爪先が地面から離れる。
重さなどないように、ふわりと小さな身体が舞い上がり、細い顎が怖そうに下を向く。影が、丸く地面に落ちている。彼女の影。今は足から離れて、あんなに丸く、小さい。

「マンゴ?!」

ランペルティーザは呼んだ。

「マンゴ、どうしたの」

世界が回った。白い花が鮮やかに尾を引きながら、目線の端を流れて行く。マンゴジェリーがかかとでくるりと回ると、彼に腰を取られたランペルティーザの足も、回転方向とは逆に傾いた。ランペルティーザは空中で首をすくめている。自分が持ち上げるより、もっとずっと高いところを、彼女は歩んできたはずなのに。彼女の褪せたような黄色をした不ぞろいな毛並みが、頬にばさばさ降りかかり、彼女は同じ色をした睫を、まぶたに巻き込むほどぎゅっと目を閉じた。

雌猫たちの後姿が遠ざかり小さくなっていく。遠くまで続く小道を狭めるように、迫り出した灰色の建物、その前庭に植えられた、真っ白い夏の花。
くらくらするほど太陽が照り付けて、影は濃いままランペルティーザと一緒に動いた。やせぎすのマンゴジェリーの、膝に彼女の影が落ちるのを、ランペルティーザは見てああ、と声を漏らす。

一回転したマンゴジェリーは、両手で高く掲げたランペルティーザを、子供をあやすようにふらふらと揺らした。ランペルティーザは怒って膝を曲げた。

「ちょっとぉ! 何してるのよ」

力の抜けた声でマンゴジェリーは笑う。頭蓋骨に反響する自分の声はいつもどおりにざらりと荒いけれど、疾走したとき胸へ脈動を感じるのと同じほど確かに、
「あのな」
発する声音の底へ、温かいものが通っているのを自覚する。
「あのな、ランプ。聞きたいんだけど、お前、「マキャヴィティ」になるって、具体的にどうするつもり?」

片方の爪先で、空中を探っているランペルティーザを地面に下ろしてやると、小柄な彼女はぱっと弾んでマンゴジェリーから離れた。もう子供みたいに持ち上げられてはたまらないと、難しそうな彼女の顔には書いてあった。

「どうって、大物になんの!」
「だから、そうなる具体的方法は?
彼みたいに、手当たり次第何かを殺す?」
「まっさか! 何言ってんの、マンゴ!! 本気?」
「いや、一つの方法としてね……」
「じょーだんっじゃない……誰かを無駄に傷つけることなんて、あたししない」
「じゃあ、どうするんだ」

真剣な表情を作ってランペルティーザを見つめた。いつもわざと裏返している声を急に低めて、相棒の雌猫を驚かせる。俺は彼女へ、どうするんだと聞いた。一体どうしたいんだ、貴女は。

「あのね、マンゴ、あたしたちの得意なことは何?」
「何って、……盗み」
「そう。だから、ふたりの特技を生かして盗みで大物になんの」
「つまり、これからは高価で希少で、この世にひとつしかないようなものしか盗まないってわけか?」
「そうよ」

ランペルティーザは小さな胸を張る。小鼻をひくひくうごかすので、頬の柔らかい可愛い顔が、すっかり変な顔になっていた。

「じゃあ、ガスの…」
「ガスのものはだめよ! ジェリーロラムがめちゃくちゃ怒るから。マンゴだってジェリーを怒らせるのがどれくらい怖いか分ってるでしょ。だってあんた、まだ彼女に許してもらってないもんね」
「う…」

猫がこよなく愛する満月みたいに、白くて円満なジェリーロラムの顔が、赤毛の雄猫を見かけた途端冴え冴えと凍る。ここしばらくずっとそうだ。彼女の取り付くしまのない横顔を思い出して、マンゴジェリーの鋼の心臓は、さび付いたドア並みにぎりぎり軋んだ。

