嵐のように縺れて倒れた。

カッサンドラは、目じりが裂けるほど黒い目を開いている。
優しい微笑みばかりを浮かべる頬が、ひきつって震えていた。偽りの笑顔なら、無いほうがいい。タンブルブルータスはゆっくりと瞼を閉じた。





「重い…重いよぉ」
「ごめん」

タンブルブルータスの腹の下で、カッサンドラがかりかり地面を掻く。彼女を助けようと腕を掴んで、一緒に倒れてしまったタンブルブルータスは、自分の胸にぴったり収まるカッサンドラに目を細めながら、彼女を抱き起こした。
ふたりが躓いたのは、つるりとした広告紙だった。夜風に巻き上げられて、けばけばしい色彩が青い空へと浮かぶ。落ちてくるころには、二匹の猫たちはどこかへ消えていた。





 
猫が集会するのは、夜とは限らない。火に炙られた鉄板を思わせる、ボンネットの上に数匹の猫たちが座っていた。

「暑いな」
「うん」

 そうは言っても、誰もそこを降りようとしない。高い位置にこだわって、滝のように流れる汗を耐えながら、雄猫たちは沈黙する。
カッサンドラには彼らのように、守るべき体面がなかった。ボンバルリーナも、ジェリーロラムもそうだ。彼女たちは、車体の下に潜り込んで涼しい思いをしていた。くつろいだ様子を見せる雌猫たちの、しなやかな曲線が、日陰のなかでとりどりの美しい形に盛り上がっていた。カッサンドラは腕を交差させ、そこに細い顎を乗せて、冷たい地面に腹を預ける。

そこへ、するりと黒い影が滑り込む。小さかったり細身だったりする彼女たちのなかで、その影はとてもがっしりと大きかった。

「タンブルブルータス」
「暑いな。やあ、ジェリー」

姿勢を低くした雄猫が、振り向きざまに愛称を呼ぶ。ごく一部の猫に特有の、くっきり黒いアイラインが、切れ長の目を引き立てていた。エジプトの猫には、こういう顔つきをしたものが多い。
よばれた雌猫は、クリーム色の毛並みをそよがせていた。丸い目は、彼と違って親しみやすい印象を与える。柔らかい声が、女らしく優しかった。

「こんにちは、ブルータス」
「今日はひとりか?」
「そうね。貴方は」
「ひとりだよ。俺の隣に来ないか」
「ごめんなさい。私、そろそろ帰ろうと思っていたところなの。また今度にね」

雌猫たちが優雅な身体を投げ出して、広く寝そべる空間に、つぎつぎと大きな影が降りてくる。毛並みから発熱するほど、太陽に温められた雄猫たちは、なじみの雌猫の隣に潜り込んでは、涼しげな彼女たちに叱られたり、面白そうに匂いを嗅がれたりしていた。広々としていた物陰が、急にひとごみでごったがえす。

「さようなら、ジェリーロラム」
「さようなら、タンブルブルータス」

二匹は名残惜しそうに視線を絡めあった。けれど、それは猫たちの礼儀のようなもので、彼らは次の約束もせずに別れた。

「タンブルブルータス」

きんと冴えた声に、呼ばれた気がした。タンブルブルータスが振り返ると、彼女はマンカストラップの腕の中にいた。銀と黒の縞模様に触れながら、高い声が感嘆を漏らす。

「とても熱いね」
「そうだな」
「意地を張らずに、もっと早く降りてくればよかったのに」

マンカストラップは誠実そうな目を和ませて、くしゃりとカッサンドラの頭を撫でた。彼女の小さな頭に、くるりと丸まっている耳は、他のどの猫より小さくて薄くて、けれど鋭い。

「そういうわけにもいかない」
「だけど、結局はこうして逃げてきちゃったんでしょう」
「まあ、な」

もっとも強いとされる雄猫の傍に座り、彼女はにこにこと邪気のない笑顔を振りまいていた。面白くなくて、タンブルブルータスはそこを去ろうかとまで考えた。けれど、それも子供じみている。結局はひとりで、少し離れた場所へ移動した。
車の下は猫で溢れかえっている。息苦しい密集を避けて、そこから出ることは道理に外れていなかった。また、しばらくしたら集会も再開されるだろう。そのときはあの鉄の上で、日に焼かれなければならない。

