タンブルブルータスを納得させるのに、カッサンドラは非常に手間を取られた。
正気づいたカッサンドラがいくら「大丈夫」と宥めても、彼はなかなか納得しなかった。
「何が大丈夫なんだ!!」
「タンブルブルータス、声が大きいよ」
「こんなに暴れて、わけのわからないことを口走っていたくせに、心配するなとか大丈夫だとか、それこそ冗談だろう?!」
「ごめんなさい」
「違う。謝ってほしいわけじゃない。どうしたのか話してほしいんだ。何があった? 何もなくてこんなことになるわけがないだろう」
「大丈夫だってばぁ」
「だから、何が大丈夫なんだ!!」
それでも、瞳を閉じれば若い猫はすぐに寝息を立てはじめた。疲れているのかもしれない。カッサンドラを押さえつけるために、とても体力をつかったようだったから。
いたましく思いながら、カッサンドラはそっとねぐらを抜け出した。地上へ昇ると、月のない夜空を背景に朽ちはじめた廃屋が圧し掛かる。
すべての鎧戸には、縦横無尽に長い板が張り渡されていた。板に頭まで食い込んだ釘は、雨に打たれて赤くさび付いていた。
カッサンドラは予感を胸に、普段は近寄ったこともない屋敷の周りを、ぐるりと歩き回った。物が壊れる鋭い音がして飛び上がると、屋敷のつくりに合わない粗末なドアが、口を開いていた。
風にふらふら開閉する扉へ、おずおずとカッサンドラは近づいた。背後に、音もせず忍び寄る気配を感じる。振り返ると、強い風も吹かないのに黒いドアが彼女へ迫っていた。
カッサンドラは膝をしたたかに打つほどのいきおいで、廃屋の中へ飛び込んだ。彼女のしっぽの先で、轟音を立ててドアが閉まる。挟まれた虫が二つに切断されて、頭と一列目の足だけが暫くさわさわ動いた。
カッサンドラは泣きながら台所を駆け抜けた。勝手口は、閉まったきり開く気配を見せない。なにより、まっぷたつにされそうでカッサンドラはもうそこへ近づく気力がなかった。
猫の目は暗闇を貫くはず。
それなのに、カッサンドラには、今いる場所がどういう造りなのかまったくわからなかった。
手探りで歩いていると、指先に触れた何かが逃げて行く。
固い手に、手首をつかまれるよりはましだ。今にも地中に引きずり込まれそうな気がする。闇から金の髪が伸びてきて、首筋にまきつくところばかりを想像して、カッサンドラは何度も息を詰まらせた。
カッサンドラは、後悔していた。けれど、逃げ道もみつからない。歩き回って探すしかない。歩き回ってもみつかるかどうか。
屋敷の外から見た、固く閉められた鎧戸と、その上に打ちつけられた板を思い出して、絶望に膝を折りたくなる。
猫の力ではとうてい動かすことができない、開く事の出来ない扉。逃げられない。
「タンブル…」
気取った顔ばかりするけれど、笑うと小ぶりな牙が可愛い。
「ブルータス」
大切なひとの顔を思い出すと、少しだけ体が温まる。カッサンドラはもう一度歩き出した。
手にふれた壁が動いて、新たな道が作られる。
「ここだ」
初めてきたはずなのに、初めてではない。
伝って歩いていた壁はドアに続いていた。カッサンドラに押し開けられた扉の、細いちょうつがいの隙間からあの匂いが漂う。
かび臭いような、腐臭のような、生き物の気配のない匂い。
カッサンドラは身体全体をつかって扉を押した。思ったより軽くて、小さな体は前のめりに転んでしまった。
すぐに飛び起きて部屋の中へ走る。上も下もわからない暗闇。
けれど、今度のドアは断頭台になる気はなかったようで、開いたまま動きを止めた。それが、保たれる静寂でわかった。
カッサンドラはほっと体の力をぬく。
首筋にざわざわと寒気が走って、体中から汗が噴出した。耳の奥へキィンと、警戒音が鳴る。本能が告げる。
