「なぜ俺を嫌うの」

柔らかな物言いだったけれど、ヴィクトリアはびっくりした。思わず彼の前で足を止める。
あまりにびっくりしたので、艶やかな白い毛並みが少しだけ毛羽立った。
手で撫で付けながら、彼女はゆっくり否定した。

「いいえ。貴方を嫌ったことはありません」
「それじゃあ、どうして俺を避けるの」

黄色い猫は、丸みのある明るい声質をしていた。彼と向き合うヴィクトリアは、驚きのあまりに近い距離を許したまま、雄猫を見上げる。反らした彼女の細い顎が、黄色い雄猫の胸に埋もれるほど、黄色い猫は彼女に身を摺り寄せた。彼女を見下ろす彼の顔は、頬の細い優しげな輪郭に、鋭い瞳が光る。
少女のヴィクトリアと、おとな猫の彼とでは、まったく体格が違う。認めたくはなかったが、近づきすぎると彼の背丈に圧倒され、ヴィクトリアは息苦しさを覚える。
すれ違おうとした雄猫の顔を、じっと見つめてヴィクトリアは掠れたため息を漏らした。

「避ける…? 貴方の考えすぎじゃない? 私はこそこそ逃げ回ったことなんてないし、貴方を特別に思った事は、ないけれど?」
「ああ、それでだ」

柔らかで温かい毛色。黄色い雄猫が、悲しそうに目を眇めた。彼の毛並みは、声音の与える印象とそっくりだった。明るく、艶やか。

「それで、俺は君といると満たされなくて悲しくて、嫌われていると思い込んでしまうんだ。だって、君が俺を特別にしてくれないんだもの」
「嫌われたいの」

 ヴィクトリアの声が尖り始める。彼女の青い瞳に、雄猫の、白い部分の目立つ両目が迫った。

「違うよ。好きになって欲しいんだ」

黄色い猫は、くちづけるほど近づいて、歌うように告げた。意地っ張りなヴィクトリアは、逃げることも後ずさることもできない。
もし、匂いや何か、不躾なことがあれば鼻筋をひっかいてやろうと待ち受けていたけれど、黄色い猫は存在と同じに体臭も希薄だった。

「俺を君の特別にしてほしいの。どうしたらそうなる?
 君のためなら、何でもするよ」

情熱的な言葉に反して、ひらひら笑みを含んだ口調は、彼らの距離ほどにはヴィクトリアを追い詰めなかった。本気とは思えない。

「そうね」

怒りを逸らされたので、ヴィクトリアは視線も外した。

「そうね…たとえば、私がタガーを好きなのはね、」

なぜ彼を特別にできないのか。ヴィクトリアは自分の中を探ってみた。見詰め合う視線が、自然に外れる。
ヴィクトリアは、ぱちぱちと瞬きした。白銀のまつげが、青い瞳を縁取っていた。

特別なひと。例えばタガーの前に立つと、美しい姿を映した瞳は、喜びに潤んで大きく開く。獲物へ向かって飛び掛る瞬間の、背筋がむずむずしてたまらない感じが、ずっと続く。
金茶色の毛並みをしたタガーと、目の前の凡庸な雄猫とでは、具体的にどこがどう違うのか。

「顔と声」

 タガーは、華やかな響きを低音に潜めた、類まれなる声の持ち主だった。言う事は支離滅裂で、馬鹿げていたけれど、内容がどうあれ彼の声はすばらしい。

「それと、振り向かないのがいい。振り向かせて見せようと思うから」

 タガーを前にすると、どんな猫もつつしみを忘れて、獲物を狙う鷹の目をする。そんなふうに雌猫を高揚させるなんて、どれほど稀少な存在だろう。

「顔? それだけ? 彼は、いざというときは頼りになるだろう?」
「ああ、あなたもタガーが好きなのね」
「うん。君と同じに綺麗だから。君のほうが綺麗だけど」
「私は別に、タガーが強かろうが弱かろうがどうでもいい。正しくても卑怯者でもどうでもいい。そんなことは本当、どうでもいい。大切なのは、タガーがタガーだということ」
「もし、彼が……マキャヴィティだったとしたら、どうする?
 それでも君は」

最後まで聞かずに、ヴィクトリアは吹き出した。

細身でしなやか。いかにも敏捷そうに見えるタガーの身体が、実はとても「不器用」だという事を、みんな知っていた。恋にくらまされた雌猫たちでさえ、知っていた。
狂ったように輪舞する猫たちの間から、彼はよくいなくなる。踊りについていけなくていなくて、拗ねたように唇を尖らせているときもある。それも、雌猫たちの胸をかきむしるような表情で。

