海軍の施設は、下町の只中にある。
地図を手に迷う道すがら、本当にここに軍の設備があるのかと、マキャヴィティは半信半疑だった。うねるような無秩序な道なりに、軒を接するほど近く民家がびっしり立ち並ぶ。子供たちがボールを追う声が甲高く響き、食事時には匂いの強い湯気が、細く開いた戸から屋根に伝い上っていくのが見えるようだ。
狭い道がくねくねと曲がるものだから、ほんの1メートル先しか見通すことができない。そして道をまがっても、新しく現れる風景は背後に広がる物と同じ、びっしり並ぶ町屋と狭い道だけだった。
道は、煩雑だったけれど清潔だった。壁によりかかり、道へなだれそうに積み上がっているのは、大事に置かれた家財であった。小さな部屋に入りきらずに、道に溢れている。地面には、ごみ一つ落ちてはいない。
「ずいぶん、治安のいいトコロだ」
心の隅でそう判断し、無意識に呟きながら、マキャヴィティはそれどころでなく焦っていた。約束の刻限まで間がない。初めての面会に遅刻なんて、思っただけで胃袋がきりきり痛くなる。
新しい上司が、どのような気性なのか、ちっとも想像つかないのがまた始末に悪い。本当は早めに着いて、控えの間でゆっくり覚悟を整えるつもりだった。道に迷ってしまってそれどころじゃない。なんとか遅刻だけは避けたいと、気ばかりはやってしかたない。
一週間も前に調えた新品の制服に、汗じみが広がる。
整えた髪が、ばさばさと乱れていく。それにも気を散らしながら、マキャヴィティは走った。
下士官の礼服を暑苦しく着込んで、狭い町を疾走する男は、住人の目にどう映っただろう。曲がり角で、若い女の持っていた籠を腹につきつけられて、ぶつかる寸前にマキャヴィティは叫んだ。
「すみません! 急いでいて」
彼女と一緒に、そこに盛られた野菜が零れないようあわあわと籠を押さえながら、マキャヴィティはざっと籠と地面に視線を走らせた。朝露につやつや光る、とりどりの野菜。たぶん売り物であろう。それが残らず無傷だと知ると、マキャヴィティはまた走り出した。
曲がり角では、先ほどの教訓を生かしてすこしだけ減速する。
同じような町並みが現れるだろうという予測を裏切って、そこには高い鉄の門が、青空の中に海軍のシンボルマークを輝かせていた。
鍵もかかってはいなかった。真新しいのか、門は軋む音も立てずにマキャヴィティの手で開かれる。門構えだけはりっぱだけれど、そこから左右につながる塀は、マキャヴィティの背丈ほどの高さもない。
その気になれば楽に飛び越せる囲いであっても、外界と隔絶する意味はある。門のなかに一歩足を踏み入れると、通り抜けた町とは、まったくの別世界だった。官舎の中にも町の活気は音として流れ込んでくるが、どこか遠かった。広く取られた敷地が、そうさせるのだろう。
マキャヴィティは階を重ねず長く棟を広げる建物の、中心近くにある一室に通されて、緊張の面持ちで腰を落ち着けた。手で汗をぬぐいながら待っていると、ほんの数分もしないうちに木製の薄いドアを開け放たれる。足音高く入室した若い男にむかって、マキャヴィティは立ち上がり頭を下げた。
「遅かったな」
初めて会ったマキャヴィティの上司は、士官の制服を着ていなかった。ここに案内されるまでに会った、どの軍人たちもそうだった。それは、規律正しく整備された軍の中枢で、配置令を受けとったばかりの新兵であるマキャヴィティにとって、とても異様なことに思えた。
若い上司は、私服の簡素さにいっそう若さを強調されている。むしろ幼く見えるほどだった。海の男らしく、腕や胸を中心に上半身は厚い。けれど、腰がひきしまって細いせいで無骨な印象は受けない。下肢もすんなり伸びている。背は、それほど高くない。
ありえないが、士官学校を出たばかりのマキャヴィティより、さらに年若くさえ見える。
「ギルバートだ。いずれ提督になる男だ。よろしく」
マキャヴィティがちょっと笑ってみせると、彼は心外そうに軽く目を見張った。冗談だよな、とマキャヴィティはあいまいな顔で固まる。
「で、お前は、何をしていてこんなに俺を待たせたんだ?」
強い声だった。意思の強さを表すように顎の張ったはっきりした顔だちの中で、他人を見下す事になれた目がマキャヴィティを見上げる。自分よりもほんの少し小柄な上司にむかって、マキャヴィティはもう一度深く腰を折った。
「誠に申し訳ありません」
「俺の命令に従うのは、不服か?」
マキャヴィティは、びっくりして口をつぐんだ。心臓が喉元に飛び上がるかと思うほどの衝撃を、なんとか胸ひとつに収めようと努力する。その無表情を、上司は別のものと読み取ったらしい。
マキャヴィティをソファに座るよう促すと、彼は立ったままで、じっとマキャヴィティの顔をみつめた。あからさまでぶしつけな注視に、マキャヴィティはのけぞりたいのを必死で堪えた。
「そう警戒するな。いい「家」で育って、士官学校の教育も不足なく受けたお前が、俺のような野育ちの下につこうというのだから、それなりの反抗心もあるだろう」
