きな臭い風が、城のてっぺんまで巻き上がる。人々の怒声と、物を打ち壊す音に追い立てられながら、グリンダの手を握り締める。汗ばみ震える手は、ミルク色で指先がピンクだった。

おびえる大きな瞳の中に、涙がたまって今にも溢れそう。金色の髪がきらきらと白い顔を縁取っている。大きく取られた窓のそば、彼女のほっそりした姿は青ざめた闇のなかで、白い蝋燭みたいに淡く輝いていた。

最後に、彼女の美しさを覚えていたい。二度と会えなくなる前に。

あなたは私を何度も裏切ってきた。



「どうお、これ!」
手渡された帽子は、とんがったてっぺんがひしゃげていて、不吉な黒色をしていて、両手で差し出す彼女の顔を覆いかくしてしまうくらい巨大で、とても素敵なものとは思えなかった。

似合うとはやされても、とても信じられない。そんなわけないじゃないと突き返そうとするけれど、でも、もしかして。あの可哀そうなネッサローズを幸せにしてくれたひとの差し出すものなら、もしかして。

愛するネッサ、可愛そうなネッサ。
彼女を助けてくれた女性のいうことなら、本当かもしれない。私はグリンダのことを誤解していたのかもしれない。
いつも目の前で、ばちんと閉じたプレゼントの箱。この帽子は私宛ての、初めてのプレゼント。

わずかな可能性に私は賭けて、そして裏切られた。

手ひどい嘲笑を添えて贈られた、生まれて初めてのプレゼント。



「一緒に来て!」
あなたさえいれば、何もいらない。

オズの王宮の片隅。埃のたちこめる物置部屋のなかで、私は奇跡の書『グリムリー』を抱き、武器のようにほうきをかかげて、グリンダへ懇願した。一緒に来て欲しい。

見たでしょう? “動物”たちが苦しめられているところを。
心を持ったものなら、あのままにしておくことなんてできない。心が死んでいないのなら、私と来て。グリンダ!

「一緒に来てくれないの?」

いくつもの蜘蛛の巣が見張るなか、グリンダは、青ざめた唇を固く結んで私から目をそらした。ついてきてはくれなかった。

そして、次に彼女と言葉を交わしたときが、彼女の最大の裏切りの時。



「私を捕まえるために、ネッサの死を利用したのね」

これ以上に私を打ちのめす裏切りはなかった。

私は永遠に妹を失った。ネッサローズ!
幼いころから、ネッサだけが私を「人」へと繋ぎとめる楔だった。
たとえ愛してくれなくても、彼女を愛していることだけが、私が緑の化け物じゃない、心を持つ人間である唯一の証だったのに。

ネッサだけが、私を「人」にしてくれた。友達に会うまでは。
ディラモンド先生と、グリンダに会うまでは。



入学したばかりのころ。ダンスホールの中で、気楽な学生たちは馬鹿みたいに着飾って踊っていた。シズ大学は名門だと言うけれど、本当なの?
給仕はみな“動物”たち。“動物”が人間に奉仕するのは当たり前だとでもいいたげに、彼らは好き勝手に楽しんでいる。物事を考えるということが、彼らにはないのだろうか。
馬鹿みたい。
私の帽子も馬鹿みたい。

一番の馬鹿は彼女だけど。こんな、黒くて巨大な帽子…。

グリンダは、罪悪感に苛まれながら立ち尽くしている。せっかくのピンクのドレスがだいなしだ。

「一緒に踊ってもいい?」

できるものならやってみるといい。
できるはずがない。

ハンサムな彼氏をほおっておいて?
大勢いる取り巻きたちが、すごい目でグリンダを見ている。
そんなことできるはずない。ほら、今にも彼氏は、他の女の子に目移りしそうよ。

けれど彼女は私の前に立った。

グリンダは私の肌にぶしつけに触れなかった。私の無茶な動きにただ寄り添った。
彼女の白とピンクと金色で創られた身体が、私にぴったりと寄り添う。
まるで私がそこにいるのが当たり前みたいに、彼女は私の側で踊った。ふわりと漂う清らかな香り。すぐ側にある青ざめた頬が、言葉にできない彼女の心を物語ってる。彼女の勇気を、物語ってる。

このときだけだった。グリンダが私を選んだのは。他の友達より、フィエロより。
たった一度だけ、他の何もかもを捨てて、グリンダは私を選んでくれた。あのときだけ、グリンダと私はふたりきりだった。



城下を見下ろす大きな窓。
細く見えるのはたいまつの列。

おそらく、あの火の数だけウィキッドを殺そうとする人間がいる。今にも城の回廊を走り、塔の階段を駆け上る。
炎の匂いはますます強まる。
足元から炙られそうなほどに。
人々の声に追い立てられて、胸の鼓動が不規則に強く脈うっている。グリンダはそれでも、大きな窓のそば、私の前にまっすぐ立ち続けた。彼女を愛する人たちに背を向けて。

それはまるで、あの学生のころのダンスホールを彷彿とさせた。 きらめく照明が、猛々しい炎にとって変わっただけ。
このまま、彼女を私だけの魔女へおとしめていいわけがない。

グリンダを逃がす場所を探して、私は手当たりしだいに扉をあけた。小さなクローゼットをみつけて、彼女をそこに押し込める。ピンクの指先が、緑の肌に触れたのはそのときだった。

「私たち、もう二度と会えなくなるの?」
「そうね」

きっと寂しくなる。
あなたに会いたくてたまらなくなる。喧嘩したくて、話をしたくてたまらなくなる。私はグリンダのことが好きだった。誰でもグリンダのことを好きになった。私ですらそうだった。

それでも、一緒に来てくれないのとは、もう言わない。

「あなたは幾度も私を裏切ってきた。グリンダ」

聞こえないと知っているから、そっと呟く。さっきまでグリンダが佇んでいた窓際に、一人で立つ。どこからか巻き上がった風が、髪をなぶっていった。
私は何一つ忘れていない。煮えくり返ったグリンピースのこと、今でも根にもっている。黒い帽子をくれたことも。一緒に逃げてくれなかったことも、ずっと。

けれどもういい。
すべての裏切りはもういい。彼女は私を他の何かと比べて、くりかえし捨ててきた。私も彼女を裏切った。何度も裏切ってきた。私も彼女を選ばなかった。私はフィエロを選ぶ。

「あなたのことを忘れない」

頑丈な樫の扉が斧で破られる。暴徒と化した人々がどっとなだれ込んできた。



いままででたった一度だけ、グリンダが私を、私だけを選んでくれたことがあった。もう何年も前のこと。

――いっしょに踊ってもいい?

あの日を忘れられない。
生まれてはじめてのプレゼントと、裏切りと、生まれてはじめてできた女の子の友達。私は世界で一番、あなたのことが好きになった。



『裏切りを百と約束を一つ』
2009.07.09