「いない…」

どこを探しても、あの方はおられなかった。
同じ部屋に床をとっていたはずだったのに、朝日に目覚めさせられるとあの方の我慢強い温和なお姿は、影も形も見当たらなかった。陰鬱な目をしたジュダスも、その場から消えていた。

一夜の宿を借りた支援者の邸宅で、厨房から厠から家畜小屋まで見て回ったが、あの方と会計係のジュダスは見つからなかった。

シモンは、絨毯の上に腰掛けながらいらいらと残りの使途たちの報告を待っている。遅い。受け持った場所を虫一匹見逃さないほど執拗に探しまわったシモンが、この部屋に戻ってくるまで、決して短い時間ではなかったというのに他の輩はどれほど遠くまであのお方を探しにいったというのだろう。

間抜けな笑い声が廊下を近づいてきて、外から扉が開かれる。ゆっくりした動きに、さらに苛立ちを募らせながらシモンは怒鳴った。

「あの方は見つかったのか?!」
「いいや」
「お前ら、本当に探したのか?」
「こ、この家の主の了承を得て奥方と娘子の寝室以外はすべて見せていただいたが、あの方はおられなかった」
「真剣に探せ。俺たちがあの方から目を離したすきに、もしあの方に何かあったらどうするつもりだ。そうなったら取り返しがつかないんだぞ。
男同士でふざけてじゃれあってる時間があるなら、草の根わけてでもあのお方を探し出したらどうなんだ」

非難された男の顔に、赤く怒りが現れる。激昂する寸前の彼を制して、彼の後から部屋の扉を潜ったペテロが、シモンの前に歩み出た。

「そんなに深刻になることはないんじゃないか。あの方だって、いつでも見張られていては気詰まりだろう」
「ああん?」

無表情ともとれるペテロの穏やかさに、シモンはいつも神経を逆なでされる。

「そうしてる間に、よからぬ輩があの方に害をなしたらどうするつもりなんだよ、えぇ? そうなったらお前があの方のかわりを勤めるのか? そうできるやつがいるなら俺だってこんなにイライラしないさ」

シモンはいつの間にか立ち上がって、動物が威嚇でもするようにペテロの鼻先に顔を近づけていた。ペテロは、砂粒が顔にあたったほども感じていないらしかった。

整った顔が、相変わらず表情のとぼしいままで静かに呼吸を繰り返している。吐き出す息がシモンの不精髭にそよいだけれど、シモンも彼に荒い鼻息を浴びせかけているので、お互い様というところだった。

「シモン」
「なんだよ、ペテロ」
「そんなに心配しなくていいと俺は思う」
「根拠があるのか? あぁ?」

シモンが顎をつきだすようにして問うと、剣幕に圧されてふとペテロは微笑した。
滅多に表情を崩さない男だが、今、ペテロは確かに破顔した。

――こいつ…!

「なあ、シモン。あの方が、そこらの小悪党にどうにかされるお方だとでも? けちな泥棒ふぜいなら、あの方の光輝にあてられただけで恥じ入って、己の罪をあらいざらいぶちまけずにはおられまい。ああ、そうなったら、あのお方は慈悲深いからそいつの懺悔を残らず聞いてやるまではがんとしてその場を離れないに違いない。ジュダスがなんと小言を言ってもだ」

シモンは何ともいえなかった。
いかにも、ありそうなことだと思ってしまったので。

こいつ、ペテロは、ひょっとしたら自分よりもあのお方のことをよくわかっているのかもしれない。胸の煮えるような思いと共に、初めてそう思った。

「あの方に、害をなせるものなど本当にいるんだろうか」

ペテロが純真に言い放ったように、あれほど善意に満ちた人を、シモンはいままで見たことがない。会ったことがない。彼に手を出せるとしたら、それは本当に芯からの極悪人か、もしくは集団の力を借りた臆病者たちだけに違いない。

「それにもし、あのお方に手をかけるようなやつが、本当にいたとしたら…」

ペテロの澄んだ声を、大勢の人間の気配が遮った。
おそらく玄関のあたりだろう。ざわざわ話し声と、がちゃがちゃ金属が鳴る音。鎧か、とシモンは身構える。
ひときわ高い声が、主人を呼ばわるのが壁越しに聞こえた。かのお方の名前を不躾に呼ばわる。
威圧的な、大きな声にシモンは産毛を逆立てた。追っ手か。

