何もわかっていないと私は言った。

「不機嫌な顔をしないでください。皆が心配します」
「そうだね」
「先生…」

彼は、咎める口調からがらりと声音を変えた。労わり。
彼の声は低く、深く、ともすれば冷淡に聞こえる。だからこそ、そこに真摯な感情を混ぜこめば、色目はがらりと変わってよく人の心を打った。
なんということはない。誰よりも心配しているのは、不安なのは彼なのだ。

芯の通った、響きのいい声。
説教をするのは私の仕事なのに。
いつだったか笑ってからかうと、褒められた彼は居心地悪そうな顔をして黙り込んだ。もうずっと昔のことに思える。

「先生、聞いていらっしゃるのですか」

本当は、あれから一年も経っていない。
彼と私が出会って、まだ…どれほどの時が経ったというのか。

私は、彼が彼の心のなかでだけ私の名を呼んでいることを知っている。

「聞いているよ」
「どうして、貴方は…」

彼は、彼の真心を私に叩き落されたという顔をして、傷ついている。

彼には何もわかってはいない。遠くない未来の出来事が、重く四肢に圧し掛かる私には、どのようなさわやかな涼風も心を和らげてはくれない。
彼の声でさえ、どこか遠かった。

しかたがない。この地上で私以外の誰が、未来を見通すことができるだろう。そう思いつつ、ふと彼の、黒の混じった茶色の瞳を見つめ返した。そこに映るものを見据える。

そこには、焦燥感があった。

ひょっとしたら、逆なのだろうか。
これほどあからさまに案じ、愛し、慕ってくれる彼の心を、私だけがわかっていないのだろうか。



『誰にもわからない』
2008.09.05