G.T先生の作品に着想を得ました。
まっすぐ背筋を伸ばしたギルバートは、音を立てて息を吐き出しながら、地面ぎりぎりまで腰を落した。片膝を曲げて体勢を落しながら、もう片足は地面を撫でつつ遠くへ伸ばす。足裏は地面につけたままだったので、足首が90度近く曲がる。柔軟さがなければできないことだった。
そのまま、腰の高さを変えずに、足の体勢を入れ替える。両手は、腰のあたりで上向けた拳を軽く握るだけで、上体の力をいっさい使わず、足の筋力のみを駆使して動く。その間も、足裏の肉球は、少しも見せない。そのまま、滑らかにいくつかの動きを浚う。いつしか握っていた両手が開いた。掌が空を押し、あるいは切り裂く。ゆったりと静かな動きなのに、ギルバートの動いた軌跡が残像となって目に焼きつく。
ギルバートは慣れたもので、涼しい顔を崩さなかった。
地を這う蛇のような、ゆっくりしたしぐさは、東洋に伝わる踊りのようにも見えた。腹のそこからギルバートの吐き出す呼気が、強く響いてさえいなければ。
ギルバートの額を、薄く汗が濡らすころ、彼は無造作に立ち上がる。
彼は真っ直ぐ首を伸ばして遠くを見つめると、ふいに宙へ向かって拳を突き出した。強く一歩踏み込む。拳をねじ込み、移動しながら、ギルバートは腿を高く引き上げると、膝の位置を保ったまま踵で蹴り上げた。鋭い音が、鳴り響く。
突き出す拳と共に汗が雫となって飛び散るころ、ギルバートはふいに動きを止めた。
「いつまでそこにいるつもりだ」
ギルバートの黒い大きな瞳で詰問されると、背の高い細身の猫は、のっそりと身動きした。
「別に。お前が俺の前で、勝手にお遊戯を始めただけだ」
タガーの言葉に、ギルバートはついと顎を上げた。表情は変わらなかったので、それはとても不愉快そうなしぐさに見えた。
「俺はお前が嫌いだ」
ギルバートは全身を日差しに晒して、まっすぐ立っている。ギルバートに見下ろされながら、タガーは嘯いた。
「俺はお前が好きだぜ」
ギルバートの頬が、ぴくりと動いた。威嚇しあう猫たちの間で、空気さえ凝縮されて重くなるようだった。ギルバートは、ふいに声の調子を変える。
「ただ、見ているだけではつまらないだろう? お前も動けばどうだ」
「俺が? やだね」
「それならそこを退け。目障りだ」
「お前こそ、煩せえ。もっと静かにしろ」
ギルバートとタガーは、しばらくにらみ合った。
ギルバートは真顔で、タガーのいつもの薄笑いを見つめていた。三毛猫は、銀のナイフを拾うと、切っ先をタガーの鼻先に突きつける。
「ここにいるんなら、俺の相手をしろよ」
「やだっつってんだろ」
タガーは腹をさらして無防備に横たわる。金属の冷たい輝きが、彼の瞳に反射した。ギルバートは、刃を掴むと、銀色の分厚い持ち手を、ふてぶてしいタガーへ向けた。
「お前がこれを使っていい。俺は素手だ。それでも、やらないか?」
「面倒くさいからやなんだよ」
そうか。そう言うとギルバートは、銀のナイフを土に置いた。そのままゆらりと向きを変えると、タガーの上に上体から倒れこむ。
タガーがつい先ほどまで寝転んでいた地面に、こぶし大の穴が空いた。ギルバートは、指についた土を払いながら、もう一度立った。
「そうか。武器はいらないか。いい心がけだ」
「おま、俺はやだって断ってんだろ!」
「ひとりでやるのは退屈なんだ。いいからお前、つきあえ」
「ふざけんな!」
毛筋ほどの差でギルバートの攻撃を避けたタガーは、地面を横抱きにする形で、腰を抜かしていた。背中を土に預けて寝そべれば、ギルバートの空けた穴は丁度タガーの薄い腹のあたりに隠れる。
まともにくらっていれば、午前中に食べたものをすべて吐き出すくらいは効いただろう。
ギルバートが深く息を吸い込む。タガーのこめかみを汗が滴った。
タガーは一瞬で立ち直ると、一目散に逃げ出した。
「なんだ、あいつら」
額に揃えた四本の指の下で、コリコパットが目を細めながら呟く。彼が強い日差しに目を庇いながら見つめる彼方には、土煙を上げて転げまわる二匹の雄猫がいた。
「あれ、ギル?……とタガーか。いつものあれだろ」
黒猫がそっけなく言い捨てる。
漆黒の毛並みは美しいが、夏の日中、彼の機嫌は最悪だった。昨日も、タガーが捨てられていた眼鏡のレンズで陽光を集めて、黒猫の背中を焦がそうとしたばかりだ。
タガーがその後受けた報復を思い出すと、コリコパットは「俺、つっぱりじゃなくてよかった…」としみじみ思うのだった。つっぱりって色々生きにくい。
「ああー。あいつら本当、仲がいいよな」
クリーム色の毛並みを風にそよがせながら、少年猫は高い声で嘆息する。狭い額と細い頬には、汗ひとつ浮かんでいない。涼しげな佇まいを羨ましく見上げながら、ミストフェリーズは黒いしっぽをゆらした。
「本当に。タガーも、どうせかなわないんだから近寄らなければいいのに」