「それもこれも、マンゴが勝手にジェリーの大切なガスのものを! よりによって盗むから!! だから、あんたの相棒のあたしまで大変だったんだからね。まあ、あたしはもう許してもらったけど、マンゴはいつ許してもらえるかなー」
「じゃあ、……オールデュトロノミーの」
「あんなおじいちゃんから物を盗むなんて、本気じゃないよね?」
「……じゃあ、バストファジョーンズのお屋敷なら」
「ええー。もう、何度も盗んだから、もういいよ。そんなにひとりからばっかり盗ったら、やっぱダメっていうか……」
「ええーと、つまりお前は、大物になりたいけど殺しとか恐喝とか本当にダークな悪い事はしたくなくて、しかも盗むのも相手を見て、盗んでも誰もがあんまりダメージを受けない方法を考えようと、そういうこと?」
「うん!」

焼きたてのパンみたいにつやつやした顔が、マンゴジェリーに向かってふかりと微笑んでいる。マンゴジェリーは、言わずにいられなかった。

「俺の思い違いでなければ、それって今までとどう違うわけ?」



ゴミ捨て場はしっとりと湿っていた。午前の大気に、折り重なったゴミから水分は飛ばされていたけれど、均されていない地面に堪った雨はそこかしこに水面を開いていた。

「きゃっ」

水溜りの縁が猫の足の下で崩れたとき、淡い色をした雌猫は可憐な悲鳴を上げた。彼女の黄色い毛並みが汚れる前に、赤毛の雄猫が彼女の腕を掴み、背中を抱き寄せる。

「大丈夫?」
「ええ……ああ、びっくりした。ありがとう、マンゴジェリー」

ジェリーロラムの鈴を振ったような声が礼を言う。彼女は安心のあまり、困った顔をしている。茶色い水溜りを振り返って、ふーっと吐息を吐き出した。
マンゴジェリーは彼女が転ぶのを助けてやったのだが、ある期待を込めて彼女の手を取った。

「どういたしまして」

これ以上ないほど、口角を横へ伸ばして、にっかり笑う。もともと大きめの口が、豪快に広がると顔の半分も占めるようだった。「あけっぴろげな笑顔」に強張っている雄猫を、ジェリーロラムはしばらくじっと見つめていた。

「それじゃあね」

完璧な作り笑顔を一瞬浮かべ、やわらかい言葉一つを投げつけて、ジェリーロラムは雄猫の身体を押しやった。マンゴジェリーと目線を外したとたんに、彼女の頬はすっと鋭くなった。気のせいではなかった。

ひとり残されたマンゴジェリーは、大きく広がる水溜りの前で、ぼうっと立ち尽くす。

『どうしたらいいか、教えてあげようか』

ランペルティーザの、高い声が頭の中で響いた。鈴の音に例えるには、大きすぎて元気のよすぎる声。

『ジェリーロラムより、ガスに気に入られればいいんだよ』

彼女は、大きな目をくるくる動かしながら表情豊かに説明する。彼女の、幼い計略を。

『マンゴはさ、ガスの劇に「その他大勢」でも協力してないでしょ』

――馬鹿いうな。
マンゴジェリーは目線を上に逃がした。岩みたいに固くて責任感重大なマンカストラップや、芝居狂いのギルバートと違って、俺は内気なんだよ。

舞台に立とうなんて、世界がさかさまになっても考えられない。むしろ、風の性質を持つランパスキャットが、なぜ彼らのうちに加わるのか、不思議に思ってさえいたのだ。

『もし、マンゴが、今度やるガスの劇に出してくださいってお願いして、一生懸命にやったら、きっとジェリーロラムはマンゴを見直すと思うな。
それ以外に、マンゴが彼女に許される方法って、あたしは思いつかない』

別に、気にしない。誰に何を思われようと、痛む心はない。そんなナイーブな時期は過ぎた。

『ジェリーって、誰にでも親切だしいいひとだよね。そんなひとに、ひとりだけ嫌われたら、自分のあんまりな不出来さにきっとむきーってなっちゃう。ね?』

――誰に、どう思われようとかまわない。
生きてさえいければいい。それ以外のことは、どれほども譲歩できる。あらゆるものを自分から切り離して生きてきた。

誰も自分を知るもののいない街で、生きることのみを目的として生きてきた。清潔でありたかった。何も所有したくはなかった。自分以外の猫が、所有することを嘲った。
彼女に出会う前。

『うそ! 嫌われたら辛いし、好かれたら嬉しいよ。それがとてもいいひとだったなら、余計にそう。
それともマンゴ、本当に、ジェリーロラムに嫌われてもあんたは気にならない?』

