初めて参加した訓練は、悪くなかった。
ランペルティーザも含めて、どの隊員たちも若く何の役職も持っておらず、町にまざったらとても軍人とは思えないだろう。内心不安に思っていたマキャヴィティは、途中で考えを改めた。訓練の内容は、国立の兵学校に劣らないまともなものだった。手合わせした隊員たちの腕も、基礎の確かさをマキャヴィティに感じさせた。これからここで、やっていけそうだとマキャヴィティは初日の印象をしめくくる。
隊長のことだけは、胃にずっしりと重かった。

奇妙に女性の多い同僚たちと別れて、マキャヴィティはのろのろ上官の待つ執務室へ向かった。
紫がかった夕暮れが、すぐそこまでせまっている。今はまだ明るいけれど、見ているうちに陽は落ちるだろう。黄昏の空気は一日の疲労をいやがおうでも思い出させる。今日が終わると、空が告げている。
それなのに、マキャヴィティは寝床の待ち受ける自宅へ、足を向けることが許されていないのだった。

「遅かったな」
「隊長、どこかへお出かけですか」
「飲みにいく。ついて来い。俺と、おまえだけでだ」

ギルバートは、襟の高い黒い軍服を隙なく着こなし、胸に略章を光らせていた。なんで今更堅苦しい服を着るのだろうと、自身も礼服のマキャヴィティは首をかしげながら、隊長の後につき従った。

「ものすごい美人がいる」

ギルバートの言葉が示していたのが誰なのか、酒場に一歩踏み入れただけでマキャヴィティにはわかった。

舞台の上にひとりで佇んでいる、真っ白い女。純白のドレス。化粧の気配も薄いのに、白い顔。
彼女は、酔客に何を言われようと知らぬ顔で歌い続けていた。丸みのある弦楽器を細い指がつま弾くと、ぴーんと張った音が彼女の声によりそった。下卑たひやかしを、女のか細い声がかき消していく。煙草の煙で白く霞んだ、天井の低い部屋の中で、彼女のまわりだけほのかに光るようだった。

「どうだ。いい女だろう」
「そうですね」

マキャヴィティは、運ばれてきた酒に唇もつけられずに聞きほれる。

「見てろ」

ギルバートは、うっとり彼女を見つめるマキャヴィティが思いも拠らない行動にでた。逮捕礼状でもあるように、ずかずか舞台に近づくと盆の上に飛び乗り、歌姫の前に立ちふさがる。ギルバートとほとんど同時に、それより少しだけ早く、舞台に飛び上がった黒い影があった。ボロ布の塊のように見えたそれは、一人の男だった。ギルバートは歌姫の前を横切ると、目の血走った男の、触れるほど側に立った。ギルバートのよくする、見下すような視線を向けられた男は、いまや酒場中の視線を背中で独占していた。着ている服はさほど悪くないのに、ぼろをまとっているように見えたのは、だらしない所作のせいか。それとも、ズボンの腰からはみだしたシャツの裾のせいかもしれない。
丸まった背中が、雄牛のようにぶるりと震えると、いきなり舞台の奥へ突進する。歌姫は座っていた。彼女に三歩近づくまでもなく、ギルバートは牛を殴り倒した。
男の手元から、ちゃりんと銀色の光が落ちて床に転がる。するどい切っ先に、マキャヴィティの背中に冷たいものが走る。ナイフだった。

「俺の膝元で、好き勝手は許さない」

マキャヴィティの目には、踏み込みの勢いもなく、ただ歩み寄って腕を突き出しただけにも見えたのに、ギルバートに殴られた男は腹を折ると、頭から倒れこんで動かなくなった。

「酒のせいで気が大きくなったんだろう。警察がくるまで、柱にでもしばりつけておけ!」

軍服の乱入に、酒場は一瞬で静寂へと飲みこまれていた。

「早くしろ」

ギルバートの言葉に正気づかされ、慌てて飛び出してきた酒場の主人が、客に手伝ってもらいながら伸びてしまった男を引き摺り下ろす。

「いつも、グリドルボーンにつきまとってたやつか」
「馬鹿だな。軍隊ににらまれたら、道を歩きにくくなるぞ」

ひそやかな囁き声を聞きながら、マキャヴィティはあらためてこの下町の治安のよさを思った。

「俺の女になってくれ」

うわさする男たちを、ぼんやり見ていたマキャヴィティも、柱に縛られた男に蹴りをいれていた客たちも、すごい勢いで舞台を振り返る。
舞台には、歌姫とギルバートだけが残されていた。やはり、白い歌姫は酒場の中でひとりだけ輝いているとマキャヴィティには見えた。

――俺の女に…

ギルバートは、ひたりと歌姫を見据えている。颯爽と膝を折ると、彼女の側に寄り添った。腹の底から出されたいい声が、大上段から命令したようにマキャヴィティには聞こえたけれど、ひょっとして、これは、愛の告白か?