すぐにも現場へ飛んでいき、現状を把握しなければ。走り出す前に、氷を肌に押し付けられた。それは本当は氷ではなかった。振り返る視界の隅にとらえた、驚くほど冷たい誰かの気配だった。殺気だろうか。シモンは、暗い顔をしてそれを発する人間に、本能的に目を向けた。
ペテロがいた。温和なペテロが、見た事もない険しい顔をしてそこにいた。屈みこんだ彼の両手は、腰紐に挟んだ彼の短刀の柄に重ねられていた。
羊肉やバターを切り分けてくれたことがあるから、棒切れのようなそれが粗末な短刀であることをシモンは知っている。

「ジーザス様はお留守かね? いやあ、せっかく羊たちの世話を人にまかせてここまでやって来たというのに、こりゃあ残念なことだ」
この家の、主人の声は聞き取れなかった。
おそらく、普通の音量なのだろう。客は率直な男らしい。辺りを払うほど大きな声で嘆いている。

「本当に残念だあ。みんな、そういうこった。どうする? せっかくここまで来たのになあ」

主人は、きっとまたここにお戻りになると、客たちに言ってやったらしかった。

「本当か? 嬉しやなぁ。みんなあ、もう一日くらい待ってもよいかぁ?」

ざわざわと、また多くの気配が動いた。そして、ほとんど時間をおかず例の声が、「んじゃ、また出直してくるから、ジーザス様に宜しく伝えてくんなよう」と、悪気なくびりびりと胴間声を響かせた。

金属音は、遠くからやってきた彼らの馬具が立てる音らしかった。
そうと知ってもシモンは息をつくことができなかった。傍らでペテロが、信じられないくらい身体を固くしていたからだ。彼は今にも走り出しそうで、その指はときおり獲物を求めてひくんと震える。人の気配が完全に遠ざかってしまうまで、彼は決して警戒を解かなかった。夜の砂漠でジャッカルに出会ったように、彼の隣にいるシモンは詰めた息を緩めることができなかった。

ペテロはすらりと姿勢を正し、誤魔化すように腰紐を結びなおした。うつむき加減で照れ笑いをするペテロに、寒いような思いを味わいながらシモンはぽろりと言葉を漏らした。

「なんだよ……これじゃまるで、俺があの方を信じていないみたいじゃないか」

気まずさと驚きと、整理しきれない思いに足元の絨毯の柄を数えながら、なんとなくシモンの口をついて出た言葉が、普段はむっつりした同僚をこれまでになく爆笑せしめた。





ジュダスを引き連れて戻ってきたあの方は、シモンの顔を見るとびっくりしたように目を見張った。

「なんでもありません」

聞かれもしないのに答えると、あの方はやはり微笑なさった。
シモンの顔には、朝のいさかいのなごりがくっきり残っていたのだろう。ささくれ、荒れた心を癒そうとか、あの方はシモンの目の周りに烙印された青痣へお手を伸ばされる。その指先を逃れて、シモンは早口に言った。

「今、たらいに水を用意させます。脚をすすいでください」
「…ペテロはどこに?」

深い声が問う。帰ってきて、開口一番に言う事がそれだ。
シモンは憮然としてしまうのをどうにか抑えようとしたが、叶わなかった。

「知りません!」

嘘をついてしまった……。
夕食に呼ばれるまで、シモンは家畜小屋の隅でうずくまり馬に草をやり続けた。

「シモン、食事だ」
「お前か」

呼びに来たのは、なぜかペテロだった。

「馬の世話もいいけれど、お前の腹も満たしたらどうだ」
「よけいなお世話だ」

無駄に小屋の掃除をしていると、ペテロも藁を整えはじめた。

「おい」
「なんだよ。泊めてもらったお礼に、掃除くらいしようというんだろう。手伝うから、早く終わらせてめしにしよう」
「お前一人でやっとけ」

厩舎の床を板でそそけて、馬糞をひとところへ集めていたシモンは、こんもり集めたものを乗せて投げつけんばかりにして長い板をペテロへ手渡す。

ペテロの手は荒れてひび割れていた。ほんの少し触れたシモンは、まるで肌を引っかかれたように感じた。

「なんだよ。俺だけにやらせるのか?」

追いかけてくるのはペテロの声と、あとは馬のひひんといういななきだけだった。

シモンは一人で夕餉の食卓へつき、ペテロはどうした、お前を呼びにいったはずだがと口々に問われてもむっつり黙り込む。シモンは、ペテロもすぐに後からやってくるに違いないと思っていた。けれど、敷物の上に広げられた心づくしの皿が残らず空になっても、まだ彼は戻ってこなかった。




身動きするたび衣服が擦れる。ガサリと、暗闇にやけに大きく響く。
広い部屋だったが、さすがに大の男が10人以上横たわっていれば、遠慮なく手足を伸ばしていられない。小さく身体を丸める眼前に、どかんと誰かの足が投げ出されて、シモンは眉をしかめた。

