気付くとまたあの部屋にいた。
決して行った事のない場所なのに、この部屋を見るのは何度目だろう。

カッサンドラは、震えながら息を潜める。

彼女はいない。明るい陽の光が、外側から斜めに板をうちつけられた窓辺から、カッサンドラの青ざめた頬へ光をなげかける。隙間風が涙の跡をちりちりと乾かす。恐怖のあまり、カッサンドラは声もなく泣いていた。

大丈夫、彼女はいない。安心しようとして、カッサンドラは肘おきをぎゅっと握った。あることに気付いて、抑えきれず悲鳴が漏れる。

いつも彼女が座っている椅子。それがいま自分の座っている場所だった。

彼女が見えないのも道理だった。いつも彼女はここに座っていたんだから。
彼女はどこへ……いや、知りたくない。いますぐ逃げよう。

背後で、がちりと何かが鳴った。

「やっ…ぁっ」

カッサンドラはもう嗚咽を堪えられなかった。隠れても無駄だ。彼女の冷たい固い手が、カッサンドラの手の甲を撫でる。

「ひぃ…ひっ」

泣かないで。

彼女の声は、いつもはとても静かだった。今は、頭をかち割ってしまいそうに大きい。耳の裏側から体全体をゆさぶり心臓を止めそうなのに、高い声なのか低い声なのか。彼女がどういう声をしているかは、わからない。

――泣かないで。
ネガいをカナえる。それだけよと彼女は笑う。

「ひぁっ…やぁ…」

ホントウにものワカりのワルいコねえ ナかなくてもいいとイってるでしょう

がちり。がちりと音が噛みあう。彼女の歓喜がカッサンドラに伝わって自分のことのようだった。

彼女は笑う。
カッサンドラの手首を骨が割れるほど掴んで、椅子に釘付けにする。

ネガイをカナエるの

アナタのネガいを……

ざわざわと生き物がさわめく。
足元には無数の虫がいて彼女たちを見上げていた。

彼女のドレスにも這い登って、彼女の金色の髪を掻き分けてカッサンドラの鼻先へ触覚を突き出す。
彼女はそれを無造作に千切った。白い体液がとびちってカッサンドラの口元を濡らした。
彼女の灰色の手は、もう一度カッサンドラの手首を捕らえる。濡れた固い指先が、カッサンドラの皮膚をくいやぶって激痛と共に骨へがりりと触れた。

彼女は金髪を腿へ垂らすほど身を折った。カッサンドラの膝へ無邪気に乗り上げた彼女は、カッサンドラの腹がつぶれるほど身体をおしつける。みしみし、ばきりと骨が音を立てる。

胃が押されて、中身が喉を焼きながら競りあがり口から噴射した。
吐しゃ物を履きかけられた彼女の金髪が、どろりと汚れて、白い首筋へはりつく。
彼女の背中がゆれる気配が直接内臓へ伝わった。彼女は笑っていた。

カッサンドラはたすけてとつぶやきながら意識を手放した。タンブルブルータスの顔が、一瞬脳裏をよぎった。



「諦めきれないの」
ネガイは……

「それは私のすべてだったから」
キッとカナう

「あの人をどうしたら諦められる」
ワタシとカわってくださいあなた




目覚めると、見慣れた寝床の中にいた。
カッサンドラは寝起きのかすんだ目で、機械的に毛並みを整える。なぜか全身が細かく震えていた。
震えながらいつものように、いつもの行動をなぞろうと自分の体を手入れする。暗褐色の毛並み。あのひとと同じ毛色。子供のころからずっと……

舌の付け根に違和感を感じた。喉がいがいがする。舌を突き出して、指を口腔に差し込んだ。指先がひとすじの異物に触れる。

引き出すと、唾液にまみれた金髪が長く吐き出された。飲み込みかけていたようで、金髪をするすると手繰る時、喉の奥がかすかにひっぱられた。

――私と代わってください。貴女。

どこかから紛れ込んだのだろう。風にでも乗って、細かい隙間から侵入したのだろう。よくあることだ。カッサンドラは込み上げる吐き気を堪えた。

「彼女」の金髪と見まごうような、光る筋を床になげだして、もう一度身体の手入れをする。腕や足や、首筋に、暗褐色の毛並みの下でじかに皮膚へ触れている金色を、また見つける。どれもこれも、カッサンドラを縛るように幾重にも頑丈に巻きついていた。ほぐしてもほぐしても体中から見つかる。
ひっそりとのたうつ、彼女の金髪。