「いやよ」

客たちがげらげら笑いながら、グラスを机に叩きつけ、足を踏み鳴らし喝采を叫ぶ。ギルバートが、ぱさついた前髪をかきあげ立ち上がりざまに手を上げると、お前じゃねえと野次が飛んだ。

「俺の何が不満なんだ」

悪びれずに戻ってきたギルバートを、マキャヴィティは心の底から知らない人のふりでやりすごしたいと思った。しかし、一日でだいぶくたびれてしまった自分の新品の軍服を思い出し、悲しく睫を伏せるに留めた。
ギルバートは、マキャヴィティのそれと色違いの軍服の裾を、ぱんと払いながら席につく。

「まあ、グリドルボーンはあの気の強いとこが可愛いんだけどな。どうした、マキャヴィティ。猫背になるな。軍人なら、しゃっきり前を向け」
「はい……」

それからのギルバートの飲みっぷりはすごかった。おごりだとわかっていても、マキャヴィティはつい頭の中で勘定を計算してしまう。

「隊長、もうそのへんで…」

ギルバートの持つ杯に、マキャヴィティがそっと手を翳す。この無礼なしぐさに、予想外なことだがギルバートは寛容だった。

「なんだぁ? マキャヴィティはこの程度で降参かぁ〜?」
「はい。申しわけありません。明日のこともありますし、あの」
「しかたないなーあ、おい、おい! お愛想だ!」

純白の歌姫は、とうに部屋に引き上げていた。酌の女も寄せ付けず、酒だけを煽っていたギルバートが腰をあげると、また少しだけ酒場の空気が変わった気がした。

「隊長!」

ぐらりと傾いだ上官の身体を、マキャヴィティは両手で抱える。

「大丈夫ですか。立てますか」
「あ、大丈夫。平気」

ちっとも平気そうに見えないギルバートを連れて、店を出たマキャヴィティが空を見上げると、真っ黒く日の落ちた中に満月が煌々と照っていた。水槽のなかにインクを一筋落としたような、薄い雲が月を囲んで流れている。漆黒の夜空のなかで、雲は灰色にも青色にも見えた。夕暮れの名残はどこにも残っていない。マキャヴィティは、ここに来る前の空の色を思い出し、しばし立ちすくむ。 肩に担いだギルバートの腕を忘れて、ふうとため息をつくと、吐き出された息が白く凝って薄い雲のようだった。
酒場のなかには、霧のように真っ白な空気と、熱気にみちた息苦しさがあった。マキャヴィティは、もう一度胸に深く息を吸い込む。

「どうした。さっきからため息ばかりだな」
「すみません。…お宅にお送りします。場所を教えていただければ」
「官舎に戻れ。そこで寝起きしている」

眠っていると思ったギルバートの口から、明瞭な言葉が返ってきたことに驚きつつ、マキャヴィティはそれを顔に出さなかった。自分の心を、態度や言葉で表現することが、マキャヴィティは苦手だった。
だから、ギルバートはマキャヴィティが驚いていたことにも、きっと気付かなかっただろう。

「お前の家にいくわけにもいかないだろう」

肩から、ギルバートの重みがふいに消える。

「隊長をお迎えできるようなところでは……むさくるしくて」
「わかってる。迷惑をかけたな。すまない」

ギルバートは上機嫌だった。マキャヴィティにはそう見えた。
どこかに違和感を感じて、それにとまどいつつ、マキャヴィティはギルバートの後をついて回った。

「ガキのころは、士官学校出のエリートさまの、足元にも近寄れなかった。それが、今はお前の上司だ。すげえよな。だからって、今日はすこしはしゃぎすぎた。
どんなやつが来るのかとは思ってたんだよ。傲慢な貴族のぼんぼんかもしれないし、ぐうたらな凡人を押し付けられるかもしれないだろう? 警戒もしてたんだ。けど。
……けっこう男前がきたな」