次の満月まで、新しいルールや、新顔の猫たちについて、知っておくべき情報は多い。特に野生猫にとっては、それらが重要なことだった。

「タンブルブルータス」

また空耳だろうか。彼女の声を聞いた気がして、タンブルブルータスは迷わず振り返った。

「どこへ行くの? 帰るの? 私も帰ろうかな」

タンブルブルータスと同じく暗褐色の毛並みを持ち、特徴的な小さな耳を持ち、そしてタンブルよりずっと小柄な猫がそこに立っていた。
小さい身体は、ともすれば未熟な少年にも見間違えそうだった。

「いや、まだ……」
「そうなの? 私たちは、もう帰っても大丈夫なんだよ」
「そうか。手早いな」

普段は、雄猫も雌猫もわけ隔てなく集会するけれど、今日はたまたま二手に分かれた。雌猫たちは、言うべきことは言い終わったらしい。

「タンブルブルータスの用事が、まだ終わっていないのなら、しかたないね。私だけ先に帰る」
「うん」
「じゃあね」
「待って」

タンブルブルータスは、彼女の手を掴んでいた。
なぜそうしてしまったのか。よく判らない。
カッサンドラの大きな目が彼を見つめ返した。

「なに?」
 
彼女の瞳は、まぶしい光のなかでぎゅっと虹彩を縮めていた。真昼の彼女は夜会う彼女よりも、ずっと気が強そうに見える。少年じみたそっけない喋り方が、いつまでも抜けない。歩き方さえ溌剌と弾んで、子供のように落ち着かない。けれど、彼女は本当は、とても繊細で優しい猫だった。

「やっぱり待っていろよ。どうせこっちも、すぐ終わるから」
「あの暑い所へ登るのは、やだよ」
「もう日陰でやるだろう、と思う。日向で眠るのは、飽きた」
「そうだったらいいけど」

成猫たちのなかでは、彼女は誰より小さい。
耳も掴んだ手も、やはり子供のように儚げだった。
目だけが、大きくて黒い。

「ちゃんと俺が説得するから。なあ、待っててくれるか」
「うーん。いいよ」




車の下には、小さく風が吹く。雌猫たちは帰っていった。空いた場所に、黄色や白や黒の毛並みがだらしなく寝そべる。暑さはどうしようもない。

 影になった車体から、細く見渡せる外の世界は、正午の日差しに眩く輝いている。アスファルトを割った草が、道の端に小さな花をつけていた。地味な白い花さえ、目を射るほど光っている。
彼らの宿る日陰にも、照り返しのむっとする熱気が立ち込める。雌猫たちが早く切り上げたのは、賢明というべきだった。

タンブルブルータスに背中を預けて、カッサンドラはぐったりと身体の力を抜いていた。

横向きに寝そべり、片手に頭を乗せているタンブルブルータスの胸に凭れながら、カッサンドラは手足を丸めた。タンブルも真似をして、手の内の猫を包み込むように足を密着させると、彼女は暑いと文句を言うように耳を寝かせる。
彼女の肩の上に載せた腕で、雌猫の膝を彼女もろとも抱え込んだタンブルの手の甲を、軽く露出した彼女の爪が、つついた。

「こら、おまえたち聞いているか」
「あぁ」

苦笑まじりにマンカストラップが注意する。他の猫たちも、いつものこととはいえ呆れたように二匹を見つめた。

「続けてくれ」

カッサンドラを腕に庇いながら、タンブルブルータスはまったく態度を改めない。カッサンドラは、むずむず身動きした。
彼女はもう飽きてしまったらしい。

「眠れ」というように、タンブルブルータスの手が、彼女の額から柔い唇にかけてを撫で降ろした。骨の高く浮き出た手の下から、徐々に表れた彼女のおもては、薄く青ざめた瞼に瞳を隠していた。瞼のふちにくっきり引かれた黒いラインが、こめかみに向かって緩く跳ね上がっていた。
 その集会の帰り道に、彼女と彼は足を滑らせ、折り重なって倒れた。





