私にはあの人の考えていることがさっぱりわからない。わからないということをわかっている。あの人の考えよりも、私にはあの人自身が大事だった。その私が、あの人の一番の理解者だというのだから、あの人はどれほど孤独なのだろうか。
「あの方を堕落させようとする卑しいお前の望みは、決して叶うまい」
これは夢だ。夢のなかの出来事だ。あの男が私に、こんなことを言うはずがない。たとえ、煮え立った油を背中に流し込まれたように、身体へ痛みを感じたとしても。
「どうぞ、お休みください」
昼間はこの人の肌に触れ、足に接吻し髪をくしけずる私の身体は、暗闇のなかではかの人の光輝に打たれ傍に寄る事もできない。
「どうぞ、安らかに、心を安んじあそばして……」
蝋燭の炎をそっと吹き消す。この吐息さえ、あの人に届くまい。遠くから祈っている。
どうぞ、この方の枕辺に美し夢のもたらされん事を。
粗末な天幕から、身の置き所なく抜け出ると、あの男が暗い目をしてじっと立っていた。目線は、私をつきぬけ天幕の中へと注がれる。
私は面を伏せて、衣擦れの音も立てずに彼の前から歩み去った。乾いた土地に、緑の乏しい大地に、砂漠と同じ風が吹き渡る。
ろくな厚みもない荒い布目から、漏れ出る光が背後から追いかけてきて私を照らした。
私が吹き消した明かりを、灯したのは彼だろうか。それとも、あの人だろうか。
虎は死んで皮を残し人は死して名を残し、使途は後世へ福音書を記す。ではこのマリアはなんとしよう。女の身である私には、この名に懸けてあの人の何もかもを残すことができない。
たとえ、あの人を堕落させたいのが私の本心だったとしても、それも決して叶わないこと。
私が望めば、あの人はきっと愛してくださった。
最後まで私たちはあの人につき従った。
何も残らない。何も残せない。
あの人は消えてしまう。
呆然と膝をつき、この世の終末を感じる。砂漠の只中にあっては、それを信じやすかった。
世界は終わる。空にあるのは破滅の火の玉。
けれど夜が来て、星たちがまたたくと、私はそれが嘘だったことを身体で感じた。
肌に夜陰の冷たさが沁みた。
耳に獣の遠吠えを聞いた。
涙で潤む瞳の中に、あの人の後ろに広がる空がいくつもの輝きをさしかける。星はゆっくりと彼の周りを廻っていた。
世界は動いていて、あの人の影響力はまだ消えていない。
人々があの人のもとへ戻ってくる。
それを私は見るだろう。
星のなかにあってなお輝いたあの人の生涯の、私は語り部にならないけれど、一時の癒しにもなれなかったけれど。あの人の理想に共感せず、思想の高みを理解しなかったけれど。荒ぶる心のままに「私を愛してください」と、優しく強く心弱いあの人に、すがりつくことは出来なかった。
あの人は、私の名前を呼んだだろうか。
群がる人々を、初めて拒絶してしまったあの人は、罪の意識に打ちのめされてなお私を受け入れようとした。地べたに倒れふしていながら、私に向かって微笑もうと口を開いた彼に、私は囁いた。
あの人は答えた。
「眠ろう」
傷ついた獣のようにうずくまるあの人から離れて、絶好の機会を逃した私は、転げ周りたいほどの胸の痛みを耐えていた。
あのとき、あの人を一人で眠らせたことが、私がしたあの人へのたったひとつのよいことだった。
『まごころ』