ふわふわした毛並みにふちどられた顔が、不安そうに曇った。
マンゴジェリーは、大切な相棒に心の中で告白する。

「すごく、気になるよ」

マンゴジェリーがより目になって見上げる空は、ミルクの入ったコップを底から見上げたように、平らに曇っていた。雲の亀裂に青空が覗く。切れたはずの雨雲から、細い陽光と共に昨日のなごりの一滴が、右目の中へぽとりと落ちこんだ。



「ぐええええ」
「なあに、その耳によくない悲鳴は」

マンゴジェリーは、荒い麻布のズボンを手に持って、苦しそうに息継ぎした。

「だって、これすごく不愉快なんだけど。こんなの、昔の猫は本当に着ていたのか?」
「……着てないでしょうね」
「だったらなんで」
「舞台効果のためよ。そういうものを穿いていれば、ひと目でどっち側かわかるでしょう。グロールタイガー側か、それともシャムネコ軍団側か」

うんざり顔のマンゴジェリーの両手に、さらに重そうなブリキの鎧が載せられる。

「で、これを着けたならばあなたもシャムネコ軍団に早代わり、というわけ」
「こんな重いの肩に乗っけていたら、スピードが削がれるとは思わないのかねー」
「猫の武器は、速さだけじゃないのでしょうね」

くすくすと声を漏らすジェリーロラムの前で、赤毛の雄猫は一そろいの鎧を意地でも片手に抱えこんだ。
マンゴジェリーの一番のとりえは、その俊足であることを誰もが知っている。

「頑張って」

ジェリーロラムは、心からの激励で赤猫の背中を押した。マンゴジェリーは金色の肩当に指を当てて、金属の感触を確かめた。思ったより、案外軽かった。

「台詞のないのが、唯一の救いだな」
「ど素人に、そこまでさせないわ」

だったらシャムネコ軍団のひとりにでもして、舞台のはじっこにつっ立たせてくれよ。そうは思っても、マンゴジェリーは決して言わなかった。ガスの好意だ。文句をいえば、ジェリーロラムの顔を曇らせる。

「貴方の役は、グロールタイガーのクリューのひとりで、ソロはないけどばっちり顔も見えるから、やりがいあるわよ」
「……う」
「緊張してきちゃった?」

からかう響きが声に混じって、ジェリーロラムは金の目を細める。
彼女は、まだマンゴジェリーを許していない。この舞台を成功させるまでは、彼女の心が溶けることはないだろう。




「あら、マンゴ。その格好で舞台へ?」
「そ、そうだけど」

リハーサル用に着付けた衣装を、上から下までねめつけられ、マンゴジェリーは長身を竦ませる。ジェリーロラムは純白に着飾った豪奢な姿で、ぼろをまとった海賊を指差した。

「素敵。そのバンダナのアレンジも、とても個性的ね。
結び目が額にくるなんて、女の子みたいで可愛いわ」

おほほほほほほと高らかに笑いの尾をひきながら、白いしっぽを手に取って彼女は舞台へ昇っていった。

――またやられた。

マンゴジェリーは、頭に巻きつけた布を毟り取ると端の擦り切れたそれを床にたたきつけた。ジェリーロラムに衣装を手渡され、他のクリューメンバーと隔離されるようにわざわざ個室に押し込められたのは、こういう意図があったのか。

――確かに俺は、服の着方なんていっこもわかりませんよ!

大女優は、赤毛の大部屋俳優だけを間断なくいびった。

集合時間が2時間遅らされたのを教えてもらえなかったり、そのぶん長くなった練習時間をもてあまし、サボっているところを発見されて冷笑されたり。

けれど、逆に練習時間が早まる場合には必ず連絡が来たし、マンゴの無知ゆえの着付けの不備も、満座の前で指摘するのではなく、こうして舞台裏でふたりきりの時にこっそり教えてくれて……ということは、だ。彼女は、マンゴジェリーが間違った格好で楽屋から出てくる事を確信し、華美な舞台衣装(とても暑い)のまま狭い舞台裏を苦痛に思いながらも根気強くじっと彼を待ちかまえていたということか。

