撃ちされるぞ」
「何が、起こってるんだ」
「ランパスたちだろう……抵抗するなと言ったのに」
「助けにいかないのか」
「俺が? 馬鹿言うな」

予想していた答えが帰ってきたことに、マキャいティはますます苛立ちを募らせる。

「みんな、あんたが招いたことじゃないか!」

ギルバートは名指しされても、眉ひとつ動かさない。

艦隊に搭載された、すべての大砲が火を吹く。
それらはギルバートの作ろうとした鉄の船に着弾し、みるみる削っていく。大砲の音がひびくたび、港に溜められた波が大きくうねり、マキャヴィティとギルバートは階段から転げ落ちた。扉が勝手に閉まる。もう空は見えない。

また、砲鳴がとどろく。体中がずきずき痛んだが、天井の低い船の中のこと、マキャヴィティは打ち身以外の怪我を負ってはいなかった。しかし、起き上がる前にも船が揺さぶられる。蒸気機関を内に抱えたギルバートの軍艦は、火柱をあげて燃え始めていた。

「逃げ、ろ」
「ギルバート…」

どうやらマキャヴィティは、後ろにいたギルバートを巻き込んで落ちたらしい。マキャヴィティの身体を受け止める格好になったギルバートは、床に這いつくばって立ち上がろうとしない。

「足か?」

マキャヴィティは手早くギルバートの全身を点検していった。見た目に変わったところはないが、右足首に触れたとたんギルバートがうめいた。

「こんなときに…」
「まったく、だ」

ギルバートが作ろうとした、蒸気船は炎をあげて沈もうとしていた。船の頭が空を指し、まわりに停留していた小さな船を道連れにして、大きな渦に巻き込んでいく。

「どうしたらいいんだ」

マキャヴィティは真っ青になった。

「逃げろって言われても、俺に蒸気船なんか、動かせるわけないだろう?!」

たとえ帆船であっても、これだけの大きさの船を、マキャヴィティ一人で動かすことはできなかっただろう。

「なんで俺のことなんかほおっておいてくれなかったんだ、お前が怪我をしたら、どっちみち共倒れだろうが」
「お前、俺のこと……嫌いだろう」

ギルバートの呟きを、マキャヴィティは無視する。
あたりを見渡し、ギルバートの足に当てるのにちょうどいいものを探した。壊れかけた石炭の木箱を見つけ、手に傷を作りながら必死で、その板を一枚はぎ取る。落とした上着を拾いあげ、板でギルバートの傷ついた右足を固定して、袖を結んで括りつけた。

「ああそうだよ。世界中のやつらが俺のことを憎んでるよ。俺のことを好きなやつなんて一人もいやしない。
でもお前は、俺のこと嫌いなくせに、俺の怪我は心配するんだな」

離れようとしたマキャヴィティの腕を強い力が留める。ただし怪我は嘘でないらしく、ギルバートの額に脂汗が浮いていた。

「お前は俺が怪我をしたり弱ったら親切顔をして近づいてくる。俺のことが嫌いなら、嫌い抜けばいいじゃないか。そういうの、汚いと思わないか」
「そういう問題じゃない! お前が船を動かさないで、一体どうするっていうんだっ」

ギルバートの、『海軍』の軍艦は沈んでしまった。
今二人がいるのは、三か月前に港へ入って停留していた商船の中だった。蒸気機関のための部品を運ぶ船でもあり、また、ギルバートが用意したスペアだ。

ギルバートは同時に二艘の蒸気船を建築しようとしていたことを、マキャヴィティは昨日知らされた。ギルバートはそれで逃げるということも。

せっかくの船も、動かせなければ意味がない。いつまでも入江に隠れていられるわけもない。町の制圧が終われば、すぐに見つかってしまうだろう。

「お前の部下だったみんなだって、もういないんだ! 俺が船を動かせるわけが…」
「旦那たち、お取り込み中お邪魔とは思うけど、そろそろこの海域を脱出しない?」

ざらりとした声に、マキャヴィティは聞き覚えがあった。かみしめるようにして吐き出す。

「お前、生きていたのか」

マンゴジェリーがそこに突っ立っていた。
彼はきまり悪そうに目をそらしたが、次の瞬間にはもうマキャヴィティに微笑みかけていた。裏切ってごめんとでも、言うつもりなのだろうか。

「いやぁ、船に侵入したところをこっちの旦那につかまっちゃってさぁ。正確にはランパス分隊長にだけど、まあ、俺も命が惜しかったんで洗いざらい吐き出しちゃって……
 ごめんね。俺、生まれつきうそつきの泥棒だから」
「ちょっと、いつまでかかってるの? もう船を出発させていい?」
「……ランぺルティーザ」

