夢を見た。
お母様が生きてらっしゃる夢。
お母様はわがままで、でも肖像画通りの、綺麗な人だった。私たちには優しくて、楽しいおしゃべりをしてくださる。けれど、お父様には冷淡だった。

お母様は、いたずらっぽく私達にめくばせしながらお父様を困らせる。
お父様はお母様には少しもいやな顔をせず、怒れないみたいだった。私達にはちゃんと小言も言うのにね。

お母様に怒られるたび、お父様はエルファバにつらく当たった。私はそういうとき、まるでここにいないみたいに空気にまぎれてしまう。
息をつめて、表情を凍りつかせる。夢の中でも。

ある日、お母様のお腹が膨らんできた。お父様が嬉しそうに宣言する。

「新しい子の誕生だ!」

悲鳴を上げて、私はその悪夢を破った。




姉を見つけると、多くの人は犬に吠えたてられたかのように逃げていく。壁にへばりつき、あるいは車道に押し出されそうになりながら、その人たちは姉を遠巻きにくすくす笑っている。

魔法という不思議を学ぶ、この稀有な大学でさえそうだった。
私は自分と同年代の人たちが、何十人も一緒にいるのを見たのは初めてだった。国ではずっと年上の、そして小さな人たちにかしずかれていた。

そして歩けるということと肌が肌色をしているという以外、私たちと変わらないように見える彼らが、いっせいに姉を避けるのを見るのも、また初めて体験する身のすくむようなことだった。

「エルファバ…」

恥ずかしく思いながら、車椅子を押してくれる手に掌を重ねる。緑色ではあっても、いつもは温かくて優しい手だった。この手が私を傷つけたことなど一度もない。今は血の気が引いて、指先がとても冷たい……

何十人もの人々の視線。あからさまに進路上を避けられる。

けれど遠慮しながら見上げた彼女の顔は、とても厳しくてまっすぐ前を向いていた。
私はそれがとても意外で、今もそのことを忘れられないでいる。




黄昏の空気は物憂い。
光は長く差し込み、十字に交差した窓の模様を黒く描き出している。光は弱いのに、影は黒い。

部屋は豪奢な造りだった。
装飾的な寝台の上には、絹のシーツがつやつや光を放っている。ソファーの上のクッションは、女性が好みそうなフリルのふちどりつきだった。

青い花模様の壁紙の上に、小ぶりの絵が何枚も掲げられている。ガラスの内側に封じ込められた絵画そのものよりも、金色にメッキされた額縁の波打つような立体的な意匠が目を引く。これにも影が黒く装飾をまぶしていた。

若い女性たちのさざめく声が風にのって流れてきた。それは、すぐに通り過ぎてしまう。校舎や、一般生徒の住まう寮からは少し離れたところにあるのに、たまにこうして彼女たちの声が届くことがある。

夕暮れ時には、なぜか取り返しのつかない気分になる。やらなければならなかったことを、せずにいるような。
けれど、それが何なのかわからない。だから、刻々と姿を変えていく光の色を見つめるのみである。

「なぜあんなことをしたの。ねえ、なぜ?」

出窓のさんに手を置いて、振り返らずに聞いた。
先ほど見たエルファバがそのままの姿勢でいるのなら、彼女は部屋の隅で影に隠れるようにして立ち尽くしているはずだ。

彼女は私の前ではめったに座らない。

「答えてよエルファバ。ねえ、なぜ魔法を使ったの?
ここでは、どんなことがあってもあの不思議な力を使わないって約束したじゃない」
「ネッサ、ごめんなさい。私、頭に血が昇っちゃって、何もわからなくなってしまってそれで…」
「そんなこと聞いていないわ」
「ネッサ?」
「私はなぜあんなことをしたのって聞いているの。だって、あなたは私に約束したじゃない。ここに来る前に、もう絶対に手を使わないで物をうごかすようなことはしないって、約束したじゃない?
私に約束したのに、なぜ貴方は私との約束を破ったの。そんなことありえないでしょう」
「ごめんなさい、ネッサローズ」
「そんなこと聞いてない!」

窓枠の下の、壁を両手で押す。ストッパーをかけていなかった車輪はくるくる後退して、私を乗せた車椅子は机にぶつかりながら部屋の中央へ躍り出た。

滅多矢鱈と車輪を回して、エルファバを轢きかねないいきおいで絹のベッドへたどり着く。

「なぜあんなことをしたの?!」

指に当たるを幸いに、手当たり次第に物を投げつける。枕、ベッドのシーツ、サイドボード上の花瓶、ペン立てやインクまでを床にぶちまける。
本棚の中身を空にしていく。

分厚い辞書は、そう遠くへは飛んでいかずに、車椅子の足元へ落ちた。車椅子は一瞬ひっくりかえりそうになった。

「どうして! あんなに約束したじゃない!! ここでは、やらないって、あんなに約束したじゃない!」

泣き喚きながら彼女を責めると、彼女は弱弱しく悲鳴を上げた。

「ごめんなさい、ごめんなさいネッサ。ごめんなさい。私が悪かったわ。だから、あぶないからやめて」
「いいわけしないで!!」

私の激昂を感じとって車輪が軋む。
本棚が本当に空になってしまったので、私は他に床に投げつけられるものがないかと部屋をうろうろしようとした。腹立たしいことに、障害物が多くてどこへも車輪を向けられない。目線で探している私に背を向けて、エルファバはまず本を一冊ずつ拾い始めた。勉強好きの彼女らしいことだ。彼女が本棚に入れるそばから、私が落としていく。