先をいくギルバートの、無目的だけれど危なげのない、しっかりした足取りを見て、マキャヴィティはやっと悟った。騙された。
彼は酔ってなんかいない。

「お前はなかなか、地を見せない」

どこか開放感に満ちた、ギルバートの声だった。なつかしむような、かみしめるような。

マキャヴィティは、警戒心を努めて露にして黙り込む。ギルバートはそれに気付いていないわけでもなかろうに、ますます親しげに語りかける。

「それくらいが、ちょうどいい。俺の片腕になってもらうには」

片腕、懐刀。
命をやりとりする軍隊のなかで、それなりの地位につくギルバートがそれを欲するのはむしろ当たり前のことだろうとマキャヴィティは思う。けれど、それは役職じゃない。
なれと任命されて、なれるものではない。

「私などが、他の古くから隊長に従う方たちをさしおいて、そんな、めっそうもない…です」
「俺はもう決めてるんだ。お前は、俺の一番の部下だ。俺がそういってるのに、はっきりしないやつだな。俺がそうするって言ったら、そうなるんだ。
俺には、お前が必要なんだ。お前のようなやつが。他の部下どもは、仕事は給料分だけこなせばいいと思ってる。お前みたいに、正規の教育も受けてない。お前は口が固いし、頭もいい。今日一日で、そう思ったんだ。覚悟しとけ。お前は俺の、ブレーンになってもらう。俺が提督になるために、俺の手足となって働け。俺に尽くせ」

立ち止まったギルバートの頭に鼻先をぶつかる。鈍く痛むそこを押さえていると、ぶつかったギルバートの頭がくるりと振り返るのを見た。ギルバートは、マキャヴィティが逃げ出せないように両肩をがっしり掴み、正面から最後の言葉を囁いた。
「……汚い仕事も、してもらうぞ」

マキャヴィティは、蒼白になりながら首を横に振った。

ギルバートは、不敵に唇を吊り上げてマキャヴィティの頭をかき混ぜている。兄弟にするような親しいしぐさに、ますます追い詰められながらマキャヴィティはもっと首を振る。耳元で、自分の巻き起こす風がぶんぶん鳴っていた。

彼の心のうちを、ここまで聞いてしまったのだ。
早めに逃げださないと、本気で消される。




ギルバートが酒場の歌姫、グリドルボーンに言い寄っている事実はマキャヴィティ以外の街中の人間が知っていた。告白するたび盛大に振られるのだが、それでもめげずに酒場へ通っているとか。
わからないのは、断っておきながらグリドルボーンも、ギルバートのいる官舎へ入り浸っている事だ。訓練の最中、ギルバートの執務室の開け放った窓から、飛び出してくる彼らの大声を聞かない日はなかった。たいていは喧嘩しているようだった。

けれど、本当の見ものはそれからだった。
ギルバートに、「グロールタイガーのところへ行ってくれ」と言われた時の、彼女の顔。

薄化粧に縁取られた大きな瞳を、子供のように真ん丸く見張り、時がとまったように彼女は動かない。
1を言われたら100倍にして返す、グリドルボーンが、ただ黙って立ちすくむ。悲しいというより、本当に何を言われたのか分からなかったのだろう。

ギルバートの側に控えていたマキャヴィティは、窓の外で雲の位置が変わっていくのを、無策に見つめていた。彼女の顔を見ていられなかった。

「え」

ようやく、彼女が唇を開く。
あふれたのは、無邪気な疑問の声だった。

「お前なら大丈夫だ。グロールタイガーも、きっと骨抜きになる」
「私、が」
「そこを、俺が叩く。お前は必ず助けだしてやるから」
「なに」
「俺を助けてくれ」
「あなた、私を好きだったんじゃないの」
「好きだから、頼むんだ。俺は、お前以外の人間は誰一人信用していない。
お前だから、頼むんだ。
俺を助けてくれ」
「私を、利用するの」
「ちがう! 俺は、助けてほしいんだ。お前にしか頼めない。
俺には、お前しか頼れる人がいないんだ。どうか、俺を助けてほしい」
「ああ、……そういうこと。利用させてくれって、はっきり言ったらいいじゃない」

