すべての人は、通りすぎていく。
なぜなら、彼女、彼らには足があるから。忙しく二本の足を動かして、彼女たちは私の前を通り過ぎていく。

私は子供部屋の窓から、人びとを見ていた。

あるいは、私が私でなければ違ったかもしれない。
身体のどこかが不自由であっても、世界中自由に飛びまわる。そんな人が、この世にはいくらでもいるのだろう。
それを私は知らなかった。
私は、私が閉じ込められていたことにすら気付かなかった。

「未来の総督である、可愛い娘よ」

私を閉じ込めたのは、あの人だった。

「お前のためならどんなものでも手に入れてあげよう」

エルファバをこう然と無視して、私にだけ甘い砂糖菓子を骨の溶けるほど与えてくれたあの人。
私はつねに脅されていた。エルファバというお手本を見せられて、いつだってつきつけられていた。
言うことを聞かなければ、お前の姉と同じようにしてしまうよ。

恐怖から逃れるためには、恐怖と対決し、反抗するか。
もしくは、恐怖と同化してしまえばいい。自分も誰かに恐怖を与える支配者になれば、常に脅かされている自分を忘れられる。それがどんなに惨めなやりかただとしても、殺され、捨てられ、忘れ去られる恐怖を自分の中から一時だけ、遠ざけることができる。

「あの花をとってきてちょうだい」
「どこに…?」
「あの木のてっぺんに咲いてるのよ。わかるでしょう」
「ネッサ。花なんて咲いてない」
「あなたには見えないだけ。ちゃんと咲いてる。白い花よ」
「冬よ、今は…。ほら、庭のどの木の葉っぱも全部おちて、枝がむき出しじゃない?」
「いいえ、あの枝のてっぺんに白い花が咲いてるの。見えないの。ねえ、どうしてもあれが欲しいわ。とってきて」

翼でも生えていないことには、決して届かない場所にあるもの。
それを私は渇望する。

「とってきてよ。ねえ、エルファバ」
枝が折れて地面に激突しようと。
私に白い花を届けてほしい。決して飛べない私のために。

微笑んでみせると、彼女はふらふら歩き出した。誰の目にもあきらかな、裸の枝に向かって、一歩。




私たちは決して愛されることはなかった。
そして、私は知らないうちにかちんこちんに凍り付いてしまった。
隣にいるエルファバが針で突かれていようと、何も感じないし、何も見えない。悲鳴は聞こえない。彼女だけが私を愛してくれたけれど、それすらないことにした。

何者も私の心を犯さない。何も入ってこない。

「まあ、なんて綺麗なお顔ですこと」

お世辞も、私を戸惑わせることはない。総督の娘にこびへつらう人はいくらでもいる。ただ、だまって微笑してやればいい。
はにかんだふりすら、私はしただろう。

顔がいくら美しかろうと、どこにも行けない娘がどれほどみじめか。
一瞬のうちに吹き上がった憎しみも、なかったことにする。心を動かすのは危険なことだ。先には破滅が待っている。おとなしく、従順にしていなければ言う事を聞かないと
エルファバと同じ目に

優しいエルファバ。彼女とふたりきりでいるときだけ、自分がすこしだけ息を吹き返す。彼女の前でだけ、私は泣き、喚き、そして声を上げて笑った。
マナハウスの子供部屋は2つに分かたれていたけれど、笑い声がそこに響くこともあったのだ。

けれど、彼女と一緒に他の人がひとりでもいるとだめだ。失態するまいと、緊張感が動かない足を締め付けた。

ここにはお父様がいないというのに、何十人ものクラスメートが私たちの間に立ちふさがって、エルファバを嘲った。そうなると、もうだめだ。私は凍りつく。小さくなって、消えて無くなってしまう。もう私はそこにいない。息を潜めて、鼓動すら弱めて。

私は誇りというものを感じたことがなかった。
私には小指の先ほどのプライドもない。
それは、エルファバだけが胸に抱いていた。母親の腹で、そっくり彼女に譲り渡してしまったかのように、私の分まで彼女は高慢で気高かった。

今も、彼女は嘲笑の中一人で立ち、私を振り返ろうとはしない。
もし、妹に助けを求める視線を投げても無駄だっただろう。私は車椅子の車輪をますます握り締め、床を見つめたまま、顔を上げなかった。

