ねぐらに帰ると、彼女はもう小さく寝そべっていた。
顔を抱えるようにして、背中を丸めている彼女の隣に腰を降ろし、タンブルブルータスはふと彼女の顔を覗き込んだ。

タンブルブルータスの体が起こした風に、青ざめた薄いまぶたが、ひくんと震えた気がする。

「起きてるんだろう」

答えはない。
月光もとどかない彼らのねぐらは、枯れた地下の下水道にあった。個人の家の排水に、利用していたものだろうか。なぜそこが作られて、そしてなぜ放棄されたのか。猫に推し量る事はできない。深く垂直に掘られた入り口から、横穴のように小さな道が地中に引かれる。そこにもぐりこんでしまえば、真昼だろうと真の暗闇が待ち受けていた。手を伸ばせば四方触れられるコンクリートの壁は、今は乾いていて、苔の気配さえない、快適なねぐらだった。乾いているだけ、ましだ。
夏に暑く、冬は氷のなかに居るように寒い。
けれど、完全に姿を隠すことができるというだけで、野生猫には安心してまどろむことのできる唯一の居場所だった。
ふたりでいることを許された唯一の場所だった。
彼らの眠る上には、地上に月光を浴び、廃屋がそびえたっている。ねずみの足跡さえ絶えた下水道よりは、よほど居心地のよいねぐらになるだろう。けれど彼らは、綻んだカーテンの隙間を縫って、ジェリクルムーンの忍び込む地上よりも、地下でひっそり暮らすことを選んだ。

「カッサンドラ」

呼びかけても、彼女は答えない。
月を逃れても、身のうちに深く根ざす罪悪感をどうしてなかったことに出来るだろうか。彼女は、死んだように動かない。小さく動いていた腹が凍える。呼吸が止まった。

カッサンドラの息が止まったことに気づいて、タンブルブルータスは小さな身体を仰向けにさせ、青ざめた冷たい頬を掌で叩いた。

「カッサンドラ!」

ひゅ、と鋭く息を吸い込んで、カッサンドラが大きな瞳を開いた。
涙で潤んだ瞳は、黒くタンブルブルータスの姿を映した。

「触らないで」
「どうして。だれかといるときには、そっちから来るじゃないか」
「お願いだから、私に触らないで」
「じゃあ、どうして俺たちは一緒に暮らしているんだ」

カッサンドラが、涙に濡れてきらきら光る瞳を閉じると、地下のねぐらからは色が消えた。暗闇がふたりを包み込む。彼女が答えなければ、水の枯れた下水道に一切の音が途絶える。





「え、ふたりで暮らすの?」

まぶしい陽光のなか、白い歯を光らせてカッサンドラが微笑み、大きく頷く。ジェニエニドッツは驚いたように高い声を上げたけれど、ふたりと一緒にいたタンブルブルータスは、無表情の仮面の下で、もっと驚いていた。

「そう! それがいいよ」

二匹の子供たちを、ジェニエニドッツは両手で抱き寄せほお擦りする。

「よかった。本当によかった」

にこにこしながら、素直に親愛の情を受け取るカッサンドラと違って、タンブルブルータスは照れて石のように固くなる。ジェニエニドッツは笑って、逃げようとするタンブルの頬にだけキスしてみせた。

「きょうだいでねぐらを守る猫たちは、一匹きりで生きる猫より、ずっと長生きする。だから、私はふたりが一緒に暮らせればいいなあとずっと思っていたんだ」

二匹は教会で養われていた。そこに住んでいたのは、優しい年老いた灰色の猫だったけれど、彼はおっとりといつもの場所に座っていて、子供たちのいたずらにも目を細めるばかりだった。
小高い場所に建つお屋敷から、毎日通ってくるオレンジ色の猫は、ふたりを容赦なく叱りつけ、狩りを仕込み、猫の礼節とルールとを教授してくれた。ジェニエニドッツは、彼らの母親のような存在だった。

けれど、いつまでもそこには居られない。狭いテリトリーに、猫たちが密集して暮らしていてはいけない。
タンブルブルータスは、そこを追われる日を密かに恐れていた。それが、彼女との別れの日でもあると思っていた。

「俺といっしょに、ふたりきりで暮らすのか?」

まだ信じられずに、タンブルブルータスは姉に聞いた。
幼いころはそっくりの二匹だったのに、めきめき成長するタンブルブルータスと、仔猫のように儚いままのカッサンドラの差は、大きく開くばかりだった。

「うん。そう。タンブルブルータスはいや?」
「そんなことはない」
「じゃあ、いっしょに探そうね。ふたりで眠れる場所と、ふたりで食べるだけの狩場を。きっと見つかる」

まぶしい光のなか、カッサンドラの褐色の毛並みは艶々と滑らかだった。

「ずっといっしょにいようね」





「私が、タンブルブルータスと離れて暮らせるわけないじゃない」

捨てられた下水道は、砂漠のように干上がっていた。トンネルは、河に汚水を吐き出すために長く続いている。地の底を貫いて暗闇が、彼らの背後に口を開いていた。乾いた空気は、音を反響させない。
カッサンドラの震える声は、タンブルの耳にだけ落ちていった。

「だから一緒にいるんだよ。おかしい?」
「それじゃあ、どうして、俺を怖がるんだ」

肘を精一杯伸ばして、自分とタンブルを遠ざけようとするカッサンドラの腕は、頼りなく震えていた。

「ふたりきりのときは、触らないで」
「俺は無理矢理、カッサンドラを傷つけたりしない」
「そんなことわかってる」
「じゃあ、どうして」
「怖いよ。お願いだからあっちへ行って」

ぴしりと音をたてて心に亀裂が走る。
カッサンドラは自分を、石でできた彫像のように思っているのだろうかと、そう考えて、タンブルブルータスはいつもの無表情からさらに色を無くした。化け物のように恐れられて、傷つかないではいられない。

「どこいくの」

泣き声が、タンブルブルータスを追いかけた。蒼白の顔を強張らせたままで、彼は振り向かなかった。優しい声がかきくどく。

「いかないで。寂しいよ」
「どうしたらいいんだ」

褐色の毛並みに鮮やかに浮き出すVのサークレット。
額を押さえてそれを歪ませながら、タンブルブルータスは静かに悲鳴を上げた。

「傍にいて。
私に触らないで。
でも、ずっといっしょにいてほしい」

彼らの上には、居心地の良さそうな廃屋がそこを満たす誰かを待ち構えていた。
けれど彼らは、けっしてそこでは暮らせなかった。

月の届かない暗闇に、互いの息の触れない場所で、向かい合って暮らすことだけが、カッサンドラの望みだった。

 

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『罪悪感の地下室』2
2007.07.04