「諦めなさい」
と誰かが言いました。手放してしまいなさい。そんな望みは意味がない。決して叶わないのだから。私は答えました。

「どんなことがあっても、これを手放すことはできません」

女の人は、にっこりと微笑みました。私は怖くて怖くてしかたがありません。彼女に仲間だと思われてしまったと、わかったからです。

美しいスカイブルーの瞳をもつ彼女は、ドレスの裾をふわりと翻し立ち去りました。ぼろぼろに劣化したドレスが少しでも触れた場所には、死体を入れた袋を引き摺った後のように血がかすれた道を引き、触れられるはずのない壁や天井にまで退色した茶色い血痕が線を引いて交差する小さな部屋に、際立って鮮やかな赤い汚れをひとすじ、残しました。
古くて歪んだドアが閉まり、ことん、ことん、と彼女の歩く音が、しだいに遠ざかっていきます。すきまから漏れる光が彼女の影で一瞬遮られると、また細く部屋に差し込みました。

初めて私は自分の体を動かすことができ、そして深呼吸しました。おかしな匂いです。生まれて初めて嗅ぐ、奇妙な匂い。そして気付きました。四方を囲む小花の壁紙からうす暗い天井にまで、茶色く変色した血の跡が無数に擦り付けられたこの部屋が、一体どこなのか、私は知りません。なぜ私はここにいるのですか。どうやって。

逃げようと思いました。

けれど今しがた付けられたばかりの彼女の血痕には、濡れた感触と匂いに誘われ何匹、何十匹の油虫が集まってきます。彼女の血を吸い、踏んだ虫たちの棘のある黒い足に血のりを移されながらざわざわ這い登られることを考えると、ぞっとします。彼女が流した血を踏まずに出て行ける場所を探しましょう。
背中をさわさわと走る軽い感触に、知らず悲鳴が上がりました。
いつの間にか足を這い登って、背中に張り付いているのだろう油虫を払おうと、私は背中をよじって手をやりました。手が汚れるのは嫌ですが、見えない背中に彼女の血が付着するのも不気味でした。けれど、強く払おうとした私の指を弾いたのは、黒光りする油虫のつるりと丸い羽根やするどい触角ではなく、じっとり湿った固い人の肌でした。

誰かの指が、私の背中を擽った。

振り返ると、人形のような顔が闇に浮き上がっていました。
彼女は微笑んでいた。彼女の顔には鼻が欠損しており、彫りの深い顔の中心には、変わりにぬめぬめと赤い肉が血を滲ませていました。




「その時よ、猫がふりかえると、そこには死んだはずの男が…!」
「きゃあーっっ、きゃーっ!」
「ちょっと、うるさいよ。静かにして」
「だって怖いんだもん! 怖いよー怖い!!」
「怖いのはわかったから。……で、続きは」

ジェリーロラムは答えずに、重ねた手を膝の上に載せた。
少女たちは食い入るようにジェリーロラムを見つめていたけれど、語り手はにこにこ微笑むだけだった。

猫たちの暮らすゴミ捨て場のいつもの場所。古タイヤの前で、ジェリーロラムを取り囲んで身を寄せ合う少女たちは、全部で3匹いた。一番年若いシラバブは眠そうにこっくりこっくりしている。次に若いランペルティーザは、すぐに叫んだ。

「それで終わり? そんなの納得できない!」

ヴィクトリアは話の途中でふらりと居なくなってしまった。いつものことだ。白猫を除いた多くの猫たちが、その場所に居合わせて、少女たちを見守っていた。高いところや低い地面で、それぞれが気だるく寝そべる猫たちは、少女たちの細い甲高い声を聞きながら、ゆったりと寛いでいる。

少女のうちでは、一番年長であるジェミマが鼻を鳴らした。

「なんだ、結局作り話か」

ジェミマは、大人の女性というにはあと一歩足りない、固い体つきをしていた。頑なな口許も、小さい身体も、もうじき薔薇のように花開く。

それに比べて発情期の萌芽を見ないランペルティーザは、くったくなくきゃあきゃあ歓声を上げながら怪談に熱中していた。

「え、本当にあったことだって、ジェリーロラムが最初に言ったじゃん。昔の役者仲間に聞いたことなんでしょう?」

ジェミマは、本当はランペルティーザと同じくらい熱中していたことを、隠そうとしていっそうつんとする。

「だって本当にあった話なら、その後どうなったか教えてくれるはずでしょう。話を作った人が、そこまでで作るのをやめちゃったから続きがないんだ。
これって、絶対作り話よ」
「そうかなぁ」

