「おまえなんて死んでしまえばいい」

ジェミマは心からそう思った。だから、彼女へそれを突きつけようと、蕾のような唇を開きかけた。
けれど、思いなおす。

――言葉を交わすことさえ、惜しい。

冷たい視線だけを投げて、少女は女を追い払った。グリザベラを。

「私は、決して誇りを失って生きていこうとは思わない」

ジェミマの呟きは、彼女の心をいっそう苛烈に駆り立てた。




道きわに、背の高く幹の細い木が連続して立ち尽くす。どこにでもあるありふれた樹木だった。ふちのぎざぎざした大降りな葉が、枯れたようなまだらへ色を変える。茶色の一歩手前の黄色へと染まりきらないうちに、枝から離れて道路を敷き詰める。
途切れがちな細かい雨に、しんなり濡らされた二色の葉を踏むと、じわりと雨が染み出した。
爪先から忍び入る冷たさが、やがて来る厳しい季節を予感させる。

今は実りの季節のはずだった。
けれど街路樹の貧弱な枝ぶりのなかには、ひとつぶの実も見えなかった。その木は春に花をつけ、初夏に結実する。葉を落とすばかりの木々は、寒々とした姿で立ち尽くしていた。
賢いジェミマは、落ち残る葉の裏を見あげて、赤い実を探そうとはしない。

「なにこれ…」

ジェミマは点転と住処を変える。
夏は涼しい場所を探し、冬にはすこしでも風の凌げる場所を求めて歩き回る。今の彼女が寝床にしているのは、人の庭先だった。前庭ではなく、草木の茂った裏の庭。手入れを忘れた茨が茂り、雨水のたまったバケツが傾いて転がっている。

棘をさけてジェミマが身を寄せる敷石の上に、見覚えのない魚がひとつ、転がっていた。額の突き出した、見た事もない赤い鱗の魚。長く割かれたねぎの、数本まつわりつく魚の腹は厚く太っていて、びっしり並んだ歯が鋭い。ジェミマが鼻を寄せると、魚からは甘い腐臭がかすかに香った。

「あいつ……ここに来てたの」

白と黒のくっきり分かれた、細身の猫を思い出す。
彼は馬鹿にしたような視線と、反対にやさしげな口ぶりで彼女に約束をした。なんでも、力になると。以来彼は、なにくれとなくジェミマの世話を焼こうとする。まったく大きなお世話だった。

「たたき返して……」
いらないわと彼の胸元へつきつけてやろうか。

細い雨が、天と地を結ぶ。
ジェミマは舌打ちしてしまった。
この湿った空気では、食べ物が痛むのも早い。魚は早くも腐りはじめている。腐敗する寸前の、もっとも美味な時期が今だった。揚げた油と一緒に、饐えた甘い香りが漂う。

どこにいるかもわからない彼を探している間に、魚はきっと食べられないほど酷く腐乱してしまうだろう。ご馳走を目の前にして、ジェミマは表情を暗くした。
苛立ちといっしょに噛み締めても、魚は甘くいつまでも温かく腹を満たした。




長雨に包まれて眠った次の日に、ジェミマは庭先に迷い込んだ獲物を狩りたて盛大な成果を挙げた。顎が疲れるほど重い獲物をぶら下げて雄猫のテリトリーを訪ねると、白黒まだらの雄猫が、中華料理屋のキッチンに続くドアの前でねそべっているのを見つけた。

彼は、地べたに直に寝転んでいた。

雨は上がったとはいえ、コンクリートはじっとりといつもより濃い色を見せている。ランパスキャットの白銀の毛並みにまで、暗い鼠色が映りこんでみすぼらしかった。
ジェミマは、濡れた地面より少しでも高いところに寝場所を探す。ランパスキャットは違う。彼は、行き倒れたように身体を投げ出していた。

「生きてる?」

ジェミマが聞くと、まぶたを降ろしたままでランパスキャットは口角をゆがめた。ジェミマはわずかに頷くと、彼の間近に立った。

「これ」

ジェミマが放り出した獲物は、大きなかえるだった。ランパスキャットの頭上に落すと、びたんと大きな音がして死んだ手足が跳ね返る。

「昨日、あんた私の寝床に勝手に魚を置いていったでしょう」
「美味かっただろ」
「迷惑だって言ってるの。これで借り貸しなしだからね」

ランパスキャットは額を叩いたかえるの足を指で摘むと、片目を開いた。曇天のもと、蒼穹のごとき青い色が、ジェミマの姿を捉える。

「真面目だな、お前」
ランパスキャットは、青い目を眠そうに瞬かせた。

「あんたは私を馬鹿にしすぎ」
「馬鹿になんてしてねえよ」
「してる。私は自分ひとりで食べていけるの。だけど、あんたから貰ったものの代わりを渡さないわけにいかないから、今日は大変だった。あんたを探すのに、ずいぶん時間をとられたのよ。
無駄だと思わない? 自分で自分を食べさせるのが、結局一番労力の少ない方法なのに」
「もらいっぱなしでよかったんだよ。
 お前、あんなの見た事もなかっただろう? 食べさせてやりたいと思ったんだよ。それだけだ」
「冗談はよして。何度か一緒に踊ったことがあるくらいで、なんであんたがそんな……」
「俺が、お前を可愛がってるからだよ」

青い色をまぶたに隠したまま、にやりと口角がゆがむ。
なげやりな笑顔を見下ろしながら、ジェミマは彼の、白い額にむかって胸を苛立たせた。

「ともかく、借りは返したから」
「行くのか」
「……ここにいる理由がないわ」
「また来いよ!」

歩き出したジェミマの背中を、鋭い声が追いかける。
彼女は、逃げずに振り返った。

「なぜ」

寝ている男を、睨みつける。

「なぜ、私がここへまた来なくちゃいけないの」

白く長い腕が、優雅に宙をさまよったと思うと、逞しい上体が続いて起きあがる。立てた片膝の上に頬杖をつき、掌に押し上げられた頬で半眼になりながら、ランパスキャットは彼女の視線を受けとめた。