寝相のいい悪いは、そいつの人格とはなんの関係もない。
シモンはそう言い聞かせながら目の前の大足を睨みつけた。それでなくても、寝苦しい。

がーがーと誰かのいびきが続いている。シモンも、いつもならそこへ多重奏とばかりに連なる立場だ。けれど、その時シモンは些細な物音にすら耳をそばだてていた。自分の立てる音さえやけに大きく、不快に聞こえて、ますますシモンの眠りを妨げる。

あまりに大人数なので、寝具はもとから用意されていない。
そのかわりに上等な敷物がやわらかく背骨を抱きとめてくれる。野宿さえあたりまえな旅をしてきて、屋根と床があり、獣に襲われる心配もない場所で眠ることはとびきり上等だとさえ言えた。
明日からどんな状況で眠らなくてはならないのか、わからない。今は身体を休めるべきだ。シモンは、くっきり鋭角を描こうとする自分の意識に言い聞かせようとしたが、無駄だった。

また、暗闇に別の音が鳴る。

さっきから、それが一番気になってシモンは眠る事ができない。
きゅう、と小さな獣が助けを求めるようなささやかな音。
ぐるる、と唸る。

絶え間ないいびきより、たまに遠慮がちに響くかすかな音が、シモンの神経を引っ掻いてしかたがない。

シモンは、衣擦れの音さえ立てないようにゆっくりと身を起こした。

眠る男たちの隙間にひょこひょこ爪先を下ろしながら、部屋の隅で腹を庇って丸くなっているペテロの枕元に立つ。
ペテロの腹が、またぎゅうと鳴った。

シモンは、ペテロの整った顔を仁王立ちで見下ろしながら自分が怒りたいのか謝りたいのか、よくわからない気持ちでいた。

だから、長い時間をただ立ち尽くす。

結局ペテロは厩の掃除をするのみならず、集めたブツを具合よくまとめて、小分けに成型してからこの部屋に戻ってきた。あと数日したら、ペテロが掃除した馬糞もかちんこちんに乾いてよい燃料になるだろう。
家畜というのは、その肉や乳や毛皮だけでなくすべてに高い利用価値がある。だから有力者ほど多くの家畜を飼うのだし、それは彼らの財産なのだ。

暗闇の中で、ペテロは苦しそうにうめきながら寝返りを打った。
それは彼の背中に当たった冷たい壁のせいかもしれないし、もしくは空腹のもたらす浅い眠りのせいかもしれなかった。

腹を庇っていると思ったペテロは、両手にしっかり何かを握っている。シモンは、それを取ってやろうと親切心で座り込んだ。ペテロが胸に守るそれが、物騒な短刀だと気付いた時、シモンは優男だとばかり思っていた彼に顔を殴りつけられた今朝と同じくらい「やられた」と思った。

あの方に、害をなせるものなど本当にいるんだろうか。そう言ったくせに。なぜペテロは、恋人みたいに大事に刃物を抱いて寝ているのか。

優しいだけの男だと思っていたのに。

ペテロは、何事かを苦しむように短刀を握って離さない。
おそらく、シモンが指先でもそこに触れたら彼は飛び起きるだろう。

いつから彼は、こんなふうに苦しそうに眠っていたのだろうか。思い出せば、ペテロはいつだってこれを手放したことはなかった。彼の粗末な衣服の腰紐には常にこの鞘が手挟んであった。それをシモンは、ずっと見過ごしてきた。彼の切り分けるチーズを、無造作に口に運んできた。

「なんだよ」

ペテロは誰よりもあの方を愛し、信じているというのだろうか。
ひっそりと短刀を胸に抱くくらい、自分を投げ出してあの方を守るつもりでいるくせに。今日だって、こいつがあの方を心配していなかったわけがないんだ。無表情だからわかりづらい。何もかもを、心に押し込めるようなやつだから、わかりずらい。
ひょっとしたらあの方は、そんなこいつのことを一番にわかってやっているのではないか。ああ。だからか。

「こんなやつ、あの方に一番に愛されて当たり前じゃないか…」

シモンは口許を拭った。
今夜食べた夕飯が、胃袋に重い。
なぜパンの一欠けらでも取っておいて、渡してやろうと思わなかったのか。

――なんでこんなにイライラするんだ。

朝食は俺のぶんまでペテロにやろう。
そう決意して、シモンは長い長い夜明けまでの時間を立ち尽くした。



『自分だけが』
2008.05.06