ランペルティーザは、猫たちの中で一番優しげな顔をした雌猫を見上げた。目じりの垂れた丸顔が、色っぽくも優しいジェリーロラムは、いつもの笑顔でランペルティーザを見下ろす。くすくす笑うだけで、少女たちの仲裁には入らない。

「あら。本当の話だと思ったほうが面白いじゃない?」

ギルバートの傍で彼に熱烈な視線をあてられていたタントミールが、遠くから声を投げる。タントミールは平和主義者だった。

「ええー、それって、結局タントミールもこれが作り話だと思ってるってことじゃない」

ランペルティーザは思いきり頬をふくらませる。ほっそりしたタントミールは慌ててやってきて、虎縞の猫を撫でてやった。しなやかな指に丁寧に背中を梳かれて、ランペルティーザの機嫌はすぐ直る。
結果としてひとりにされたギルバートは、ゴミの陰で悪友の黄色い猫に、何事かからかわれていた。

「続きはあるのよ」
淡い白金の毛並みを輝かせながら、月の化身のようなジェリーロラムが口を開いた。
「あまり幸せな結末とは言えないけれど、教えてもいいのかしら?
猫は振り返って、そしてね……」

さりっと音がして、猫たちの顔が同じ方向を向く。

色とりどりの猫たちの群れから、暗褐色の猫が勢いよく立ち上がった時、彼女が足下の紙を踏みしめた音だった。彼女に片腕を差し出して枕にさせていたタンブルブルータスは、いきなり立ち上がった相手を目を細めて見上げている。
低い場所にいるタントミールも、彼女を振り仰いだ。

「カッサンドラ、貴方までどこかへ?」
「うん。もう、夜も終わるし」

タントミールの声は、きんと冴えていながら女らしい華やかさをもつ。
それに比べると彼女……カッサンドラは、いつものどこかぶっきらぼうな口調だった。けれど彼女の高い透明な声は、笑みを含んだような愛嬌を備えているので、彼女がとっさに少年じみた語尾で喋ってしまっても荒い印象を抱く猫は少なかった。

彼女は少女のランペルティーザと、ほとんど変わりない小さな体でひとり立つ。彼女の額を沈みかけた月が照らして、白いサークレットが滲むように輝いていた。同じ「V」のサークレットを額に掲げたタンブルブルータスが、彼女に続いて身を起こす。

ふたりはいつも一緒だった。

折り重なって身を寄せていた本の上から、タンブルを残してカッサンドラだけが迷わず飛び立つ。高く積まれた本より、さらに高く飛翔する。落ちるとき、彼女は全身を落下傘のように丸めて風をはらみ、速度までコントロールしながら地面へ着地した。

「じゃあ、またね」
「そう。ごきげんよう。また今度」

彼女の隣に音もなくタンブルブルータスが降り立ち、太いラインの入った印象的な目線が、猫たちへ無言の挨拶をする。二匹は、音も風もたてずに走り去った。




群の誰よりも高く跳べるタンブルブルータスでさえ、先に走り出したカッサンドラへ追いつくのは難しい。

身軽さではランペルティーザに一歩およばないものの、彼女は雌猫たちのなかで一番の俊足の持ち主だった。

立ちふさがる塀へ一息に飛び乗り、細い足場を駆け抜けるとぽーんと道を飛び越えて、隣の屋根に乗る。彼女より高いところにあるのは月だけだった。

「カッサンドラ。カッサ」

彼女は止まらない。ますますスピードを上げる。

「カッサ!」

ボンバルリーナの、たわわな胸や尻がいかにも重そうな悩ましい肢体や、しなやかに長い手足を持て余すタントミールと違って、カッサンドラの仔猫と見まごう小さな身体は鳥のように軽やかだった。
彼女は振り返ろうとしない。小さな影が新しい屋根に次々と飛び移る。

「カッサンドラ、そこに、血まみれの男がいる…!」

まばらに光る星のなかに、黒くアーチの軌跡を描いて飛び跳ねていたカッサンドラが、爪を立てて方向転換した。頭からタンブルブルータスに飛びつく。

「どっ、どっどっどう…!」
どこに?!