お前もか、というなじりは、疲れ果てたマキャヴィティの口を割って出なかった。
何もかもギルバートの掌の上だったと思うと、情けなさに体中から力が抜けていく。

「いいから、服を着なよ」

ランぺルティーザも、少しは気まずさを感じているのかもしれない。彼女はそれだけ言うと、船倉を降りて行った。操舵室へ向かうのだろう。

「ギルバートの旦那には手伝ってもらいたかったけど、これじゃあ無理かな。じゃあ、金髪の旦那。あんたに代わりに入ってもらおうか。肉体労働だよ」
「あ、ああ…」
「服は本当に着てきたほうがいい。火傷するから。下ばきはそのままでもいいよ。暑いからね」

ギルバートの足を固定している上着を、はぎ取るわけにもいかない。マキャヴィティはギルバートの使っていた部屋に戻り、ギルバートの上着を借りることにした。



きちんと着替えて操舵室に降りていく前、細い窓から町の様子が見えた。依然として黒煙は町を覆っている。
「今度こそ、本当にマキャヴィティの名前は悪魔と呼ばれるんだろう」

もう二度と戻れない。



火の中をかいくぐり、タンブルブルータスはたった一人を探していた。

「姉さん!」

生まれた時から側にいる、かたわれを呼び続けた。
町の人々が逃げたあとの町は、がらんとしている。猫すら消えていた。どこにも、命あるものの姿は見えない。仲間たちも、すでに山へ分け入っている。

「どこにいるんだ、姉さん!」

まさかこんなところにいるはずがないと思いながら、タンブルブルータスは『海軍』の兵舎に向かった。かつて自分たちが暮らした場所は、一番に砲撃の餌食となった。

「タンブルブルータス…? どうしてここにいるの」

どこかおぼつか無い足取りで現れたカッサンドラに、タンブルブルータスは走り寄る。

「姉さんこそどうしてこんなところにいるんだ、逃げる手はずは教えたじゃないか」
「私は、まだ町の人が残っているかもしれないから、見回りを…」
「そんな、無謀だ! いいからもう来て。みんながちゃんとやったから」
「貴方だけ逃げて」

タンブルの手を、優しく、しかしはっきりとカッサンドラは振りほどいた。タンブルブルータスは、姉を抱きかかえてしゃがみこんだ。着弾した音がしたが、それは町にではなかったらしい。ただ、地響きが絶えない。
どれだけの火薬が使われているのだろう。

「ばかなこと言ってないで、俺と一緒に来てよ。俺が、姉さんを置いて逃げられるわけないだろう?」
「私のせいなの……」
「何が? この砲撃が? 姉さん、あの軍艦に乗ってる提督と知り合い?」
「からかわないでよ、もう」

こんな時でも変わらないタンブルブルータスに、カッサンドラはつい微笑んでしまう。それから、誰かに叱られたように頬をひきつらせた。

「こういうことになるかもしれないとは、私はわかってた。わかっていて、ギルバートに協力したの。だから、私は絶対にみんなを助けなきゃ」
「逃げられるやつはもう全部逃げたよ、あとは姉さんだけだ」
「まだ、とり残されている人がいるかもしれないから、私は最後までここにいる。でもタンブルブルータスは逃げて」
「だから、俺だけでどこかに行けるわけないだろう」
「私は、あなたが死ぬところを見たくなかった。海賊と戦いつづけてたら、いつかはそうなってしまう、それが恐かった。戦いつづけなくてもいい道があるなら、それを探したかった。希望がほしかったから、ギルバートに味方したの」
「そんなの、俺だって同じだ。希望があるから、海賊とだってやりあっていけた。
 姉さんが戦場に来ないなら、俺はどれだけだって強くなれたんだ」
「それが、町の人を巻き込んでしまった。私、責任をとらなきゃ」

立ち上がろうとするカッサンドラを、タンブルブルータスは後ろから抱え込んで走り出す。盛大な悲鳴があがったが、無視した。

「こんなことしないで!あなたの体力がもたない、逃げられなくなっちゃう!」
「だったら、自分で走ってくれよ、頼むから」

悲痛な声。
カッサンドラは、胸を突かれて抵抗をやめる。けれど、自分がこのまま逃げていいはずはないとも思う。

「希望がほしかったんだろ。あるじゃないか、ここに。
 俺が姉さんの希望であるのと同じくらい、俺にだって姉さんだけが希望だよ。姉さんは俺がここに残るから逃げろと言われたら、従うのか?
 姉さんは、俺に死ねっていうのかよ!!」

カッサンドラはどうしたらいいかわからなくなった。
正しい答えはわかっている。けれど、正しい道を選んで自分が残ればタンブルブルータスが死ぬ。それでも、二人で逃げるなんて、許されないと思う。

町の人々が失ったものの大きさに比べて、タンブルブルータスがいればカッサンドラは何一つ失ってはいない。希望は今も、常に変わらず彼女の側にあった。