その日の、カッサンドラの引き攣った目じりを思い出すと、タンブルブルータスの胸は塞がる。ふいに抱きしめたときの、彼女の恐怖の表情。毛並みを逆立て、全身で拒絶を見せる小さな身体。
どれをとっても、タンブルブルータスの心を沈ませる。

ヴィクトリアは、彼の傷心など知る由も無い。誘いには冷淡に背を向けた。

二匹の雄猫たちは、強張った彼女の純白の背中の、徐々に遠ざかるのを見送っていた。

「タンブルって見境ないよな」

複雑に組み合った模様が、身体を飾る。ため息交じりに批難の言葉を吐いたのは、カーバケッティという雄猫だった。
使い込んだ雑巾のごとき毛並みだった。その色とは裏腹に、物腰は典雅で、俊敏な若い猫だった。

「なんだよ」

彼よりひとまわり大きなタンブルブルータスは、しかし上目づかいにカーバケッティを見上げて、言葉を返す。まるで、後ろ暗いところがあるようだった。

カーバケッティは、左右非対称の顔をまっすぐタンブルに向けて、はっきりと言った。

「だって、ジェリーロラムとタントミールと、ボンバルリーナとヴィクトリアだよ」
「……」

名前が挙がるごとに、タンブルブルータスの睫は下降した。カーバケッティと違って、シャムネコのように毛足の短い彼がうつむくと、すっきりした頭の形が手に取るようにわかる。

あっさりと、あるいは細心の気遣いをもって、鮮やかに彼を振った美しい雌猫たちの名前がカーバケッティの口から重ねられるごとに、強面のタンブルブルータスの広い肩が、小さくすぼめられる。

居心地の悪さに、タンブルブルータスはすっかり身体を硬直させていた。
 釘が打てそうにカチンコチンに緊張したタンブルに、さらにカーバケッティは追い討ちをかける。

「ああそうそう、ジェミマにもこの前声かけてたよなー、はぁ……
…………なんっにも共通点ないじゃないか! お前には好みってもんがないのか!?」
「…ほっとけ」

 タンブルブルータスは、返事の前に一拍の沈黙を置く。それは、時によっては彼を気難しい性格の猫に見せた。石のような無表情と合わせて、いつものことなので、カーバケッティは気にせずに言いたい放題を続ける。

「あのなぁ、俺は友達として忠告してやってるんだよ。お前……本当にカッサンドラ以外とは手もつないだことないんじゃ」
「そんなことは断じてない」
「そりゃ、まあ、今の言い方は大げさだった。
でも、お前、誰でもいいっていうのが、見え見えなんだよ。だから嫌がられるんだ。このままじゃどんな親切な雌猫だって、お前とだけは踊らないだろうな」
「……」
「もっと、彼女たちにちゃんと気を配れよ。ちゃんと目を開いて見てみろ。お前…いいかげん失礼だ」

タンブルブルータスはそんなことはない、と小さく呟いた。

彼らが身を置いていたのは、広大なゴミ捨て場だった。夜の闇の中でなら、誰かに「いらない」と捨てられたものでさえ、魅惑的で謎めいて見えた。読み取れないラベルや、見慣れた形を歪ませたプラスチックの箱。
それぞれを視線で辿りながら、タンブルブルータスは内省する。

神秘的なタントミール
鋭く無口なヴィクトリア
豊かで優しい、ジェリーロラム

それぞれが違う。どの雌猫も魅力的で、異なった美しさがあって、個性的で、すばらしいと思っただけだった。だから、声をかけた。フェミニストのカーバケッティが、いつもしていることと、どこが違うのかわからない。
決して彼女たちを、貶めて考えてはいない。すばらしさを知っているからこそ、彼女らのうち、誰かと踊れるのならそれが誰でもタンブルブルータスは光栄に思う。

ひょっとしたらこれが、彼女でなければ誰でもいいということなのだろうか。

 

2へ続く
『罪悪感の地下室』1