「冗談だ」

表情を変えずにタンブルブルータスは嘯く。
カッサンドラは、血の気の引いた顔でぱくぱくと口を動かした。

「タンブルブルータスッ?!」
「もうここまできたら、ジェリーロラムの声も聞こえない。だから、そんなに急ぐことはない。
本当に怖がりだな、カッサンドラは」

タンブルブルータスの大きな手が、同じ色をもつカッサンドラの頭を撫でようとした。カッサンドラは、額に置かれた掌を両手で掴むと、がぶりとそれに噛み付いた。

「痛い、痛いカッサンドラ!!」
「…うぅ〜」
「痛いって!」
「ううぅ〜」
「ごめん、ごめん」
「うううううううーっ」

カッサンドラがようやく口を開くころには、彼女はこめかみから耳まで真赤に激昂していて、興奮のあまりぷるぷる震えていた。タンブルブルータスは、困ったように眉尻を下げる。

「カッサンドラ、そんなにあの話が怖かったか? 
 だったら、もっと早くにあそこを離れればよかった」

すこしだけ牙の跡がついたけれど、血の一滴も流れていない掌で、カッサンドラの頭を乱暴にかき混ぜると、小指にふれた耳はとても熱かった。

カッサンドラは、両手で目もとを擦りあげる。目じりがこめかみにひっぱられて、カッサンドラは一瞬目を閉じた。




彼女の座る椅子が、窓に向かって置かれている。

「まだ諦めないの」

鎧戸の隙間から漏れる光は、真っ直ぐでない。ところどころ途切れて、短く光線を床に突き刺す。外側から板を打ち付け、塞いでいるのだろう。決して内側から開かないように。
部屋中を横断していた血の跡が残らず消えていた。
空気の動かない静謐の中で、彼女の声だけが毛足の長い絨毯へ吸い込まれて落ちる。がちんと何かが鳴った。

「諦めなさい」
――逃がさない。

椅子の背もたれに、彼女の長い金髪が流れている。
彼女が振り向く前に逃げたいと思うのに、足が動かなかった。がちりとかすかな音が噛み合う。足元には鼠が、薄汚れた腹を見せていた。彼女は鼠が嫌いなのだ。

血の跡が消えた代わりに、部屋じゅうに鼠の死骸が散らばって、黒い虫が数匹ずつ群がっていた。残さず命を絶たれた鼠たちは、皆ぽっかりとつぶらな瞳を見開いている。煤けた皮膚を、虫が食い破って黒い血がどろりと零れた。逃げなくちゃいけない。

――もう捕まえた。決して放さない。

でも、どうにかして逃げなくては。

椅子が軋む。ごとんと暖炉へ足を置く音がして、背もたれの向こうに彼女のふっくらと固い背中が立ち上がる。
金髪が揺れて、白い頬がほの見えた。がちりと青い目がまばたく。




「いや―――!!」






廃屋の下に口を開いた、地下室ともよべない小さな空間に二匹の猫は暮らしていた。それが何をするための場所なのか、ふたりは知らない。風が岩へ穿った自然の洞窟に、誰かが冬眠するのと同じように、二匹は自然にそこへ住み着いた。

薄暗い場所で、地中にあるぶん夏涼しく冬暖かい。
平らな床と壁が、ニンゲンの造形であることを示しているけれども猫にはなんの不都合もない。

「そっちで寝てもいい?」

なんでもないようにカッサンドラが切り出すと、彼女と同じ暗褐色を全身に宿したタンブルブルータスは、少しだけ目を見開いた。皮相な無表情が崩れて、いつもより幼い顔をする。

「心配事でもあるのか」

カッサンドラは、毛づくろいの手を止めてタンブルブルータスを見上げる。

「どうして?」
「どうして、って…」

タンブルブルータスは、言葉を飲み込んだ。代わりの理由を差し出す。

「このごろ、よく眠っていないようだから……」

ふたりきりで暮らすねぐらで、タンブルブルータスが彼女に近づこうとすると、小柄な彼女は毛並みを逆立てて怒る。それはいつものことだった。

カッサンドラは、彼の言いたい事を察したようにもう一度腕に顔を伏せた。
短めの毛並みを執拗に舐め梳かす。毛並みは、なかなかひとつの流れに纏ってくれない。

「カッサンドラ、聞いてるのか?」

栄養の行き届かない毛並みは、ぱさついて艶がない。毛足が短いので絡まりはしないけれど、均一な空気の層を作らないから少しの風でも地肌を見せる。
汗が滲んで冷たく貼りつき、ますます身体を衰弱させる。

「なんでもないよ」
カッサンドラは目を閉じた。目の際に入った黒いラインが、目じりへ長く引かれる自分の顔。

少し離れて壁際に蹲るタンブルブルータスの傷ついた瞳も、同じ色で彩られている。



2へ続く