私の崇める神は、今不遇の時代にある。
虐げられ、貶められる尊い名を、どうしてそのままにしておくことができるだろうか。信ずる者としての、私はちっぽけな存在だ。取るに足らない、たった一人の人間だ。けれど、できる限りの事をせずにいられない。神の御名を再び輝かせるために。
そのためならば、どのような危険も厭わない。
ジーザスを見上げて、熱狂のさなかにある民衆たちのなかにあり、私は心に神の御名をくりかえしつぶやいた。人々が、盲目的な信奉を捧げる青年の顔は、ひがな草地を探して歩き回る羊飼いたちとそっくり同じに、日に焼けて黒ずんでいた。それでいて、吹き渡る風に洗われたようにさっぱりしていて清潔だった。まだ若い彼の顔に、彼が微笑むごと細やかな皺が刻まれて、ここにいたるまでの彼の深い苦悩を思わせる。口許や目じりに、ひび割れたように走る繊細な影が、われらの父母やこの潅木さえまばらな乾いた土地を思い起こさせ、尊敬や畏怖ではなく親愛を抱かせた。
「私は長く肺を患っていた。何十年も、あなぐらの中で働かされたいたもんだから……血を吐くような苦しみだった。けれどあの方に、癒していただいたんだ。あの方の手がふれると、水が溜まったようだった胸がすうっと軽くなったんだ。
あの方の起こす奇跡を、あんたも見たかね?」
そう言う男は、私の父と同い歳のようにも、祖父と変わらないようにも見えた。
私は、男に頷いてやってから民衆の中心にいる彼を見上げた。彼は、精一杯手を伸ばして多くの人の肌に触れようとしていた。なんという魅力的な青年。
彼が生まれ故郷で営んでいたのは羊飼いではなく大工だったという。彼の肩に、重そうに食い込む生のままの木材が、なだらかな鎖骨の上に見えた気がした。
私のぼんやりとした想像は、その後現実のものとなる。
彼らの主要な神のうちの一人――その形容は、私たちのような厳格な信教者をぞっとさせる。唯一にして絶対の存在である神が、複数存在するなどと…!――多情な太陽の神アポロが、もっとも愛するという植物を模した、黄金づくり冠が、下品に光を弾く。月桂樹の金環のその下で、土気色の顔をひきつらせ、ローマ人の総督は宣言した。涼やかで魅力的な、あの青年の有罪を。
司祭の衣を翻し、私はその判決を、民衆から離れた一段高い場所で聞き届けた。
私は役目を終えたのだ。民の中にもぐりこみ、民と同じものを食べ、同じことで笑い、悩みを見せ合った。そして、あの青年に対する反対勢力があることを、私は探り当てた。
彼は、身内によって破滅した。
私はほっと息をつく。私の信ずる道は、やっと正道へと通じたのだ。民衆に顧みられることなく打ち捨てられていた神の御名を、すこしは彼らの上に輝かせることに成功しただろうか。
幼いころから、私は司祭たちの説く神の教えを信じてきた。試練の時にあって、いつでも我らを結束させる信教を、乱すものがいると聞いていてもたってもいられなかった。
わずかな自由さえゆるされず、他民族の支配を何百年と受け継いだ我らが、たったひとつのよりどころとしてきたものだ。祖先の築いた栄光を忘れ、神から選ばれし民の自覚を失えば、私たちは生まれながらの奴隷となる。そうなれば自分たちのどこに誇りを見出せる?
私は、生まれたときから尊んできた神の御名を守りたかった。たとえ今は虐げられていようとも、この乳と蜜の流れる約束の地を、遠い子供や孫たちに手渡したかった。そのための結束を、乱すやからを許せない。あの無力で魅力的な青年は、彼自身に罪はなくとも私たちを祖先の栄光と神と交わした約束から断絶させてしまう。
それを防ぐためなら、どのような危険も厭わない。狂信者のなかで、司祭の冠を受けるべき自らの身分を知られれば、命さえ無事ではすまなかっただろう。けれど、信ずるもののためならば人はどれだけも強くなれる。
しっとりと重い神官の衣。
これは私たちの担う責任と同じだ。これをまとう限り、私たちは迷う事がない。多少の矛盾や、不正も飲み込んでしまう。
いつか来る、永遠の安住の地のために。ただ、それだけのために。
神の御名だけを、私は繰り返し胸のなかで思い描く。
声に出して、みだりにそれを呼んではならない。
『私たちの神様』