彼女がいる。
空気がねっとりと重さを増した。
腐敗臭がいっそう濃くなり、それより濃厚に立ち上るのは血の匂い。
闇の中から身体を四方にひっぱられる気がして、カッサンドラは自分の腕を抱かずにいられなかった。
懐かしい顔を思い浮かべようとして、奥歯ががちがちかみ合うのに邪魔される。
助けて。
いえ、私はここへ、彼女に会いにきたはず。
「どこにいるの」
――ノゾみは
「いるんでしょう。私、貴女に話があるの…」
――きっとカナう
旋風がカッサンドラの身体を巻き上げた。
悲鳴を上げると、カッサンドラはまたそこで目覚めた。
優しい草原が一面に広がっている。地平線まで、見渡せるほどの平野。
見たことのない花が、青い草の陰から恥ずかしそうに顔を覗かせていた。
芳しい香り。
「どうした?」
突然飛び起きた彼女を心配する、優しい声。額に白い輪冠を戴いた精悍な雄猫の、輪郭の鋭さに似合わぬ柔らかい声だった。
彼からいつもの皮相な表情が消えて、やすらかな微笑みに目じりを下げている。
「どうもしないよ、タンブルブルータス」
彼女は答えて、恋猫の胸に飛び込んだ。
ごろごろ喉を鳴らしながら頭をこすりつけると、大きな手が強く撫でてくれる。気持のよさにうっとり顔を上げると、顔を丁寧に舐めてくれる。
くすくすと笑いを零しながら、彼女は悪戯に彼を振り切り、改めて抱きつく。ふたりきりしかいないのに、折り重なるようにして互いを胸に抱き合うと、触れ合った場所から溶けそうに気持ちがよかった。
「……」
彼が、彼女の名前を呼んだ。
「何?」
彼の褐色の瞳を見上げる。そこには、見覚えのない白い顔をした金髪の女が映っていた。
――ネガイは
――きっとカナう
「そうじゃないこともある」
カッサンドラは、濡れた暗褐色の睫を上げた。
悲しい暗闇が全身をつつみこんで、窒息しそうだった。
「私の願いは、叶わない。叶っちゃいけない願いだから」
彼女の怒った声がカッサンドラの中を暴れまわる。割れそうな頭痛と闘いながら、カッサンドラは強くタンブルブルータスの顔を思い描いた。
幼いとき、彼はなんども病身の姉を見舞ってくれた。彼を裏切ることなんてできない。
「自分以外になりたいなんて、無理だよ。誰もそんなこと望んでない」
彼はいつか言った。
一生をすれ違うより、同じ産床を分け合うことがどれだけ尊いか、と。求めてここに生まれたと。
本当にそうだ。
一番近くに生まれたいと願ったのは私だった。きっとそうだ。
今も決して、不幸ではない。
「傍にいたい。それが一番の願いだから、それ以外はすべて諦めてもいい。一番大切な願いは、もう叶っていたんだから」
彼女の怒りが温度を持ってカッサンドラの肌を炙った。
恐怖にも譲れないものがある。
「私は、あなたに私をあげられない。それを伝えにきたの」
何が起こったのかカッサンドラにはわからなかった。
大きなトラックがすぐ傍を通りすぎたように、地面がぐらりと揺れて、カッサンドラはたたらを踏んだ。
固くて温かくて柔らかい旋毛風にまた身体を攫われたと思ったら、聞き覚えのある声が耳元で息を荒くしていた。
額に、ぽとんと水滴が落ちる。つうと鼻筋を通って、唇にしょっぱい味がした。
「タンブルブルータス? なんでここにいるの」
「心配だから、ついてきたんだ!」
タンブルブルータスは、震えていた。
臆病なカッサンドラならともかく、マキャヴィティにすら牙を剥くタンブルブルータスが、おびえてるなんて。
カッサンドラは彼を撫でて宥めようとして気付いた。
彼の白い額が、闇の中くっきりと鮮やかだった。廃屋の小さな部屋に、小花模様の壁紙はぼんやり浮かび上がっている。
