「悪い魔女が死んだぞ」
二人目の黒衣の魔女が死んだ。これで、彼女を思い起こさせるものはこの世に一つもなくなった。あの女の子はもうどこにもいない。
間接が、ギィーと軋みをあげる。
黒衣の魔女が死んだ。
その言葉は、あるイメージを脳裏に浮かび上がらせたけれど、それは古い記憶の扉が蝶番を擦りあわせながらふいに開いたというだけのことで、それ以外のことは何一つ起こらなかった。
自分は心を無くしたブリキ人形だから、彼女を思って痛む心などもっていない。
だから、自分は少しも悲しくはない。胸は痛まない。
「魔女を殺せ!」
頬は風を感じることなく、空腹もなく満腹もない。
眠りすら訪れない。
草木さえ眠る深夜に、自分だけがぎらぎらとガラスの眼を開いていなければならない。心などなくても、辛さはわかる。
すこしずつ錆びていく体。
もし完全にさびついたら、自分はどうなるだろう。
動けない鉄くずの中で、不快感だけを抱いて存在し続けるのだろうか。
憎い憎い憎い。
「あいつのせいで俺はこんな姿にされた。
魔女を殺せ!」
憎い。
『今でも私は貴方の事を! ボック!!』
新しい総督に呼び出されたのは、故郷の実家に帰ってかばんを下ろす間もないときのことだった。
ほんの一時寄っただけのつもりだったのに、新しい法律を盾に出国を禁じられた。
ネッサローズは、自分の知っているあの内気なおとなしいネッサローズではなくなっていた。
「なんのつもりなんだ」
「何って…ボック、今は大変な時期なの。動物が反乱を起こして、そこらじゅうで暴動があるからとても危険なの。幸い、この国はお父様が治めてらしたからまだ平和だけれど、住民の安全を守るために、出入国を制限するのは総督として当然のつとめです」
「それで、僕を帰してくれないことには、どういう大層な法律があるんだ」
見たこともない、豪華な総督の屋敷。
けれど、重厚な造りは暗さに繋がっていた。古びた重そうな甲冑も、背丈を越えるガラスの戸棚も、みな厳しくて険高い。
ネッサローズが今収まっているのは、屋敷の中心にある総督の部屋だった。何かを恐れるように、窓もない。彼女が父親からここを受け継いで、まだ数日も経っていないはずなのに、彼女は100年前からここで年老いているような陰鬱な黒いローブをまとっていた。それは、あるいは喪服だったのかもしれない。
「それは、あなたが私のお友達だからよ…!」
「友達? よびつけて、衛兵に軟禁させて帰らせないようにすることが?」
「ボック、お願い。わかって。
私には貴方しか頼る人がいないのよ」
女の子の悲鳴は、甲高くその場の空気を切り裂いた。
自分は正しいし、彼女は不当だ。わかっているし、状況に変わりはないけれど、胸をつかれて彼女を責めることができなくなる。
「お父様も、エル…ファバも……お願い、私には誰も信用する人がいないの。どうしたらいい? お願い。側にいてほしい」
嘘だ。
彼女の手下は、今でもこの国に支配を張り巡らせていて、少しの反抗も封じ込めようと目を光らせている。自分の家がある村だってそうだ。
みんな、息もつけないほど圧政に締め付けられてる。
姉と違って、色白の彼女の頬に涙の球が零れるのを見て、思わず同情しそうになる。
彼女の悲鳴をこれ以上聞いていたら、もうここから逃げられなくなる。そう思えて、ドアに向かって逃げ出そうと走った。
「ボック!!」
するどい音が背後で鳴った。
何か大きなものが、投げ出される音も同時に床を振動させた。
振り向くと、ネッサの重そうな総督の車椅子が倒され、ネッサは不自由な足をその下敷きにされていた。
「ネッサローズッ」
思わず駆け寄り、椅子を退けようと背もたれに抱きつく。彼女の額は蒼白だった。
「誰か!! 誰か来てくれ! ネッサローズが!」
「いいえ、ここには誰も来ないわ。私が呼ばない限りは」
「そんな」
「大丈夫よ。あなたがどかしてくれたから、ほら、私は逃げられた。
貴方はいつも私を明るいところへ連れ出してくれるのね」
「血が…」
ばからしいほど頑丈な椅子は、自分の力では動かせなかった。体当たりして、やっと地面との隙間を作れるくらい。それも数秒のことだった。
そのわずかな間に、彼女は腕の力だけで椅子の下から這い出した。地面を踏んだことのない彼女の銀色の靴は、新品同様にきらきら光りを放っている。けれど、彼女の針金のように細い足はいたいたしく傷ついて血が流れていた。
「今すぐ、誰かを呼んで」
「ボック、どうか私を許してちょうだい」
「そんなことはいいから」
「いいえ、貴方が許してくれるまでは、他のことはどうでもいい。
身体の傷より、心の痛みが辛いの。どうか、お願い。私の側にいるとやくそくしてちょうだい」
思わず屈みこんだ自分の腕を、両手で握りしめて彼女は涙を零している。
学生時代には見慣れた白い顔。
彼女は、本当におとなしい子だった。
「私は、歩けないから。
誰のことも諦めていたの。追いかけてはいけないじゃない。エルファバだけはずっと側にいてくれると信じていたけれど、彼女も私のもとから飛び去ってしまった。でも、貴方は…違うわよね?
