ざわざわ、ざわざわ木立が揺れる。

月が明るく、風の冷たい夜だった。
葉の茂った枝を潜ると、中庭には迷路が隠されていた。不自然なほど平らに、均一に刈り込まれた植え込みは、一歩踏み入れれば壁となって人々を迷わせる。
グリンダは迷わず迷路の入り口を越えた。パーティーの歓声を避けて。オズの人々のあげる、喜びの声に背中を押されながら、少しでも奥へと。

大人の背丈ほどの植え込みで作られた迷路の、ちょうど中心には、小さな白い噴水がある。グリンダが迷いつつ、記憶を頼りに辿りついた水の気配のない噴水には、奇妙な鉄の像がたてかけられていた。忘れられたように佇んでいる白磁の噴水とその奇妙な像は、月の光を反射してそれぞれ淡く、鈍く光っていた。

「きこりさん…」
「おや、こんばんは、良い魔女さん。パーティーはいいのかい?」

しかけもないのに、鉄のかたまりは自ら動きだした。そして見た目とはかけはなれた、甲高い少年の声で語りだした。グリンダはブリキの人形が話しだしたことよりも、自分以外の誰かがこの隠された場所にいたことに驚いていた。

「きこりさんこそ、こんな所にひとりでいたの? 迷って出られなくなってしまったのなら、私が広間へ連れて行ってあげましょう」
「ありがとう。でも、僕は広間にはいかないよ。みんなのようにご馳走が食べられるわけでも、お酒に酔えるわけでもないからね」
「……一人きりで、さびしくはないの」
「さびしい?」

月は小さく、高いところにあった。
人々の笑いさざめく声が遠くかすかに流れてくるのを、木立ちをわたる風が遮る。影絵のように葉が動いて、ざわざわ鳴った。

「僕には心がないんだよ、グリンダ」

ボックは、唯一金属に見えない瞳をひたりとグリンダにあてた。彼の目玉はガラス玉そっくりだった。

「オズの陛下に心臓を貰ったけど、やっぱりだめだ。僕は魔女に奪われて、心をなくしてしまった。だってグリンダ、君を見ても、もうちっとも綺麗だと思わないんだ」

空には、雲ひとつないようだった。どこを見渡しても星のない空はなく、月も煌々と明るい。影絵が止まる。風が止んだ。

「おかしいね。あんなに君のことが好きだったのに、今は少しも心が動かない。だって、ないんだもの」
「ボック。そんなことない。オズの陛下に貰うまでもなく、あなたはハートを持った人間よ」
「だって、何も感じないんだ。
悪い魔女を殺したら、元に戻ると思ってた。白雪姫やいばら姫が目を覚ましたみたいに。でも僕は、悪い魔女を全部退治したのにずっとブリキのきこりのままなんだ。魔女が死んでも、嬉しくも哀しくもない」

広間から、人の声と音楽が流れてくる。

「ああ、うるさいなぁ。ねえ、君にも聞こえてる?」
「悪い魔女が死んで、みんな安心したのよ。久しぶりの平和だから」
「みんな? 違う、僕の身体の音だよ。錆びて、きぃきぃ煩いだろう」
「え?」
「もうずっと前から、僕は錆びてしまって、動くたび、動かなくても煩いんだ」
「いいえ、あなたはぴかぴかよ。どこも錆びてなんて」
「じゃあ、見えないところだ。見えないから、油を差すこともできない。ずっと、このあたりが風がふくたび、きぃきぃして痛いんだ」

また、どっと笑い声が起こった。まるでブリキのきこりを嘲るように。

「ボック、そこは心臓よ。心のある場所よ」
「そう? じゃあ、やっぱり内側から錆びているのかな。悪い魔女が死んでしまう前から、いつもいつもうるさいんだ。きぃきぃ、きぃきぃ、うるさいんだ」
「それは心よ。あなたの心だわ」
「違うよ。だって、ネッサローズが死んだときに僕はちっとも哀しくなかった」

