泥だらけの赤猫を、マンカストラップは見下ろした。
赤猫は馬鹿にしたように口元をゆがめる。毛並みの中にまで泥が入り込んで、身動きするとじゃりじゃり音を立てた。地面に押し付けられているのだから、当然だった。
「懲りねえやつだな、あんたも」
マンゴジェリーのざらりとした声は、仲間として彼を慈しむマンカストラップの、神経を逆なでる。
「それは俺の台詞だ」
「いいかげん飽きろよ!」
マンカストラップは、少年の赤毛を掴み取ると水溜りの中へ彼の頭を押さえつけた。泥水の中から、罵倒が茶色の水しぶきとともに噴出す。
「何度言わせればわかるんだ。お前がすることは、群に跳ね返る。ニンゲンを挑発するような真似はするなと言うんだ」
「知らねーよ」
「ニンゲンのものを奪うのはよせ。そんなことをしなくても」
「捨てられたものを漁って、やつらのお情けにすがれっていうのか」
マンカストラップはふてぶてしく宣言した。
「そうだ」
マンゴジェリーが猛烈に抵抗したので、彼を押さえつける猫たちは全力で彼を制圧しなければならなかった。マンカストラップの白銀の足に、マンゴジェリーが跳ね上げた泥水が掛かって毛色を汚した。4匹もの雄猫に乗りかかられて、マンゴジェリーは完全に押しつぶされたが、折れそうな身体をそれでも必死で動かそうとする。
「くそマンクッ」
深くため息を吐き出すと、マンカストラップは眉間に指を当てた。
「もういい。離してやれ」
いつまでも押さえつけておくわけにもいかない。そんなことをしたら猫は狂ってしまう。腹中を泥水に浸したマンゴジェリーは、猛然と立ち上がると若きリーダー猫へ殴りかかった。
「ちくしょう!!」
ぎらりと切り口を開いた、空き缶を蹴り上げる。重いので、いくらも飛ばず、気晴らしにもならなかった。赤毛猫の痩せた顔には、マンカストラップがつけた青あざがべったり張り付いている。マンカストラップは、痩身の彼とは桁違いに逞しい。
「馬鹿にしやがって、畜生」
悔しさに歯軋りしながら、マンゴジェリーはゴミのなかに突っ伏した。脳裏に、端正に整った若い雄猫の顔が、何度消し去っても浮かび上がる。黒と銀の縞模様でさえ、今は恨めしい。
「俺が餓鬼だからって、どうしてあんな奇麗事ばっかりの腑抜け野郎に馬鹿にされなきゃならねーんだ」
間抜け、阿呆、自分だって、若造のくせに! あいつの悪口ならいくらでも思い浮かぶ。堅物、偽善者、事なかれ主義、……純血種の飼われ猫。
そして、親のない猫たちにとって、長老に次ぐ二番目の庇護者。
「だいっきらいだ、あんな奴」
いつかここを見返してやる。
災禍をまきちらす、邪悪な存在になってやる。大きな存在に。片手で押さえつけられる、取るに足りない存在じゃなくて。
「いつか……」
きっと。
「泥棒になるのが、本当にお前の望みなのか」
「ああ。死ぬほどこすっからいこそ泥になってみせるから、せいぜい自分の教育の悪さを噛み締めてろよ」
マンゴジェリーは、そういい捨てて町を後にした。
さまざまな挫折を味わった。冬の寒さ、夏の過酷な暑さ。
群から逸れた個体への、容赦のない断罪。
あるいは克服し、あるいは逃げた。逃げる事ができるとわかったのが、最大の経験だった。これだけは譲れないと思っていた、自分のなかの矜持が、ひとつひとつのささいな出来事に磨耗して行く。
―――いつか。
そう心に刻んだ日が何時だったかさえ、うつろになるころ、ふらりと故郷へ立ち寄った。そこに、彼女をみつけた。
「誰?!」
店主の目が光る店頭から、小さな彼女がまんまと銀色の魚を盗み出したときから、マンゴジェリーは愉快でたまらなかった。泥棒と叫ばれて、魚臭いバケツの水をぶちまけられても、彼女はひるまなかった。そして、ひとりきりになって初めて、ずぶ濡れた自分の毛並みを嘆いた。
それまで、獲物から一瞬も牙を外さなかった。
「なによ、偉そうに」
魚が、芝生の上でぬるりと光っている。見咎められて断罪されると思い込み、彼女はふくふく丸い顔を、くしゃりと泣き顔に歪ませた。
「あんたもあたしを叱ろうっていうんでしょう」
いつかの自分を見るようで、マンゴジェリーは内心片腹痛かった。彼女は、自分と似ているけれどもそれと同時に、自分よりずっと純粋で可愛らしい。
生きた獲物を見せると、彼女はしりごみする。気のせいかとも思っていたけれど、マンゴジェリーはある日告白された。
「命だけは、あたし、盗めない」
だから命を失った肉や、宝石を狩るのだと、彼女は言った。面白いとマンゴジェリーは思った。面白い。そのこだわりが、いつまで続くか見てみたい。
彼女の矜持は、あっけなく突き崩された。
「食べて」
彼女の手から渡された獲物は、死んだネズミは、彼女自身が手にかけたものだった。
傷ついた足をかばいながら、マンゴジェリーはまぶしいものを見るように彼女を見上げた。大切な仕事仲間を。ランペルティーザを。