「ギルだろ? ギルが、タガーを相手にしなきゃいいんだよ。タガーに何を言われたって放っておけばいいんだ。あいつくそ真面目なくせに、どうしてたまにああいう悪ふざけをするんだろうなぁ」
「ギルは……真面目なくせに目立つのと騒ぐのが好きだからな」
「ああー……役者とかやっちゃうくらいだしなー…悪役とか、めちゃくちゃ楽しそうになり切ってるしな」
「…海賊討伐軍って悪役?」
「え? 一匹を寄ってたかってなぶり殺すんだよ? しかも一番危ない役目を、か弱い雌猫にやらせて手引きさせるんだぞ? 強い海賊と真正面からぶつかると勝てないかもしれないから、油断してるところを暗闇から襲い掛かるんだぞ?」
冷たい土に身を伏せて、二匹は夜に備えて体力を温存していた。ギルを止めてやろうとは、かけらも思わなかった。
「ああ!!殴れ!」
タガーは駄々っ子のように地面に手足を投げ出した。
「どうにでもしろ、もー俺は逆さにされようと裸にされようとも一歩も動かねえ!」
タガーの長めの金の毛並みが、汗で毛羽立っている。それを見て、ミストフェリーズは夏に自分より不幸な猫がいるのを知ったが、それで氷の心を動かされるわけもなかった。
「なんでここでするんだろうな」
コリコパットは、拳で目元をこすって顔の毛繕いをしながら呟いた。二匹が休む大木のすぐ側まで、タガーは逃げてくると突然そこで行き倒れたのだった。
ギルバートが、息を弾ませながら恐ろしいほどの無表情でタガーに近づく。汗が湯気となって陽炎のように立ち昇っている。彼の首筋は太く短く、肩には筋肉が盛り上がっていた。興奮に瞳孔が開いて、丸くぎらぎら光っている。
ごつごつした両膝を、タガーの側につくと、ギルバートは金色のタガーを覗き込んだ。煮えたぎったお湯のように熱い汗が、タガーの側に落ちて、みるみる蒸発する。
「どうした。何を休んでいる?」
その声はとても静かだった。
「お前の限界はこんなものじゃないだろう?」
ギルバートの厳しく鋭い黒い瞳に、あたたかな色が差す。
「お前は俺の見込んだ男だ。こんなことで挫けるはずはない」
ギルバートの目が、慈愛と言っていい表情を作った。
「俺が、できもしないヤツに無茶をいう男だとでも? お前にはできる。俺にはわかるんだ」
囁く声には力がこもり、そこにはタガーへの信頼が満ち溢れていた。
「お前は、おまえ自身の可能性に気づいていないだけなんだ…」
ギルバートの、野球チームの監督のようなぶ厚い掌が、恐怖でがくがく震えるタガーの頭を撫でた。そして彼は、あけっぴろげな笑顔でにっこりタガーへ微笑みかけたのだった。
「あれ…なんかの新興宗教?」
「わかんねえけど、すげー怖い」
コリコパットも、いつの間にか全身を膨らませてミストフェリーズの後に隠れた。ギルバートの厳しくも暖かい瞳は、一瞬たりとも逸れずにタガーを見つめ続ける。
「俺はお前のことをよくわかっている。お前は、お前自身が思うよりずっと真面目で、責任感の強い男だ。お前が本気を出せば、この程度のことはなんともないはずだ。どうだ。できるな?」
ふーっとふーっと荒い息をつき、全身から湯気を噴出しながら汗に塗れたギルバートの口許は、飽くまで静かな微笑を刻む。
タガーが震えると、彼は、ん?と小首を傾げた。そこだけ、仔猫のようにいとけないしぐさだった。
タガーが光の速さで立ち上がると、ばびゅんと一直線に駆けて行った。
「そうだ、それでいい。それでこそ俺の見込んだ男!」
ギルバートは身軽く彼を追いかけた。
タガーは止まったら殺されるというほどの必死ぶりだが、ギルバートは無表情ながらもどこか楽しそうだった。幼いころから一緒だったコリコパットとミストフェリーズには、それがわかる。
「あれ…さすがに誰か止めたほうがよくね?」
コリコパットは他力本願だった。
「……僕は嫌だよ」
ミストフェリーズは投げやりだった。
黒猫は、木陰に座り直すとすっと上体を伸ばした。真昼に月を乞うように、白い首筋を反らせる。目を閉じた彼の周りに、氷が凝って小さな粒をきらきら真夏の日差しに輝かせた。
「わ、涼しい! すげー、ミストってこんなこともできんの」
「いやー。この世に不可能ってないね」
タガーは方向感覚が壊れたようで、同じ場所をぐるぐる回っている。ギルバートはもはや楽しそうな様子を隠せない。
「はは、あはは……ハハハハ!」
運動でハイになったギルバートの笑い声に、喉元まで追い詰められながら、タガーは盲目に走り続ける。ギルバートはスキップしながら追いかける。右手と右足が両方一緒に出るスキップは、ぎくしゃくして動きに無理があるが、高さは異様にあった。びよーん、びよーんと弾みながら、三毛猫はタガーを追いかける。タガーとギルバートの二匹は、お互いまったく理解しあってはいなかったのだが、ジャンクヤードのなかでも指折りなくらいすごく仲良し二人組みだった。
『ふたりは仲良し』