歪んだ板戸のわずかな隙間から、外気と光が差し込んでいた。今まで、自分の鼻先も見えない暗闇だったのに。がちりと音が鳴る。
カッサンドラはタンブルブルータスを突き飛ばし、つい先ほどまで彼女が佇んでいた場所にふかぶか突き刺さった銀のナイフを両手で掴んだ。きつく食い込んだナイフに苦闘する彼女の傍に、猫と同じくらいの大きさの塊が、影を落としていたけれど、それを踏まないようにカッサンドラは片足で飛び上がる。
「カッサンドラ!!」
彼女を止めようと、タンブルブルータスは悲鳴を上げた。
「こないで」
カッサンドラは汚れたカーペットから引き抜いたナイフの、刃先を首筋に当てるようにしてそれを体中で抱き込んだ。
タンブルブルータスは、先ほど落ちてくるナイフから彼女を守ったように、今度も迷わず彼女を捕まえて胸に抱きとめる。
カッサンドラは、黒いラインを引かれた眼を見開いた。がちり。
「危ないよ!! 私は刃物を持ってるんだから!」
「カッサンドラ、本当にすまない」
「え?」
「俺が、追い詰めたんだな。すまない」
がちり。
「違うよ。何言ってるの」
「約束する。もう、絶対にカッサンドラを怖がらせないから、嫌なことはくしゃみひとつしないって約束するから、だから頼むからもう自分を追い詰めないでくれないか」
そういう場合でないのに、カッサンドラは吹き出した。
「なに…言ってるの。くしゃみなんて、いくらでもしてよ…」
こんなに、呼吸するのさえ身をすくませるほどの罪悪感を、けれど捨てることはできない。
カッサンドラは笑った。今、確かに幸せだった。
「いいんだ。無理しないで。もう無茶は言わないから。一緒にいられるだけでいいから。他のことはもう、いいから」
「私もだよ。私だってそうだよ。タンブルブルータスのせいじゃないよ」
「すまない。怖がらせて」
「違うって! 話を聞いてよ」
がちり。がちり。
音に気付いて振り返ろうとしたタンブルブルータスの頬を掌で押さえて、カッサンドラは言った。
「違う。これは、私の責任なの。私のせいで。だから……」
「カッサンドラ、もう苦しまないでほしい」
「大丈夫。私は大丈夫」
カッサンドラは弟を胸に抱いて守った。
夜明けが近づき、陰鬱な部屋にも朝日の予兆が曙色を添える。
ほの赤い光に照らされて、ナイフが開けた細い穴のとなりに横たわっているのは、猫ほどの大きさの抱き人形だった。
――ナイフと一緒に、落ちてきたんだ。
ドレスの裾が傍にあったペーパーナイフを巻き込んで、一緒に落ちたのだろう。
暖炉の上には、彼女のものらしい小さな椅子が置かれていた。おそらく、ナイフもそこに無造作に置かれていた。
古い人形の埃にまみれた金髪からは、すでに艶が失せている。がちり。
横たえるとまぶたを閉じるこの人形は、もとはニンゲンに愛玩されたものだったろう。鼠にかじられたのか、欠けた鼻が哀れだった。廃屋に置きざられ捨てられた人形は、なすすべもなく恨めしげに中空を睨んで瞳を開いている。
『ネガいは』
『きっとカナう』
『ワタシは』
『ワタシでイたくないのです』
『ドコまでもアルいてイけたなら』
『ミつけたい』
『アサのハジまるトコロ』
――叶わない願いもあるんだよ。
ワタシとカわってよ
がちりとまばたく人形の、美しいスカイブルーの眼球が、ナイフとカッサンドラをさがして眼窩の中をぐるぐる回る。それを見つめながら、カッサンドラはタンブルブルータスを守って喉元まで競りあがる悲鳴を、なんとか押さえつけていた。
『夢見る』3
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