あの人はいつも誰かと笑いあっている。
大口あけて飲み食いし、冗談を言って人も笑わせる。初めて会った時、そんな彼を見て重い衝撃を受けた。そんな言葉では足りない。

この人を支えるために生涯を捧げようと私は決意した。



「ちょっと、待って下さい! 財布を取って来ますから」
「いらないよ。私にまかせておきなさい」
「少しですから、あ、あ!」

あの人は、聞かずにふらりと出て行ってしまう。四角く切り取られた出入り口から、あの人の影が消えると明かりが差し込んでいるのに部屋のなかが急に暗くなった気がした。

いつもどおり、私たちは信徒の家に身を寄せていた。滅多にないことだけれど、他のものたちがまだ目覚めないほどの早朝に、あの人はひょっこり起き出してきた。私は、これからの旅の段取りを思案するのにいそがしくて、いつも誰より遅く寝て、誰より早く起きる。

「しかたがない…!」

あの人を一人で行かせるよりはマシだ。
私は、銅貨一枚身に着けずにあの人の後を追った。



「なぜ靴をもっているのだ?」

不思議そうに聞くあの人の足には、きちんと履物がくくりつけられていた。

「貴方が、穿いていないと大変だと思ったからです」
「私が?」

くすくすと静かな笑い声を上げながら、あの人は私の横を歩いた。まだ日の明け切らない中を二人で散策していると、まばらに立つ粗末な建物から、働き者の村人たちが起きだす気配が伝わってくる。井戸へ、朝一番の水を取りに来た小女に会釈し、柵を不法に乗り越える。羊飼いを待つ羊たちがこんもり眠っている中を、静かにやり過ごしながら、私たちは村はずれまで連れ立って歩いた。

そのころには、清浄だった朝の空気が熱にあたためられ、日差しはすっかり蜂蜜色に変わってしまった。私の額には汗が浮かんだ。あの人も、首筋に掌を当てて拭っている。片手に無駄に靴をぶら下げながら、私はひたすらあの人の後をついていった。何故この人はまっすぐ歩かないのだろう。道端に落ちている何かを探すように、ふらふらと身体を揺らすので次の瞬間どっちの方向を向くのかわからない。はらはらしながら、あの人の後を追った。

太陽は、ますます高い。

日差しを避ける麻布でももっていれば、あの人の頭上へ差しかけられただろう。けれど、陽に焼かれた砂は素足を火傷させるほど熱くなる。あの家を出る時は、そのほうが心配だった。この人に怪我でもさせたら、とりかえしがつかない。

「そろそろ、戻りましょう。帰り道は、さっきの近道はできないんですから」
「あの家の羊飼いが羊たちを率いていけば、からっぽの牧場を私たちは通れるだろう?」
「そんな図々しい事を、本気でするんですか。主のいない庭を勝手に横切るような……」
「お前も共犯なのだから、そんなに悪し様に言ってはいけない。なぜなら、お前もそれをさっきしたのだからね」
「あそこで言い争ったら、寝ている羊を起こします」
「そうだね。お前は優しいね」
「もう、もどりましょう」

私たちの目前には、大きく崖があぎとを開いていた。

石と砂と、わずかに茂る緑のうえに高らかに太陽が君臨する土地。
貧しく、乾いていて、起伏が激しく少しも平坦でない。
けれど、私たちのもつ唯一の土地だった。
たとえ異邦の支配者に君臨されていようとも、ここ以外に住める場所はない。

「戻りましょう。ここから先には、行けません」

彼は戻らずに、一日そこで座り込んだ。日没までそうしていたというのに、私たちの前を横切って状況に変化をもたらしたのは、ちっぽけなさそりが一匹だけだった。動くものは風とそれだけ。

「ああ、日が暮れる……」

他の弟子たちはどれほど心配しているだろう。少なくとも、私が一日でもこの人の姿をみなかったら、それだけで気が狂いそうに思うに違いない。
絶対にどこかで、尻拭いのしようもないことをしてるに違いないからだ!!

「なあ、ジュダスよ」
「は? 何かいいましたか?!」

暗闇が迫る。曙と見まごう夕暮れの、淡い赤が空を覆うと、すぐに群青、漆黒へと塗り替えられていった。
あの人は言う。

「…そんなにけんか腰になることはないじゃないか」
「喧嘩なんて貴方としません!! ただ、いらいらしてるだけです!」
「そう、怒鳴らないでくれないか」
「ああ、陽が沈みますね。貴重な一日が無駄に終わる…」
「無駄とは、どういう意味だねジュダス」

あの人の目が、私へひたりと当てられた。
透明で、隔たりのない率直な瞳。

よく笑う顔が、たまたま真面目そうに引き締められているのを見ると、それだけで私は言葉に詰まってしまう。

「師と共に過ごす時間が、無駄だと言うかね?」
「違います……ただ、どうせ師といられるなら、お言葉を賜りたかっただけです」
「言葉だけが、心を伝えるのではないよ。なあ、ジュダス。私とここでこうしていて、感じるものはなかったかい?」
「……別に何にも」

目の前をさそりが通り過ぎた時に、「あぶないなぁ」と思った以外には。

あの人は、ぷっと吹き出した。

「お前、あんまり自分に正直すぎるのもどうかと思うよ」
「はい。実家でも、よくそれで嫌われました」
「だから、私の後についてきたのかい?」
「はい。そうです」

あの人は大口あけて笑う。
ますます笑う。

大食を罪とし、笑う事を忌む古い価値観のなかで、この人のなんと鮮やかなことか。

この人の傍へ、そっと近寄ったさそりを素手で叩き潰した。この無邪気な人は気付かなかっただろう。汚れた掌を握りこみ、私は誇らしさに胸を膨らませる。

この人は、きっと私たちを解放してくれる。
私を解き放ってくれる。
この人のためなら何でもしよう。

できるかぎりのことを、自分の身など顧みることなく。





「木曜日の晩……」

聖地が近づくにつれ、みるみる彼から笑顔が消えて失せていった。
精気に溢れていた顔が、ありきたりな預言者のようにいかめしく変わる。

あれほど他人を許し、おおらかだった人が苛立ちに声を荒げる。見ていられなかった。

助けてあげたかった。

あの人は私を呼ぶ。ジュダスと。
私は、あの人の名前を、誰かの前で呼んだことは一度もなかった。

「彼はいるはずです」

最期まで、心の中以外で、呼ぶ事はなかった。



助けてあげよう。助けてあげるんだ。
そればかりを繰り返し考えていた。
助けてあげなければ。

皮袋の中では、銀貨がじゃりじゃり音を立てた。



『一日』
2007.10.30