「お前は、好きに俺の寝床を通り抜けてもいい」
「なぜ。私はあんたの子供でもなければ、兄弟でもない」
「ガキに好き勝手させるほど、俺はふぬけてねぇよ。だけど、女は別だ。
雌猫は、いつだって雄の領域へ入ることが許されてる」
「私には関係ないわ」
「今日だって、お前がここまで来るのを止める雄猫はいなかっただろう。それがルールだ」
「私は、あんたの世話にはならないし、あんたの好意にすこしでも甘えるようなことは嫌。他の猫にはしても、あんたにはしたくない」
「硬いこと…いうなよ」
「傷ついてるみたいな声だすの、やめて。
 聞くけど、あんたは私を守ってくれると言ってたけど、あれは本気?」

ランパスキャットは、悠然と座りなおして、眩しそうに彼女を見つめた。力強く頷く。

「ああ」
「嘘よ!」

ジェミマは否定の声と合わせて、鋭く息を吐き出した。
するとそれは、とても皮肉な言い方に聞こえた。

風が重さを増す。空がまた動きだした。
街に蓋をするほど大きな雲が、頭上に厚く垂れ込める。ぽつりと、地面に小さな水の粒が落ちた。

「嘘よ。だってあんたは、いつまでもここにいるわけじゃないじゃない。あんたは、自分より強い猫がきたらここから居なくなるつもりなんでしょう。じゃあ、そいつが私から大切なものを奪ったらどうする気?
 だってあんたは、もうそのとき私の傍にはいないじゃない!」

ジェミマの声は、水の中で聞くようにゆらゆらと撓んでいた。

「どうしたんだ、お前。落ち着け」
「私は、手出ししないでって言ってるの。だって、あんたは私よりずっとおじさんだし、すぐにここから居なくなるんでしょう。少しでも体が弱って、格好悪くなったら、すぐ消えてしまうつもりなんでしょう」

ランパスキャットは表情を無くす。ポーカーフェイスというより、当たり前すぎる事実を確認されて、なんら特別な感情をもてないというふうだった。
それが、ますますジェミマを激昂させる。

「もし私を守るつもりなら、格好わるくなってもここに居る? ずっと私を守る? できないでしょう。
 もしあんたの次に、この実入りのいい場所にいつく一番強い雄猫が、私を嫌ってさんざん痛めつけたとしても、この街から消えてるあんたには何にもできないじゃない!!」

ランパスは脱力する。
しまりのない顔が、なんだ、そんなことかとジェミマを見上げる。
彼は、立ち上がることもせず蹲ったまま言った。

「そんなことを心配してたのか……
大丈夫だ。安心しろよ。
俺の次に来るやつが、お前のいうような相当の性悪だったとしても、俺が必ず道づれにこの世から消してやる。どんなに腑抜けてようと、最期の後始末くらいは出来る」

道づれ。
最期。

「必ず、約束する。お前は安心していい」

額に爪が食い込むほど自分の顔を掴んで、ジェミマは鋭く首を振るった。





誇り高く生きなければ、生きている価値などないと思っていた。
泥水を啜って、毒虫を噛み、汚濁の中をのたうってそれでも生きる事に、何の意味があるだろう。

いつかまた輝く日がくるとしても、泥に塗れた過去を白く塗り替えることはできない。

強くなければ。
美しくなければ。
一点の曇りもなく、正しくなければいけない。
さもなくば死ねばいい。

けれど、彼のくれた食べものは甘かった。
彼の腕は優雅で強かった。

いつかは総てをなくしてしまう彼に、それでも恥辱にまみれて生きていて欲しいと、私は願うのだろうか。





よわよわしい微笑みが、老婆の口許に皺を刻む。
元が何色だったかもわからない、縺れた長い毛並みが、ジェミマに向かって手を差し伸べた。

ジェミマは、凍りついたように動けなかった。

その猫の瞳には渇仰が宿っている。
憐れみを、許しを請うおずおずとしたしぐさ。

長い年月をすごしたあまりに、早く動くことのできない彼女を、ジェミマはじっと待っていた。立ち去りかけて、ふと膝をつき直した彼女に、老女はいつもと違う気配を感じて瞳をぎらつかせる。ジェミマは中腰で不安定な姿勢を、濡れた土についた手で支えていた。

脳裏には、彼女の憐れな姿を透かして全く別の映像が写しだされた。それは白と黒の斑点で身を飾る、群で一番強い雄猫だった。
漆黒であり、同時に純白である彼と、灰色のグリザベラとでは、少しも似たところはないというのに。

――私は、誇りを捨てても生きてほしいと、彼に願うのだろうか。

胸をつく悲しみに、ジェミマはいっそう顔をひきしめる。ただ生きていてほしいと、それ以外は何も求めないと、私は彼に望むのだろうか。

グリザベラが、爪の折れた指先を震わせている。
切望するもの、望みのものがすぐ近くに迫っているのを感じて、老いた顔が場違いに輝く。
もとは美しかったという、今もほんの少し、美しさの残るその顔。

やはり、どうしても赦すことができなかった。

「お前など」

初めて、ジェミマは彼女と視線を合わせた。

「お前など……」

生まれて初めて口をついた罵倒は、留まることなく後から後から迸った。
初めて、心の底から彼女が憎かった。

 

『glamorous』
2007.10.13