見ていられずに、マキャヴィティは顔を反らした。

グリドルボーンの手引きで、ギルバートの率いる一隊がグロールタイガーの船を奇襲したときも、ギルバートは厚顔だった。

「俺の女が誘ってるのに、無視するな」
「俺の女に気安く触るんじゃねえ」

ギルバートの矛盾した呟きを、彼を背後に庇いながら聞かされるマキャヴィティは、動揺のあまりつい手元が狂ってグロールタイガーの一撃をまともに受けた。
気絶している間に、何が起こったのかは知らないが、ギルバートは首尾よくことを果たしたらしい。
けれど、それだけでは済まなかった。




「よくやってくれた! お前なら、きっと心配いらないと信じていた」

ギルバートが抱きつくと、グリドルボーンは嫌がらずに彼の手の中に納まった。初めてのことだった。涙に潤った鼻声が、責める様に言う。

「当たり前よ。私がその気になれば、どんな堅物だって無視できないんだから」

ギルバートは、満足そうに頷いた。

「お前ならきっとそうだ。俺は、お前が誇らしい。
ありがとう。俺のために、辛い思いをさせたな」
どうした? もう怖いことはない。俺が側にいる」
「ええ。ええ、そうね。近くに戦闘を見たのは、初めてだから、少し気が昂ぶっているの。私、眠るわ。そうしたら、きっともっと元気がでるから」

ありがとうと、そう言われた時から、グリドルボーンは唇を震わせていて、そこから溢れる美しい声も、風に煽られる水面のように揺れていた。

「大丈夫か? かわいそうに。怖がらせてごめんな。もう、二度とこんなことは頼まない。俺のために、本当にありがとう。
もう、二度と離れない。ずっと側にいて、お前を守る」

グロールタイガーの腕の中で何十という白刃をつきつけられ、波が弾く月光と切っ先の照り返しとを色づく頬に受けながら、グリドルボーンはちっとも恐れていなかった。むしろ、高揚しているように見えた。彼女はその時、微笑んでいたのだから。

ギルバートの傍らにいる彼女を今、震え上がらせているのは、本当に戦闘の余韻だろうか。戦場では何時よりも何処よりも強く、生命欲が輝く。いつ奪われるかもしれないそれは、ぎらぎらしたきっさきと同じくらいに利己的に、暴力的なほどに輝く。彼女は畏れただろう。戦闘の余韻ではなく、強くまたたいた誰かの命がけの想いを、白い指先で弄んだ興奮を。

グリドルボーンは、だらしなく伸ばしていた両腕を持ち上げると、ぎゅっとギルバートの軍服の袖をひっぱった。白く長い指先が、いかめしい軍服に取りすがる。
抱きつくのを迷うしぐさに、有頂天だったギルバートもようやく気付いて、彼女の顔を覗き込む。彼女は、身に覚えのある罪人のように、彼の注視から顔を逸らした。船はゆっくり揺れる。軋んだ音を立てる。
蒼ざめたグリドルボーンは、凍えた花びらのような唇を開いた。

「馬鹿……馬鹿、アホ、とんま!! 間抜け、嘘つき! 女たらし! すごく、怖かったんだから!」

女のか弱い腕が、ギルバートの厚い胸を何度も叩く。
乾いた音が響くのは、接収した海賊船のもっとも豪華な一室だった。ここも、もはや船ごとギルバートのものだ。タペストリーを掲げた壁や、さまざまな装飾品。はちきれそうな絹のクッションを、いくつも乗せた寝台のそばには小さな卓があり、木製の杯がぽつんと立っている。サイドボードから、これを取り出したのはこの部屋のもとの主だろうか。グリドルボーンが留まるには、あまりに辛い場所だろう。まっすぐ出て行こうとする彼女へ、ギルバートは呼びかけた。

「これからは、ずっと俺の側にいてくれるよな」

グリドルボーンは、首を傾げるようにして振り返る。

「私はね、ずっとあなたが好きだった」

ギルバートの腕のなかへ飛び込み強く抱きついた後、彼女は子供のように照れた笑い声を上げていた。それは一瞬で、つむじ風のように彼女は逃げていく。彼女の笑い声が、遠く響いて細く消えていく。美しい風が開け放ったドアを、閉めるとき、マキャヴィティがふと頭を上げて甲板を見渡すと、星に四方を取り囲まれた船は、空をつっきって進んでいるようだった。マキャヴィティは相変わらず無言のままで、ギルバートの為に扉を閉ざし夜闇の侵入を阻んだ。
本当の見ものは、それからだった。
数ヵ月後にギルバートは、見た事もない海軍将校の隣で微笑んでいるグリドルボーンの姿を目にする。彼は、現在の提督だった。



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