「はい、レポート」

胸元に、A-の評価をくだされた羊皮紙をつきつけられる。
ありがとうを言う間もなく、彼は友達の隣の自分の席へ戻っていく。
女の子よりも、背の小さな男の子。種族は違うが、私たちと同じ国で生まれた人だとすぐにわかった。同国人へ感じる親愛の情を、少しものめずらしく思いながら、無言でレポートを受け取る。
彼の、野暮ったい毛糸の帽子に収まりきらず、つんつん突き出す髪の毛が、針金のようで面白かった。

彼もまた、私の前を通り過ぎていく、多くの人たちの一人に過ぎない。

美しい異国の王子にも、私は心動かされることはなかった。甘い顔と声を持つ彼も、通り過ぎていく季節と同じように、私にはとらえどころのない影のように見える。

ただただ、通り過ぎていく現象。

「ミス・ネッサローズ!」
つむじ風がやってきて、手持ち無沙汰に持っていた教科書のページを吹き飛ばす。
「お願いがあるんだけど! 僕と一緒にダンスパーティに出てください!」




「エルファバ」

彼女は、栄養の足りない、枯れ枝のような身体をしていた。12歳の彼女は、8歳にも間違えられただろう。

「エルファバ、本当に行くの?」

たとえ彼女が同年代の娘達の半分しかなくても、あの木のてっぺんに登れば枝が重さに負ける。

「ネッサ。あなたが言ったのよ。私に、花をとってきてって」
「そうだけど、あなた、どこに花が咲いてるのかわかった?」

ありもしない花を、私のために折りに行く彼女の背中は、とりつくしまもないほど毅然としていた。

「あなたがあると言った、私には見えないけど……だから、あそこへ行ってみることにする」
「エルファバ、もういい。見えないのなら、きっと無理よ」
「でも、あるんでしょう」
「エルファバ!」
「待ってて」
「エルファバ! 私が謝れば満足?!」

彼女は、初めて振り返った。

「あなたが、お父様でなく、私に頼んだことよ。あなたが他の誰にでもなく、私にだけ、花をとってきてと言った。
意味がないわけない」

冬の朝。
使用人たちもまだ眠りの床にいる時間だった。広い庭の片隅になど、他に誰もいないし、助けてくれない。
エルファバは、私の悲鳴を聞かなかったようにして一番低い枝へ手をかけた。

このとき私は、彼女の不思議な力を生まれて初めて目の当たりにすることになる。
私にはない、彼女だけが持つ魔力。




私は自由になるすべを何一つ持っていなかった。
不思議な魔力も、誇りも、強さも。
不自由な足は、その象徴だった。

「実はね、今夜君のことを、誘ったのは」
「いいの。私わかってるわ」
どこにも行けない。どこかへ行こうとも、思わない。

「本当?」

薄暗いダンスホールは、七色の照明が切れ切れに光を投げかける。
点滅するかと思うと、青い光がぼうっと踊る人々を照らした。

彼女たちは、あと数時間もすればここから全員いなくなる。がらんとしたホールだけが暗闇に取り残される。そんなものだ。すべては通り過ぎていく。

私はここにいる。いつでも、ここにいる。
子供部屋から窓の外を歩く人たちを見ている。まぶしい思いで、ただ見ている。

なんて美しいのか。
彼女たちがステップを踏むたびすそがひらひらと揺れて、どれほど魅力的に見えることか。光が弾ける。くるくる変わるライトと、ドレスの色彩の奔流。地下のホールに集められ、青いライトを浴びている彼女たちは個性的な熱帯魚にも似ていただろう。けれど私の目は、より自由な空と、翼を競う鳥の群とを連想した。

音楽が心地よい波動となって、身体を揺さぶる。楽しそうな笑顔を見ると自分まで微笑みたくなる。美しい物を見た、ここに来られて、よかった。

「踊ろう」

聞き間違いだと思った。私は決して踊れない。

けれど彼は――ボックは、言葉どおりに私をホールの中央へ連れ出した。遠くから見ているだけだった人々の群に車輪を踏み入れて、私は目もくらむ様に思った。

ボックは胸に腕を引きつけ、うやうやしく一礼する。混乱している私の前で、彼は空高く舞い上がった!