暗褐色の瞳をぐるりと上へ裏返し、カッサンドラはもう一度意識を失った。痛みではなく、衝撃が体中を叩きつける。聞こえるはずがないのに、彼女の声が聞こえた。

――私と代わってください。
私は私でいたくないのです。




「カッサンドラ、カッサンドラ」
「や、いや!!」
「カッサンドラ!」

タンブルブルータスの頬に、爪あとが赤く線を引いていた。
カッサンドラは驚いて彼を見上げる。

「タンブルブルータス? その傷、どうしたの」
「カッサンドラ、気付いたのか?!」

口を開いた猫の皮膚がひきつれて、たらりと血が玉を作る。

見渡すと、ねぐらのなかが普段より暗い気がした。
いつのまに時間が経ったのだろう。さっきまでは朝だったのに。

憔悴したタンブルブルータスの様子に、カッサンドラは自分がしでかしたことを想像してぞっとする。ふと手を見てみると、爪の間にタンブルブルータスの皮膚のかけらが詰まっている。

「あ……あぁ…」
「カッサンドラ、気付いたんだな。よかった!」

タンブルブルータスの精悍な顔だちに、ざっくり刻まれた赤い線。血が滲み出して、黒っぽい毛並みが赤黒く濡れた。

「ごめん、なさい。ごめんなさい」
「いいから。もう、いいから…っ」

背中に手をまわされて、カッサンドラは息の詰まるほど抱き寄せられた。
身体を振り回される感触も不愉快でなかった。彼の大きな手は、不器用にカッサンドラを包み込んだ。
肩口の硬い毛並みが、カッサンドラの鼻先をくすぐる。くしゃみが出そうになって、カッサンドラはふっと息を吹いた。

触れた場所から蕩けそうに心地よかった。
愛するひとは匂いまで芳しい。自分より熱い体温に身を任せて強張った体を解くと、心まで癒される。

「こんなに冷えて。かわいそうに」

辛そうに搾り出す声が、カッサンドラには涙がでるほど懐かしく聞こえた。子供のころ、彼より弱かった自分が熱を出すと、彼はいつも枕元から自分を励ましてくれた。生まれたときから離れたことはなかった。

「たんぶる…ぶるーたす」
暗褐色の体。自分と、鏡に映したようにそっくりな。

――私が、私でさえなかったなら。

「タンブルブルータス、息がくるしいよ。放して」
「カッサンドラ、本当に大丈夫なのか?」
「心配させて……ごめんなさい」

――そうしたらワタシは、ずっとトオくまでアルいていけるのに

アサのハジまるトコロをミたい
ジブンのアシでアルけたならば、ヨルのヲわりをミにイきたい

そこにナニもなくてもかまわない
ワタシはイきたい。ワタシが――

「放してよ。もう大丈夫だったら」

ワタシでさえなかったら

「いや―――っ!!」

絶叫が小さな猫の身体から溢れる。
全身をつっぱって悲鳴を上げ続けるカッサンドラを、もう一度タンブルブルータスは押さえた。

「違う。それは私の心じゃない! 私の願いじゃない!」
「カッサンドラッ」
「違う! 違う!!」
「おちついて。大丈夫。大丈夫だから」

ぐうっと細い首筋の奥が鳴る。
タンブルブルータスは彼女の口に迷わず指を差し入れて、彼女の舌を彼女の牙から守った。




もしも、私が私でなかったら。

夕日の中をふたりで歩く。タンブルブルータスはまっすぐに道を辿る。照り返す赤さのなかで、褐色の毛並みは黒々と影に沈む。
彼は振り返って鋭い目じりをほんの少し和ませた。濃く引かれた、目じりのアイライン。

額に浮かぶ白いサークレットが、晩秋に照らされて桃色に染まっていた。
自分と同じ額の刻印。同じ暗褐色の毛並み。

たとえこの町を出て、世界の果てを見ようとも決して逃れられない。
カッサンドラは自分の身体を見下ろす。誰も自分たちを知らない土地へ流れついても、自分からだけはけっして逃げられない。

暗褐色の体は、鏡に映したように弟と似ていた。

「きょうだいでさえ、なかったら」

――せめて、もう少しふたりがちがった見た目をしていたなら。
そうしたら、私はどうしただろう。誰も私たちを知らない遠い町へ、安息の地を求めて旅立つのだろうか。

ふたりきりでも息をつける場所へ。

カッサンドラの毛並みが、そのときふいに輝いた。
長い金髪が黄金色に靡いて、手足がつるりと白く剥ける。彼女の声が頭蓋骨の内側から響いた。

『デハ、ワタシとカわってあなた』

――ああ。だからあなたは、私を呼ぶのね。



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