雨の中、黄色い猫が彷徨っていた。
黒い闇の中から、銀色の針が光って落ちてくる。
街灯の下に立つと、それが良く見えた。背の高い街灯は、
星や月よりよっぽど明るいと、黄色い猫は考えていた。
タン!という軽やかな音を聞き分けて、小さい耳をそばだてる。
水が地面を叩く一連の音に紛れて、もっと軽くてしなやかなものが飛び跳ねる音がする。
それが何かを確かめたくて、熟した小麦畑色の毛並みを持つ猫が、手探りで夜の街を進んだ。
闇の中、身を伏せた大型獣のように、鉄の固まりがいくつも影をつくる。その猫はそこにいた。暗すぎて、駐車場に停められた自動車の色はわからない。けれど猫の色は一目でわかった。純白だった。
音も無くターンする白いふくらはぎに、視線が釘付けになる。
闇を指し示して伸ばした指先と、まるで自分の美しさに陶酔するような遠い目が、黄色い猫を見つける。
一瞬だけ視線が黄色い猫の顔に焦点を結ぶと、すぐにほどけて、ダンスの中に流れて行った。それが悔しくて、黄色い猫は彼女に声をかけた。
「こんな雨のなかに、どうしてひとりきりで踊っているの?」
「そうしたいから」
意外にも返事はすぐに返ってきた。思ったとおり、澄んで美しい歌声だった。
「風邪をひくよ。こんな雨じゃ、小鳥だって降りてこない。
もし体調を崩したら、食べて体温を補うことが出来ない」
黄色い猫は、こんなにつまらないことしか言えない自分に腹がたった。
案の定、白猫は答えない。
「君の名前は?」
「ヴィクトリア」
誇らしげに白いひげを震わせながら、白猫のダンスはいっそう優雅さを増す。拘束して、その動きを止めたいとさえ、黄色い猫は考えた。
「貴方は?」
さして興味もなさそうに、ヴィクトリアが尋ねる。
「僕には名前がないんだ」
「そう」
その動きにすこしも乱れはない。白猫はふわりと足を上げると、つま先で背中まで、花が開くような半円を描いた。引き締まった薄い腹に、背後から近づいた黄色い猫は手を添える。ヴィクトリアの微動だにしない白い足を引き寄せて、自分の腰に足を絡めさせる。ヴィクトリアは反って、黄色い猫に抱かれるのではなくその手を支えにもっとも優雅な姿勢を創った。デュエットを奏でるように、白い猫の作り出す空間は黄色い猫をもその創造主にした。
「やはり君は他の猫とは違う」
黄色い猫は、白猫を見つめるなかに崇拝の念を隠さなかった。
「他のやつらは、僕が言う事を信じなかった。名前のない猫なんていない、って。
もっとひどいやつは、僕に名無しなんてひどいあだ名をつける。
『名前のない猫』、なんて…」
誰かを思い出したように、黄色い猫は顔をゆがめた。
「そうなの」
白猫は黄色い猫から離れると、今度は高く飛翔した。雨音よりかろやかに着地する。
「君はそんなことはしないね。僕を疑ったりしないね。嘘をついてるなんて、言わないよね」
「貴方は嘘をついているの?」
黄色い猫は激しく否定した。
「違う!僕は嘘なんてついていない」
そこには、君までそんなことを言うのかという、非難の響きがこめられていた。会ったばかりなのに、裏切られたような顔をする黄色い猫に、ヴィクトリアはちょっとした興味を覚えた。
「それならば、そんなことを口にだして言うものじゃないわ。たとえ他の猫がそうしたという、説明だったとしても、「嘘をつく」なんて言葉は、口に出しただけで自分を傷つけるものじゃない?」
「そう思う?
やっぱり君は他のやつとは違うね」
ぱっと明かりを灯したように、黄色い猫の表情が変わる。
「ねえ、また君に会うにはどうしたらいい?
君はどこに住んでいるの?」
ヴィクトリアは眉根を寄せた。たぐいなく美しい踊りを、あっけなく終わらせる。
彼女の気分を害したことに気付いて、黄色い猫はあわてて言葉を重ねる。
「君が嫌ならいいんだ。急に住処を教えろなんて、不躾だったね」
「そうね」
「でも、君に逢いたい。
一年後でもいい。君が行くかもしれない場所を、教えて?」
ヴィクトリアはもう踊る気がしなかった。暖かい寝床に包まれて、夢をみても良い頃合だ。
「一年後?そんな先のことは分からない」
「そうだね。じゃあ、明日は?」
「さあ。気分しだいだから」
雨が激しさを増している。
伴奏のようで心地よかった雨音が、今は不愉快に大きい。潮時だった。
「それじゃあ、僕は毎日ここに来るよ。そうすれば、いつか君にあえる?」
「わからない」
白い猫は、正直に答えた。
けれど、黄色い猫が毎日ここで彼女を待っている、なんて甘い想像を働かせるほど、自惚れていなかった。今は本気だったとしても、猫は気まぐれだから、毎日誰かを待ったりはできない。
案の定、次の日晴れた星空のもと、ヴィクトリアは誰はばかることなく、ひとりきりでダンスを楽しんだ。
『雨の中』