なんて、なんて高く跳べるんだろう。

彼より背の高い人たちだって、彼ほど空に近づくことはできない。彼の小さな身体には、翼が隠されているようだった。

バレエのように優雅な飛翔を見せたボックは、そのまま私の車椅子を掴んでぐるりと回転させる。生まれて初めてダンスホールに誘われた夜、私は生まれて初めてダンスを踊った。生まれて初めての幸せな夜……。

光の渦が目に飛び込んでくる。
人々の熱気が腕を掠める。
ボックの息遣いがすぐ近くにあって、耳元に掛かる髪をそよがせた。

回転、回転。ドレスの裾が動かない足をくすぐる。
手を伸ばすと、すべての光は私たちに降り注いでいるように思えた。

彼が、ずっと私の側にいてくれたらどんなにいいだろう。

もしそうしてくれたなら、私は自分の動かない足をもう二度と悔やんだりしない。彼がいてくれたら、彼が踊るのを一番近くで見ていられさえしたなら、たとえ歩けなくたって、翼を手に入れたように思うだろう。ボックさえいてくれたなら。




エルファバが手をかけた枝が折れて、痩せた体が宙へ投げ出されたとき、私は何もできずにただ車椅子を握り締めていた。せめて、この足が動いてくれれば…!

奇跡は、そのとき起こった。

天を突くほどの大木の、内側に稲妻でも走ったように中心から火花が飛び散る。葉の落ちた枝が身を捩じらせて土に落ちた。土煙がもうもうと上がり、あまりに大きな物が落ちたので地震が起きたかと思うほどだった。

枝に抱きこまれていたおかげで、無謀な少女は骨を砕かれずに済んだ。

震えている私の前で、エルファバはかぎ裂きだらけの服をものともせず、平気で歩きだした。枝に肌をひっかかれながら、彼女はできるだけ頂上に近い枝を選んだ。離れたところでただ見ていた私へ、それを差し出す。

「はい」

花どころか、蕾さえまだ芽吹いていない。

「どうして、あの木は倒れたの? いやだ、どうして?
 エルファバ!! どうして無理したの?! 死んじゃうかもしれないじゃない…っ」
「びっくりしたわ。運がよかったわね」
「答えてよ!」
「もし、お父様に頼めば、きっと使用人を総動員してでもあの木の枝をすべて折ってきてあなたに差し出した」
「どうして、こんなことをしたのよ!!」
「泣かないで、ネッサ。
あなたが、私とふたりきりの時に、私に頼んだことだったからよ。きっと、あなたには何かの意味があったのだと思って」
「意味なんて……なかった」

そっけない枝を折れるほど握り締める。
意味などなかった。ただ、試したのだ。エルファバが……私がお父様と一緒になって責め苛んだエルファバが、それでもまだ私を愛してくれているかどうか。なんて無意味な行為だろうか。
確かめても、それを覆すすべを私は持たない。

「ネッサ。私は、あなたのためならどんなことでもする」

私を見放すだけじゃない。
彼女は、私を置いていつか自由になってしまうのではないか。
見せ付けられた彼女の力は、彼女の強さと同様、彼女だけが持つ翼のように思えた。

 

私は何も持っていない。
強さも、気高さも、ましてや不思議な魔力も。
けれど、私にだけ与えられる翼がこの世にあるのだとしたら、それはあの小さな男の子だった。

もし、彼が私を愛してくれるなら。
彼が、歩けない私のぶんまで自由に空を飛んでくれるなら。

ああ、ようやく分かった。私はこのために冷たい総督の家に生まれたのだ。

「お入りなさい」

衛兵は、魔女エルファバが私の領内へ侵入したかもしれないと、悪い報せをよどみなく読み上げた。
執務机を隔ててそれを聞きながら、私は羽ペンを滑らせる。オズの陛下にあてて、わが領地へはおかまいなくと、いつもと変わらない返信をしたためる。

私の私室は、2階の子供部屋から、屋敷の中心である総督の間に移った。

「これを、エメラルドシティへ」

火で炙って溶かした赤い蝋を、総督の紋章で封筒に押し付ける。とろとろと輝き、血の様に紅い。

封蝋が乾く間も待たずに、それをボックに手渡した。
彼は、かしこまってそれを受け取り、衛兵と共にこの部屋を下がった。きっとすぐに戻ってくる。彼は今、ここで暮らしているのだから。

窓の外には子供のころと変わらぬ冬の景色が広がっていた。けれど、私はもう閉じ込められているとは思わない。

感謝します。足なんてもうどうでもいい。

私の持つ翼の名前。ボック。
そして、「権力」。



『私の愛しい翼たち』
2009.03.18