「ありえなくはないだろう?!」

むきになって、黄色い猫が言い募る。目じりに赤みが差して、すこし、瞳が潤んでいるだろうか。

「彼は、マキャヴィティが現れるときいつだっていなくなるよ? 彼とマキャヴィティがひとところにいるのを見たことある?」
「マキャヴィティどころか、タガーがマキャヴィティの手下で、くずみたいな下っ端だったとしても、タガーのことが好きよ」
 
ヴィクトリアは、タガーに失礼だとも思わず笑った。
厳しい目をした彼女が、あまりに溌剌とした顔で笑う。

「ずるいよ。タガーは、どんなことしても君に嫌われないんだね。ずるい。俺は、ずっと君のこと好きなのに」
「……」
「タガーになりたかった。そしたら、俺は、きっと君だけを見つめて、君だけと踊るよ。
そうしたら、もう二度と跳べなくてもかまわない」
「…ギルが怒るでしょう」
「あいつ? どうして」

冷たい声だった。
ふと、ヴィクトリアは不快感を覚えた。自分に向けられた悪意でなくても、誰かを貶めるような発言は不愉快だった。黄色い猫を避けるのではなく、ヴィクトリアは両手で彼を押しやる。細かい毛並みが、ヴィクトリアの指の間を擽る。肌の熱い感触。黄色い猫は、彼女の指の隙間から、目を細めて彼女を見ていた。おかしそうに笑う。

「ギルの無茶に付き合うのは貴方って、もう決まってるからよ」
「ギルにはいっぱい友達がいるもん。俺がいなくなっても気にしないよ」
「貴方がそう言うのなら、そうなんでしょう」
「本当だよ。確かに、俺が一番親しいのは彼だけど、彼のほうは他にいっぱい友達がいるんだ。だって…あいつ、タガーとも仲良しなんだから」

ヴィクトリアは、今度こそきょとんと目を見張った。
いつも彼女を律している厳しい表情が、崩れる。あでやかな作り笑いでもなく、無表情とは程遠い。
彼女が構えを解いて、素顔の表情を見せるのは、彼女の焦がれるタガーにではない。得体の知れないこの雄猫の前でだけ、彼女は声を上げて笑い、好奇心に目を丸くする。

今も、ヴィクトリアは呆れてしまって、声高に嘆いた。

「貴方、ギルに嫉妬してるのね!」

黄色い猫は、うつむいて黙り込んだ。上目遣いの媚びるような視線が、ヴィクトリアに絡みつく。

「タガーと貴方がふたりきりで一緒にいるところなんて見たことない。そうね、確かに貴方よりギルのほうがタガーと親しいと思う。だけど、それって単なる嫉妬じゃない?」
「やめろよ」
「いえ、だって…」
 
くくっと、堪えきれない笑いが白猫の喉から漏れる。ヴィクトリアは、嫌な笑い方をした。それは、黄色い猫がいつもするやり方にそっくりだった。

「貴方、タガーと親しくしたいならギルに紹介してもらえば?」
「やめろってば!」
「はっきり言ったらいいわ! 他の猫はどうでもいいけど、タガーとギルの仲がいいのだけは、我慢できないって!!」

声を荒げる黄色い猫にかぶせて、ヴィクトリアはより強く声を発した。笑い声が、青空へと突き抜けて行く。笑い続けるヴィクトリアに、黄色い猫は抱きついた。

「そうだよ! 妬いてるんだ」

ひく、とヴィクトリアの喉が鳴った。がっちり抱き込まれてしまえば、彼女のような華奢な猫は、黄色い猫の腕の中で身動きすらできない。呼吸さえ、彼がその気になれば止めさせられるだろう。

「ギルは、絶対タガーのことよく思ってないのに、それなのにタガーはギルのほうと仲がいいんだ。俺のほうが、……タガーの悪口だって言ったことないのに…っ」

ううーっと呻いた黄色い猫は、ヴィクトリアの未成熟な身体に顔を埋める。胸の挟間のあられもない場所に、細い鼻筋の感触を感じながら、ヴィクトリアは不思議と不愉快ではなかった。
タガーを好きなことにかけては、同類なのだし。

「私…ごめんなさい。ちょっと、言い過ぎた…ね」
「いいんだ。だって、本当のことだもん」
「ごめんなさい。悲しませるつもりじゃ、なかったの」

彼女はおそるおそる、鼻先で揺れる陽だまり色の毛並みを撫でてみる。彼の耳は薄い黄色で、額から後頭部にかけて茶色。地面に、さっと陽光が差したような毛色は、触れてみるとやはり温かかった。
くすんと、胸元で鼻をすすりあげる感触を感じて、ヴィクトリアはなんだか自分も悲しくなる。