風は相変わらず止まったままだ。月は容赦なくボックのブリキの身体を照らし続ける。ボックが耳を両手で覆うと、ブリキがぶつかってガシャンと煩く音を立てた。

「ああ、うるさいなぁ。今日は、なんだかますますうるさいみたいだ。ねえ、良い魔女さん。魔法で、どうにかこの音をとめてくれない?」
「白雪姫やねむり姫は、魔女が死んだから目をさましたのじゃない。あなたの音も、魔女が呪いをかけたわけじゃない。
それは心が動く音よ。あなたは気付いていないけれど、あなたの心臓が痛みを訴えているんだわ。だから、魔法ではどうすることもできない。
だって、私からもその音がするでしょう」

ボックの身体には体温が通わず冷たかった。打てば中身が空洞であるとわかるだろう。寂しい音が響くだろう。
ドレスのデコルテに押し当てて、涙をふりかけても彼の身体に血が通うことは永遠にない。
ボックはぎろりとガラスの瞳を動かした。

「ああ、グリンダ。優しいね。君は変わらず綺麗なの? 僕は本当に君のことが好きだったんだ」
「私の胸からも、風の音がするでしょう」
「わからない。僕には心がないから、君の心もわからない。何も感じない」
「私の錆びた心臓の音が、あなたの体にも響いているのじゃない?」
「わからないよ。自分の音しか聞こえない。
ねえ、心がないのなら痛みも消えるものだと思ってた。どうして心がないのに、身体が軋むたびこんなに痛いんだろう」
「痛みを感じるならあなたは人間よ。そこが、あなたの心のありかよ」
「ああ、それではやっぱり、オズの陛下は偉大な魔法使いだ。
このからっぽのブリキの身体に、心だけを宿らせてくれるなんて!」

不器用な人間が鎧兜を床に落としたら、そっくり同じ音がしただろう。ボックがよろめくだけで、恐ろしいほど高い音が鳴る。
ガラスの瞳に、ネッサローズの愛したはしばみ色はもう宿っていない。白いガラスのなかには、くろがねが丸く収まって乾いていた。涙を流せるものは幸いだ。傷を癒すことができる。

「オズの陛下は去ってしまわれた。かかしも、今頃は王宮を抜け出しているころでしょう。王冠をなげだしてね。
 私は、この国を治めなくてはならないの」
「ネッサローズがしたように? マンチキンにしたように?」
「いいえ、そうしてはいけないと思ってる。
ボック、あなたは生まれ故郷に帰ってもいいのよ」
「この身体で? すべてが前と違っている。僕は眠ることすらいらないんだよ」
「では、ありあまる時間を私の為に使ってちょうだい。私の手助けをして、ネッサの仕事の後をついで。
もとの身体に戻る事はできなくても、その音をまぎらわずことはできるかもしれない」
「グリンダ。君はそうするんだね。自分に良い魔法をかけなおすんだね」
「ボック? どこへ行くの」

さらりと葉が鳴る。目の前が暗くなる。
小さな雲が、どこからか現れていつのまにか月を覆ったようだった。ボックが立ち上がると、彼の形に星が隠れて彼の動きはグリンダにも見えた。

「わからない。でも、もう僕は行くよ。故郷には戻らない。戻っても、誰も僕が僕だとわからないだろう。
僕はあの黄色いレンガの道を外れて、いきつくところまで行ってみるんだ。僕は疲れを感じないから、心配いらない。本当に錆びて形が消えてなくなるまで、歩き続けよう。
最初からそのつもりだった」

そうしたら、いつかボックも眠れるのだろうか。

「あなたも行ってしまうの」
「いつか、旅の途中でかかしに会うこともあるかもしれない」
「あなた、知っているのね」
「さあ、なんのこと? もう夜も遅い。グリンダ、君には睡眠が必要だ。もうベッドへお戻り。」
「ボック!」
「もう行かなきゃ。悪い魔女への伝言はあずかれないよ。
おやすみなさい。きれいな良い魔女さん」
「さようなら、ボック…おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

よい夢を。

グリンダはボックがしていたように、枯れた噴水に腰掛けてみた。そしてそこで、長い時間をすごした。天体に星が動くのが見えるほど。
ふたたび立ち始めた風が、木立を揺さぶる。グリンダのほどいた髪を、優しく揺らして迷路を通り過ぎていく。

ブリキの身体は涙を流さず、壊れることがあっても癒えることはない。
果てしない旅のようやく終わるころ、最後にみる夢の中でブリキのきこりは一体誰と出会うのか。
それはボックしか知らない。



『パーティの夜に』
2009.07.20