物も言わずに。

彼女の細い背中が、震えていることに気付いたのはどれほど経ってからだろうか。

「エルファバ?」
恐いみたいに、声は震えた。

「なあに」
エルファバはいつもどおりの、澄んだ声を響かせた。負けずぎらいの顕れた、ぶっきらぼうで張りのある声。彼女は、濡れた頬を隠して私に向き合おうとしない。

「エルファバ、ひょっとして泣いてるの?」

細い背中へ手を伸ばすけれど、届かずに終わった。
それでも必死で手を伸べる。

「エルファバ」

本をしまおうとする彼女へ、やっと手が届く。
私の為に、彼女は作業の手をとめて本棚の前で立ち止まってくれた。

「エルファバ、泣かないで」

彼女は片手で顔を覆い隠してしまう。
緑色だけれど、優しくて温かい掌。

「どうして泣くの」

教室で、どんな嘲笑を浴びせられても彼女はひるまない。
どんなに大勢の人が、よってたかって彼女を指差しても彼女は決して頭を垂れない。
毅然と前を向く。

彼女は、とても誇り高いから、誰にも傷つけられたことを悟られたくないのだろう。その強い人が、こうして私の前でだけは泣き崩れる。
どうして。
私には何の力もない。歩けもしない。どこにも行けないのに。

「泣かないで。エルファバ、泣かないで」

私はどこにも行かないのに。

彼女の服の裾をひっぱり、手繰り寄せて彼女を抱きしめる。
大勢の人に、いっせいに罵られても彼女は冷笑を返すだけなのに、どうして。
彼らの前で貴方が涙を零したことなど一度もなかったじゃない。

「どうして泣くの。お願い、泣かないで」
「大丈夫よ。ありがとう、ネッサ」
「ごめんなさい。私が悪かったの。酷い事を言って……だから、泣かないで。
片付けなんていいわ。先生が帰ってらっしゃる前に、私がやっておくから」
「ネッサ」

また、誰かの笑い声が風にのって窓のすきまから忍び込んだ。声はすぐさま遠ざかる。
泣いたせいでいつもより冷たい彼女の指を、両手で握り締めながら、私は認めざるを得ない。

「あなただけよ。私の側にいてくれるのは」
「そんなことない。お父様だって、貴方のことを愛しているもの」
「お父様のことは言わないで!」
「ネッサ?」
「いえ、いいえ。ごめんなさい。
お父様はとても愛してくださる。いつも感謝しているの」

エルファバは、本当にそうだという顔でうなずく。彼女は少しも気付いていない。

「お父様は私が嫌いだけど…。でも私も、お父様を愛してる。
そしてネッサ、貴方のことは一番大好きよ。」
「私の側にいてくれるのは、エルファバ。貴方だけよ」
「そんなことない! お父様だって」

私は思わず声を立てて笑ってしまった。賢いはずなのに、なぜエルファバは気付かないのだろう。

もしお母様が生きていらして、もし肌が白くて歩ける子どもを産んだなら、私はきっと今のエルファバとそっくりのあつかいを受けていたでしょうね。
そんなのお父様を見ていれば、すぐわかることじゃない。

「わかってる」
「ネッサローズ、どうしたの? 何か哀しいの?」
「貴方だけよ。私の側にいてくれるのは。他の人はみんな、偶然私達の前にいるだけでしょう。偶然、クラスメートなだけ。でも、私たちは違う。私たちは姉妹だもの。
私だけは、エルファバ。10年後も100年後も、きっと変わらず貴方の側にいてあげる」

エルファバは、今度こそ涙を隠さなかった。
私は私にだけ見せられる涙にまったく心動かされることなく、彼女の痩せた背中をずっと撫でてあげた。

「裏切らないで」

午後の光は薄い。

荒れた室内を見渡しながら、暗くなる前に、先生が帰ってくる前にこの部屋をどうにかしないとと思うと、手の動きは自然と急かされて早くなる。
それでも私は微笑んでいられた。エルファバがいれば、どうにかなるでしょう。
私がこの世で信じられるのは、彼女ただひとりだった。

 

『ネッサローズ』
2008.07.22