「性格悪ぃ…」

温和な猫というのは、滅多に怒らないぶん得てして一度怒らせるとしつこいのだった。




舞台がはけて照明が落ちる。月光に照らされたガスの顔は、まるで洗われたようだった。
昔話の中にだけ存在するグロールタイガーを、今晩一夜だけ蘇らせた。アスパラガスはたしかに昔、名のある俳優だったのだろうと、彼女以外のすべての猫が、今日やっと信じた。
彼女はガスの隣から離れない。いつもの温和で穏やかな態度を保とうとして、目じりを零れる涙にそれを邪魔されていた。マンゴジェリーは舞台を降りて、やはりぼうっと立ち尽くす。

「楽しかったね」

いつのまにか、隣に金色の鎧をつけた少女が立っていた。金のかぶとを勇ましく小脇にかかえて、瞳は舞台の興奮にきらきら光っていた。

「うん」
「ガスも、すごく格好よかったね」
「ああ」
「ジェリーロラムも、嬉しそう」

マンゴジェリーのわき腹にかぶとを押し付けながら、ランペルティーザは目で合図する。
やったじゃん、と言われているようで、マンゴジェリーは腰を捻って逃げた。

「マンゴも、頑張ったよね。きっと、ジェリーロラムもあんたを見直したと思うな」
「うん。さっき、お礼言われた」
「え、本当」
「うん。ありがとうって、涙浮かべて。あ、みんなも一緒の時にな」

やさしげな面差しが一変していた。舞台を終えた俳優たちの熱気と興奮に当てられて、彼女は頬を桜色に染め上げていた。月に照らされた淡い色の毛並みが、ぼんやり光っていた。
やはり、彼女は満月にそっくりだった。

「俺、よかったよ。ジェリーロラムに許してもらえて」

すとんと言葉が口から落ちた。意外なほど素直に。マンゴジェリーは、表情に表せないほどびっくりしていた。ランペルティーザはもうすこし冷静で、ちゃんと感情と表情をリンクさせた。
大きな目をもっと大きく見開いて、勢い込んで頷く。

「うん! うん、そうだよ。仲直りできてよかったよ。よかったぁ。嬉しい」
「なんで、お前が」
「だって、ジェリーは誰にでも優しいから、そのジェリーに冷たくされるのは、本当に辛いことだから。だから、私は本当に、グリザベラのことも可哀そうだと思っていたんだよ。ジェリーは、彼女にだけは容赦なかった。グリザベラは、もう幸せな世界へ行ってしまったけれど……でも、マンゴは……
よかった。マンゴがジェリーロラムと仲直りして、本当によかった」

赤毛の猫は、長身の身体を丸めて下を向いた。口を開こうとして、止める。

――俺は、今まで諦められるものは全部あきらめてきたんだよ。

それが、生きて行くための手段だった。笑わなければ腹も減らない。
諦めれば、必要最低限で生きていける。

そうやって自分のなかの欲望を切り離していって、ある日気付く。欲しいものをなくして、生存欲だけを抱えていられるほど、心は都合よくできてない。欲しいものがないのなら、命だってやっぱり欲しくない。生きることだけを目的にしたら、どうして生きるのかわからなくなる。

心の痛みを否定したら、進む方向を見失う。

「俺は、お前といると生き返る気がする」
心が、息を吹き返す。捨てたはずの欲望が、野心となって燃え上がる。
大物になろう。
王様になろう。宮殿を建てて宝物でそこを満たそう。すべてを手に入れたい。
心優しい雌猫には、一匹も残らず、好かれたい。

「あたしは、あんたがいたから助かったんだよ」
「俺が? お前を助けたことなんて、一度も」
「あるんだよ。あんたが知らないだけ。でも、あたしもあんたに教えてあげることがあるね。それが、嬉しい」
「なあ、ランプ」

すべてを手に入れよう。あきらめることなく、この世のすべてを望み続ける。
擦り切れた大人の男に、それを教えた子虎のランペルティーザは、次の言葉を待ってぱたりと耳をそばだてた。

「何?」

マンゴジェリーは、勇敢で小さな相棒に告白する。

「ジェリーロラムって、すっげえ怖いのな!」



『彼女』
2007.08.29