近親相姦要素があります。
ご注意ください。
じっとり湿った身体は、頼りなかった。
身体を引っ張られる感触。重力というものを、初めて体験していた。身体が重い。いつもはふわふわと、温かい水のなかに浮いていられたのに。不愉快であり、また、心躍る。

鳴く。声が出る。

光が目を刺し、自分が瞼を開けたのだと初めて感じた。
目の前にいる彼女は、すでに丸い目を大きく開いていた。
そのときから分かっていた。彼女だと。
自分の名前を、生まれたときから猫は知っている。そして、自分の名前だけでなく、彼女の名前も握って、タンブルブルータスは誕生した。






ニ匹は決して離れず、ずっと共にある。
誰かの長い話を聞かされているとき、彼女は退屈して、自分と全く同じ毛色をした雄猫をつつく。身をぐったりと預けつつ、喉をそらして背後の顔を覗き込む。目があうとにっこりする。

他の雄猫が、からかうようにじっと見つめてくるのを威嚇してから、腕のなかのカッサンドラの、痒がる背中を掻いてやる。こすれあう互いの毛並みを、逆立てるほど密着して、耳元で囁くと、白い歯が零れて笑い声が弾けた。
『タンブルブルータス』
彼女の声が好きだ。略さずに、必ず名前のすべてを呼んでくれる声が、好きだ。

「タンブル。こっちにおいで。
君にもお土産があるんだ」
スキンブルシャンクスも大好きだ。小さいときから、二匹を兄のように可愛がってくれる。話題の豊富な、優しいトラ猫だった。黄色い毛並みのように温かい猫柄は、街の誰からも愛されていた。
「カッサンドラにはちゃんともうあげているんだ。女の子たちには全員渡した。あとは、君だけだよ」

「ありがとう。スキンブル、今回は長く居られるのか?」
「ああ。年に一度のお楽しみがあるだろう?それまでここにいるつもり。
流石の僕でも、この日は街にいたいよ」
「汽車の仕事があれば、そっちを優先するんだろう」
「そうだな。それで去年は、君に寂しい思いをさせたんだった」
「俺はべつにいい。でも、カッサンドラたちは残念がっていた」
「タンブル、あいかわらず彼女が判断の基準なんだね。そろそろ、他の猫も視界に入れたら?」
「お前には関係ない」

結構本気の忠告だっただろうに。
スキンブルシャンクスは、にべもなく意見を退けられても、腹をたてなかった。おとななんだろう。
タンブルに手渡す土産は、いつもの貝殻だった。別の土地の石や、煙草や木の実など、旅先でおよそ面白いと思ったものをスキンブルシャンクスはみな採っておいて、街の猫たちに配る。

「街の人数分拾ってくるんじゃ大変だろう。俺たち雄猫には、もう土産はいらないんじゃないか」
「んー。でも、差別はよくないよね」
スキンブルシャンクスは言葉を濁す。

彼にはわかっていた。タンブルブルータスが、本当はとても嬉しいと思っているくせに、正直にそうは言えないでいることを。タンブルは雄っぽくクールぶりたがるけれど、基本的に素直で礼儀正しい。
スキンブルの土産を丁寧に受け取りながら言った。
「ありがとう。大事にしまっておく」

「タンブル。今日は僕の寝床に泊まらない?いろいろ他の街のことを話してあげるよ」
「カッサンドラと一緒にいる」
「彼女はこの街から出て行かないだろう?僕はめったに帰ってこないよ」
「それでも、彼女と居るほうがいい」
「本当に、子供のころからちっとも変わらないんだから」

スキンブルシャンクスはからかうでもなく、嘆息する。だから、タンブルブルータスも正直に言ってしまう。
この世のなにより大事なのは、カッサンドラといることだった。

まだモノを知らない子供だったとき、喧嘩して彼女を泣かせたことがあった。きっと何度も、やんちゃな少年はカッサンドラを悲しませたことだろう。
そのときを除いて、タンブルブルータスは、彼女を泣かせたことはなかった。





「おかえり」
「ただいま」
カッサンドラは身体を震わせて雨の雫を飛ばした。
タンブルブルータスも手伝って、湿気を拭ってやる。
「スキンブルの話はいつも面白いわね。貴方は何をもらったの」
タンブルブルータスは赤い貝殻を掌に乗せた。カッサンドラが取り出したのは、薄緑に金の縁取りがある、綺麗な名詞だった。異国の言葉が印刷してある。雨のなかでも濡らさないよう、庇ってきたから、彼女自身は濡れそぼっている。

「カッサンドラ」
小さくて細い身体を抱きしめる。

自分とまったく同じ色、形。
本能が激しく叫ぶ。これは『よくない』ことだ。

「タンブルブルータス、だめよ」
「分かってる。ちょっと寒そうだったから、暖めるだけだ」
ニ匹で顔を見合わせて微笑みあう。
すぐに離れた。

「いろいろな街を旅するって、どんな感じかしら。食べ物だって、土地によって違っているんですって。でも、私たちには関係のない話だね」
「そうか?カッサンドラが行ってみたいなら、行く事もできる。この街を出て、どこかへ行こうか」
何も妨げるものはない。
その土地のものを食べ、その土の上に眠る。猫は気軽だ。どこへでも行ける。

「ううん。やっぱりここが好き」
湖と雨の多い土地。霧の冬。穏やかな夏。カッサンドラは眠そうに目を瞬かせた。ここが好きだ、と呟く。

「すこしうたた寝するといい。俺が見張っているから」
「そうね。一生懸命話を聞きすぎちゃった。猫には向いていないのよ。誰かの話を、ただ聞くなんて」
すう、という引き込まれそうな寝息をたてて、カッサンドラは眠りについた。

夢の見張り番は、暗闇を見るとはなしに見つめていた。
薄い緑の名詞の上に、赤い貝が乗っている。
黄色いトラ猫の顔が、瞼の裏に浮かんで消えた。
腕の中にはカッサンドラがいる。

これは『よくない』ことだ。だとしても、それが何だというのだろう。
本能が命じるままに、生きるのもいい。
けれど、猫は自由だから、いつかはそれさえ乗り越える。

おとなに成ってから初めて、彼女を悲しませることになるかもしれない。

警告するような雷鳴が、雨音の中、遠くに響いた。
眠りにつくカッサンドラは、それを耳にしなかった。タンブルブルータスだけが、ゼウスの力だという雷に耳を傾けていた。




『Paris』