「誤解です。私が遅刻したのは、こんなところに本当に軍の設備があるのかと疑ってしまって道に迷ったからで」
「俺は腹芸が苦手だ」
マキャヴィティの言葉を聞かず、またマキャヴィティがそこに座っている事も知らぬげに、ギルバートはどさりとソファに身を投げた。窓際に置かれた執務机の後ろにも、座り心地の良さそうな椅子が置かれている。マキャヴィティは、それを恨めしく見ながらそっと尻の位置をずらして上司と触れ合っていた肌を離した。
「俺は言いたいことはまっすぐ言うたちだ。お前も、それに慣れろ」
「はい。ギルバート隊長のために、粉骨砕身で働く所存であります」
「堅苦しいな。俺はそういうのは好かない。
俺に気に入られたかったら、お前も俺のやり方に慣れる事だ」
マキャヴィティは、この上司の前で決して敬語は崩すまいと固く胸に誓った。酒をすすめられるのに面食らいながら固辞していると、ギルバートが驚いたように言う。
「飲めないのか? お前何を楽しみに働いてるんだ。固いんだな。
よし、お前、仕事がおわったら俺のところへ来い。俺が、楽しい事をいろいろ教えてやる」
「…………光栄であります」
上下社会のただなかにあって、マキャヴィティには楽しそうな上司の誘いを断ることが、どうしてもどうしてもできなかった。
「お前にここのことを、いろいろ教えてくれるやつがいるな。ちょっとまってろ」
隊長はそういい残すと、マキャヴィティを部屋に残してつむじ風のように去っていった。
マキャヴィティが、ソファについたごみに気付いて摘み、捨てるところを探しているうちに彼はけたたましい音を立てながら戻ってきた。
1キロ先に彼がいようと、わかるくらいだなとマキャヴィティは思った。
「ランペルティーザ、こいつが新しく俺の部下になったやつだ。名前は、…………自分で言え」
「マキャヴィティです」
「そうそう! 士官学校出のエリートで、いいとこのおぼっちゃんだぞ。お前、狙ってみろ。玉の輿にのれるかもしれない」
「それって命令ですか隊長」
「していいのか?」
隊長にひっぱってこられた少女は、とても小柄だった。歯をぐいと食い締めて、きつい顔を作って見せても、可愛らしく思えるほど。こんな小さな子までが働かされているのか。無言でショックを受けているマキャヴィティに、彼女のはっきりきっぱりした視線がぶつかった。ギルバートのにやけた問いかけを無視したまま、彼女は言った。
「ランペルティーザよ。なんの役職もないので、呼び捨てでかまいません。よろしく」
「マキャヴィティです。今後よろしく、ランペルティーザ」
「こいつを、いろいろ案内してやってくれ。訓練場だとか、食堂だとかに。いろいろ教えてやれよ」
「
はい、隊長。では、失礼してもよろしいですか」
「ああ。マキャヴィティ、俺との約束を忘れるな」
一日の仕事が終わったあと、さらに苦行が待ち受けていることを思って、マキャヴィティは表情を暗くしながら部屋を辞した。
ギルバートの部屋の両脇には、長く廊下が広がっている。同じようなドアが均等に並んでいる中で、ギルバートの執務室に隣り合う扉だけは、距離が広い。
ランペルティーザが迷わず歩き出したので、マキャヴィティは小柄な彼女の旋毛を見下ろしながら後に従った。
「変わった人でしょ、彼」
「隊長のことか? 上官の噂話をするのは…」
「へえ、あんた固いんだね」
「隊長にも、そう言われた」
「あの人も、たまにはまともなことを言うんだよね。いつもは、夢みたいなことばっかり言ってるんだけど」
「おい…」
「わかった。あんたの前では…」
「ランペルティーザ、そいつ誰」
ざらりとした声に名前を呼ばれた時、なぜか彼女は鋭く身構えた。
彼女を呼んだのは、金の兜をかぶった背の高い男だった。派手な装備は、軍からひとそろい支給されるものだ。ここに一人も知り合いのいないマキャヴィティは、彼がこの軍隊に所属する誰かだと一目で判断した。金の兜から首筋に零れているのは、燃え上がるような赤毛。
いつのまに、マキャヴィティのすぐ後にまで彼は近づいたのだろう。気配はなかった。
「マキャヴィティ、ちょっと先に行っててくれる」
ランペルティーザの声は固かった。マキャヴィティは頷いて、長い廊下を目的もなく歩きだす。どこに行けばいいのか、まったく見当がつかなかった。
「なんでここにいるのかって、聞かないのか」
「こんなとこ、いくらだってもぐりこめるわよ。門番だっていないんだから」
「ちぇー。風みたいに、神出鬼没って、お前に思われるかなって期待したんだけど」
「どうして…」
「誘いにきた」
「何を? 食事でも?」
「俺と一緒に来いよ」
「いや!」
彼女たちの言い争う声が追いかけてくる。なるべく耳にいれないようにとマキャヴィティが思っていると、目の前にある窓がとても大きいことに気付いた。窓枠を跨いで庭に出ると、汗ばんだ肌に風が気持ちよかった。壁に寄りかかって見上げる空には、雲が細く流れていく。
「あんなに小さいのに、もう彼氏がいるのか…」
2へ続く