いいえ! 私にとって、貴方だけが違うの! 生まれて初めて、私は、貴方のことだけは諦めて忘れてしまいたくないと思ったの。生まれて初めて、貴方を追いかけてしまっただけなのよ。
お願い、私を許して。そして私に約束して。10年後も100年後も、私の側にいてくれると」
「わかった。わかったから医者を呼んで」
「まあ、ボック…ボック、約束してくれるのね」
「わかったってば。それより、早くお医者さんに診てもらおう。話はそれからだ」
黒いドレスが胸に飛び込んでくる。
「ありがとう。ありがとう、ボック」
重そうな黒いドレス。手触りはしっとり濡れたようで、母の絹のハンカチを思い出させた。小人族の自分からしてみても、彼女は自分達と同じくらいに小さいし、軽い。
――きっと、彼女もそのうちわかってくれる。
本当はいい子なんだ。
今は、寂しくて混乱しているのだろう。だから、無茶を言うんだ。
でも、きっとすぐ元の内気なネッサローズにもどって、恥ずかしがりながらごめんなさいと言ってくれるに違いない。
こんなところに閉じ込めて、ごめんなさい。
あなたはグリンダのところへ行って。
私はもう大丈夫。
きっと、今は彼女は混乱しているんだ。
学生のころのように、僕は彼女をいっときだけ守ってあげようと決めて、彼女の涙を取り出したハンカチで拭った。
心沸き立つ音楽が、ダンスホールを満たしている。
星をかたどったガラスの飾りが、丸いドームの天井を空そのままで飾っている。つるされたそれらは光を跳ね返し、給仕の掲げる盆や、女性のドレスの胸元やダンスに揺れる床に虹色を投げかけている。
誰もが誰かの手をとり、踊りの輪は何度も回転する。輪は狭まるが、ぶつかる寸前で踊る人たちはするりと身をかわす。無秩序なようでいて、同じ音楽に身をゆだねる彼らはどこか同じだった。
同じような踊り、同じような年頃の学生たち。
その中で、彼女だけは光っていた。
金髪とピンクのドレス。グリンダは誰より綺麗だ。
どうして彼女とここへ来なかったんだろうと、やっぱり僕は後悔した。
グリンダがフィエロとキスしてる。
「ネッサ…」
やっぱり僕はあそこへいかなきゃ。
「わかっているわ」
「本当?」
ネッサローズは、哀れみでもいい。嬉しいと言ってくれた。
純粋な彼女の瞳の中では、僕はどんなにいい人に映っていることだろう。
彼女がうつむくと、まっすぐな髪が分れて痩せた首筋が露になった。苦しそうな音を立てて、車椅子の肘置がへこむ。丸く盛り上がって貼られた黒い革に、ネッサローズの白い指が食い込んでいた。唐突に分かった。理解してしまった。
ああ。この子は寂しいんだ。
初めて彼女を見た時は、総督のお嬢さんなら、どんなことでも望みのままだろうと、きっとわがままな女の子に違いないと、そう思った。先入観を持っていた。
けれど彼女は、僕たち小人族を締め付けてなんでも思い通りにしたあの総帥とはまったく違う。
この子は、寂しいんだ。ただの女の子なんだ。
姉だってあんな風に代わっていて、誰も彼女に声をかけない。
教室でも、彼女はいつだってエルファバとふたりきりだ。
自分もいままで、彼女のことを色めがねで見てた。総督のお嬢さん。変わり者のエルファバの妹。
「踊ろう!」
闇雲にダンスホールの中央に躍り出た。
胸のなかがもやもやする。なんだか痛む。
それを忘れようと、踊りの輪を破ってもっとも光りの当たる場所へ突き進む。膝に力をこめて、回転しながらいっぱいに空へ飛び上がると、彼女は目をまるくして踊る僕を見上げていた。彼女の車椅子を、音楽に合わせてぐるぐる振り回すと、彼女は両手をふわりと差し上げて空を抱きしめた。
彼女は、痩せた体で星々を掻き抱こうと精一杯指を伸ばす。
白い両手が、いっぱいの幸せを感じているようで。こんなにまぶしいと思ったことは今までなかった。こんなに輝いた日は他になかった。
彼女を守ってあげよう。
本当にそう思った。
卒業するまで、きっと彼女を守ってあげよう。
罪悪感と誇らしさ。鋭い痛みとともに、このとき、彼女のことをとても大切に思った。
胸の奥、心の底から。
『逆回しの心臓』