「ギル…に、いっしょに遊ぼうって頼んだらいいのに。それって、悪い考えじゃないと思うの」
「タガーが嫌がるよ。遊びに別の相手が混じるのを、彼って嫌わないか?」
「そうかも。そうね。私もそうだわ」
「君たちって、嫉妬深いんだね」

おかえしかしらと考えながら、ヴィクトリアは、黄色い猫の、彼らしくない拙いやり方に、思わず微笑む。

「猫だもの。失礼ですけど、当たり前よ」
「……俺は、君たちのことすごく好きなのに」
「ごめんなさい。ごめんなさいね」

胸元に、今度は額をこすり付けられる。ヴィクトリアは、姉猫のような気持になって黄色い猫を抱きしめた。ちなみに、彼女に兄弟はいない。

「いいよ。ただ、俺が勝手に君らを好きなんだから。だけど、からかうのはもう駄目だよ」
「わかっているわ。ごめんなさい」
「それじゃあ、許してあげる」

黄色い猫は、少女の胸に埋めていた顔を上げると、無邪気に微笑んだ。ヴィクトリアの秘密を暴いたときの彼とは、まるで別人だった。鋭い印象を与える目じりがやにさがって、目を細めたぶん、まぶたに隠された三白眼が、気にならなくなる。
ヴィクトリアが頭を撫でようともう一度伸ばした手に、黄色い猫は伸び上がって頬をすりつけた。
ヴィクトリアの背筋を、ぞくぞくと震えが昇っていく。

黄色い猫の名前を、ヴィクトリアは知らない。過去の振舞いや、今日の言葉。思い返しても、彼は邪悪だった。その上情けない。けれど、でも、かわいい。

「何?」
「いえ、何でもない…わ」

拗ねるのも、嫉妬するのも、あからさまに見せる。本心をさらけ出されると、なんだか胸がざわざわする。すこし、心が疼く。
ヴィクトリアは、誰かに本心を悟られることを無意識に避ける。だから、好意を素直に示されれば、他の猫の2倍もそれを重く受け止めた。簡単そうに見えて、心をさらけ出すのはとても難しいことだと、知っていたからだった。

「なんでもない」

ヴィクトリアは、ちらりと黄色い猫を盗み見た。警戒心のかけらもない顔が、彼女を見つめ返す。彼女は深く深く、ため息をついた。




猫たちの鳴き声があい呼ぶ中を、ヴィクトリアはひとりで立っていた。こんなときは、タガーは決まっていなくなる。

濁った都会の空の中にも、猫の瞳は幾万の星を探し出す。虚空の黒が赤みをおびて見えるほど、星明りは鮮烈だった。ミストフェリーズの力も、影響しているかもしれない。

猫たちは、つぎつぎにつがう。

双子はお互いを見つけ、ギルバートはしなやかで美しいタントミールに選ばれた。いごこち悪そうにランペルティーザが隠れる。シラバブは、きょとんとおとなたちを見上げていた。マンゴジェリーは、今日は誰とも踊らないつもりらしい。

ヴィクトリアはしずかに手を伸ばした。爪先の描く軌跡に、うっとりする。
空を指し示すと、白い月光は自分だけに注がれている気がした。
ふと、身体をたよりなく感じる。月に吸い上げられて、空へも飛ばされそうだ。寒い。

視線を落として地にうずくまると、同じ場所にひとりでいる黄色い猫を見つけた。彼の名前を、ヴィクトリアは知らない。

視線を合わせて、にっこり微笑む。それだけで彼は彼女のそばに来た。
言葉はいらなかった。
彼は、彼女に寄り添って凍えた身体を温め、そっと手を取り踊りの輪に連れ出す。ヴィクトリアが、彼を今日の相手に選んだ。

―――けれど、二番目に好きなひとがいつの間にか本命になっていることって、けっこうあるみたいだから、気をつけないと。

冷静に観察してきたおねえさまがたの恋愛を、そんなふうにファイリングしながら、ヴィクトリアはすまし顔を作る。つんと胸をそらして、高慢に踊ってのけた。

『他に好きなひとがいてもいいから、君のことが好き』

一方的に想ってくれる相手は、いかにも雌猫に都合がいいように見える。そばにいて、悲しみがあれば取り除き、求められたときだけ、そばにいる。彼の優しさに、心癒されることもあるだろう。
けれど、それは一番油断ならないことだった。

身内に高まる音楽のもと、彼女は踊りにすべてを委ねた。彼の手に支えられて、なよやかに反り返る。

したたかな彼は、いつのまにかすっかり彼女のお気に入りの猫になっていた。

 

『可愛いひと』
2007.07.19