「マンゴジェリー? まあ、悪くはないひとだけど」
くすりと妖艶な雌猫が微笑む。
「でも、彼って軽い」
傲然と言い放った雌猫に頭から突進しようとして、ランペルティーザは噂のされ主であるマンゴジェリーに止められた。
「放せ!! マンゴ、何すんのよ、放してよ!」
「放さない。だって、お前放したら、喧嘩しそうだし」
「そうよ、喧嘩するのよ! 邪魔しないでくれる?」
「暴力反たぃい〜!」
大柄な雄猫が、まだ仔猫と言いたいような幼い少女を羽交い絞めにして、さんざん叩かれたり脛を蹴られたりしている。ランペルティーザは小さな身体を、完全に持ち上げられても闘志を捨てなかった。
ふたりでばたばたしている間に、涼しい顔をして雌猫たちは去って行った。マンゴジェリーの悪口を言っていた雌猫は、去り際にマンゴジェリーの目を見つめて、そしてあきらかに口角を吊り上げた。
しかたがない。性悪なのが、雌猫たちの最大の魅力だ。
マンゴジェリーは鼻の下を伸ばしていたが、ランペルティーザは果敢に怒っていた。
「マンゴ、悔しくないの?!」
「そういう時期は、とっくに過ぎ去ったというか……」
「なんで?! あのこ、よくあんたと踊ってるじゃん! それなのにあんなこと言うなんて、どういうことよ。そんなにマンゴジェリーが情けないなら、口も利かなきゃいいじゃない。
悪口は言うけど都合のいいときだけ仲良くするなんて、そういうの一番許せない!!」
「お前、落ち着けって」
そういう駆け引きなのだ。
馬鹿にしながら、征服されるのを楽しむ。
まだ、ランペルティーザには早いそういうもろもろの事情を、どう説明したらいいのか、マンゴジェリーはとまどう。というか、説明してみても到底理解してくれるとは思えない。
「なによ! あたしたちが小物とか言ってたよ、あのこ!! く〜や〜しぃい!!」
「気にするな」
としか宥めようがなくて、マンゴジェリーは心底困っていた。
鋼の心臓は、いまさら誰に何を言われようと、どんな言葉も深くは突き刺さってこない。けれど、相棒のやわらかな心には毒気が強すぎたようだ。
「ねえ! 泥棒が小物だっていうのなら、どんなことをしたら大物になれる?」
「……お前、それ、本気じゃないよな」
「どうして?! あたし本気だよ」
「ねずみ一匹殺すのだって嫌だっていうお前が? 無理だ」
「そんなことない」
ランペルティーザは、ふいに抵抗をやめた。あまりに突然だったので、マンゴジェリーは強く彼女の腕をつかみすぎてしまった。相棒を痛めたんじゃないかと、マンゴジェリーは慌てて彼女を自由にした。
彼女は、彼が心配したように雌猫たちのあとを追いかけてはいかなかった。
ランペルティーザは、まっすぐマンゴジェリーを見つめて、瞬きもしない。
「無理じゃないよ。あたしは、マンゴとあたしのためならどんなことでもできる。それがこの前、マンゴがあたしのせいで怪我をしたとき分かったんだ」
「おいおい。第二のマキャヴィティにでも、なるつもりか?」
マンゴジェリーは、おどけて両手を広げる。大きな体が、ランペルティーザの目の上に黒い影を落す。
「なれるよ」
ランペルティーザの目は、いやに透明だった。
「あたしは、あたしたちのこと馬鹿にするやつなんて許さない。マンゴのこと馬鹿にさせないためなら、マキャヴィティにでもなんにでもなるよ」
―――いつか。
「ふたりならなんでもできる。あんたは、そう思わないの?」
―――いつか。
町に帰って、災厄の源となる。
誰もが恐れる、大きな存在になる。認めさせてやる。いつか。
いつの日か。
「マンゴ?!」
ランペルティーザはいきなり身体を空に放り投げられた。
「マンゴ、どうしたの」
相棒を頭上に捧げて、マンゴジェリーはくるりと回ってみせた。それは、挙動に困った彼が、なんとか格好をつけようとつけたした動作だった。ランペルティーザにはわかった。
込み上げる思いを耐え切れなくて彼女を抱き上げたあと、マンゴジェリーはどうしていいのかわからなくて、それで子供を大人が振り回すようにランペルティーザの身体を揺らした。
マンゴジェリーは笑ったけれど、ランペルティーザは悲鳴を上げる。
「マンゴ!」
銀の鍵盤を並べた楽器を、かき鳴らしたように高い声が、心配そうに大切そうに名前を呼ぶ。
マンゴジェリーは、微笑まずにいられない。
―――いつか。いつの日か。
自分は「マキャヴィティ」になる。
そして故郷に戻ろう。
それまでは、決して戻らない。どんなことがあろうと、あの懐かしい土を踏む事はない。
それが、幼いマンゴジェリーの立てた密かな誓いだった。
今となっては、到底できないことだった。
これほどに大切な相手がいたのでは、おちおち犯罪王になど、なっていられるわけがなかった。
『もう来ないあの日』