あんなに冷たい目をしたあの人を、見た事はなかった。
自分が責められたわけではないのに、背筋が凍った。
あんなに悲しそうなあの人を、だれが諌められただろう。
「シモン…」
茶色く地肌のむき出した、丘陵が連なる。風が吹けば黄砂が巻き上がった。地平線まで延々と続く土の色のなか、はるか遠くに白く光る一角が、城壁に包まれた聖なる土地、エルサレムだった。
目指すべき聖地を睨みつけて、友は佇む。
植物の希少な荒野にあって、綿や麻、ましてや絹は、豊かなローマ人たちのものだった。あるいは、王族や司祭たちの。彼らは、涼やかに風を通す贅沢な布地をローブに仕立て、軽やかに裾を散らす。
エルサレムをひたむきに見つめ続ける、シモンが纏うのは獣の皮をなめした簡素な単衣と、亜麻布で作った履物だった。これと、羊毛を紡いで作る衣服が、多くの民がもっとも着慣れたものだった。
ほつれる心配のない獣皮を、そのまま接ぎ合わせたぼろを着て、顎を反らしたシモンははるか遠くを見つめていた。痩せた背中が、崖の上に立ちすくんでいる。
「そんなに落ち込むな。あの人が叱ったのは、お前だけじゃない」
痩せた背中がそびやかすように肩を揺らす。彼は、舌打ちしながら答えた。
「何にもわかってないって言われたんだ。ちょっとは落ち込むさ。一体、何日あの人のおそばで寝食を共にしたと思ってるんだ」
「考えすぎるな」
「ペテロ、お前にはわからん」
シモンは、背中を向けたままで拳を握り締めている。震えているように見えるのは、気のせいか?
「シモン、なぜ落ち込む? 俺たちはあの方にくらべたら、何にもわかっていない。あの方に言われるまでもなく、そんなことはわかってたことじゃないか」
「俺は…」
「あの方を信じるだけでいい。きっと、あの方は間違った事はなさらない。
きっと、暴力でローマを倒すのではなく、もっと他のもっといい方法で、お前の願いをかなえようと思っていてくださるんだ」
「ペテロ…」
「信じるんだ」
初めて、彼は振り返った。
シモンの細い目じりに微笑みかけると、彼はにこりともせずに大股に歩いた。こちらに向かって。
「え」
すれ違うのかと思ったが、違った。彼は背後に回りこむと、背中から抱きついてきた。背中に、彼の狭い胸が押し当てられる。温かかった。
腿の間に尖った膝頭が入りこんで、足を開かされる。耳元に、生ぬるい息が吹きつけ産毛が逆立った。くすぐったくて縮めた首筋を、一瞬だけ彼の前髪が掠めた。
そう思う間もなく、右腕の下を彼の頭が潜る。
彼の右腕が、わきの下から伸びてきて自分の首裏へ回った。
「何をするんだよ!」
彼の体が蛇のように巻きつく。
無理に伸ばされたわき腹と、彼の足を絡められた左足の膝裏がびりびり痺れた。ごきっと肩の骨が鳴る。
「ふぅははははぁーまいったかぁっ」
「痛い…こら、痛い」
「こぉーのぉー、これでもか!」
「痛い、痛いって。勘弁してくれよ」
「自分だけいい子になって、すみませんでしたと俺に言え!」
「はぁ? なんだよそれ」
「言わないのか〜」
「言うか! 馬鹿! 放せってぇ!」
「ちっ、しょうがねえな」
胸元で握り合わせていた手をするりと解くと、彼は離れていった。
「こんなもの持ってるくせによぉ。弱弱しいふりしたって、お前のほうが、俺より何倍もヤバイやつなくせしやがって」
彼の手には、短い棒のようなものが握られていた。
慌てて腰に手をあてると、いつもそこに手挟んであった短刀が鞘ごと失せていた。
「返せ!」
シモンの首に手を伸ばして掴みかかり、軽くいなされる。
また襲い掛かったけれど、両のこめかみから長く飾り房を垂らした彼の額あてを奪い取るのみで、彼自身には爪もひっかからなかった。
シモンはなおも弾劾する。
「こんなもの、四六時中もってるくせに、俺に説教しようっていうのかよ」
「返せ! お前には関係ない!」
彼は鞘を足元に投げ出し、短刀を、暮れかけた陽光にギラリと光らせながらかかげた。
「返してやるから教えろよ。何の為に、こんなものを、寝るときも、食べるときも、肌身離さずもっているんだ!?」
「あの人を守るためだ!」
「へえ?」
「あの人を、他の誰からも守るためだ! かえせ!」
シモンは、にやりと口角をつりあげると、短刀を握った拳を肩の高さに保ったまま、こちらに向けて腕を伸ばした。きっさきは誰を指し示すこともなく、白々とした刀身が二人の間に線を引くように横たわる。
「取れよ」
ぐい、と彼は顎をしゃくる。
何かをされることを(主にくだらない悪ふざけを)警戒しながら、柄を握りしめるシモンの拳に手をかけると、彼はその手を天に向かってつき上げた。
「こら!」
いじめっこの意地悪を思わせるしぐさに、爪先だって抗議しようとしたとき、刃を持たないもう片方の腕が、強く背中に回された。
「…シモン?」
いたずらでないことはわかった。
合わせた胸と胸に、彼の動機の強さが、殴られているかと思うほど伝わってきたからだ。染み入るような声が、呟く。
「これだから、お前は、あの人に一番いとおしまれているんだ」
「俺が?」
あの人に、一番、愛されてる?
「お前には、かなわない。
俺は、他のやつらは誰も信じない。どいつがローマの手先か、知れたもんじゃない。けど、あの人と、あの人がもっとも愛するお前のことだけは、何があろうと信じられる」
「シモン……」
「ありがとう、な」
背中を、大きな手がぼふぼふと叩いた。その手は、次第に肩、頭へと移動していく。
「痛い、って」
シモンはにやりと顔をゆがめると、頑として放さなかった短刀を、こちらの掌に押し付けて両手で包むように握らせ、ゆらゆら歩き出した。
肩甲骨の高く見える、長細い背中に向かって叫ぶ。
「ずっと、あの人についていこう!」
あの人は世界を変えるだろう。
それを一緒に見守ろう。あの人に仕え、あの人の行なう尊い仕事に連なり、後世にまで誇り高く名を残そう。
「シモン!」
きっとできる。
彼は聞こえていたはずなのに、答えなかった。
けれど、この胸に感じているはちきれそうな誇らしさを、きっと彼も感じているに違いない。
遠いエルサレム。
そこにいたる道を見つめて、自分も長いこと崖の上を離れられなかった。
指に絡めて握りしめると、彼の気性を現したように赤い、彼の額あては、掌の中でぎゅっと苦しげな音を立てた。
『はるか遠く』