荒れ狂うギルバートを前に、マキャヴィティは無策だった。
マキャヴィティ自身の傷も、まだ癒えていない。右腕を吊っているせいで、軍服にも袖を通せない。ギルバートの前で私服でいるわけにもいかないから、重い上着を肩に羽織ったまま一月近くを過ごした。不便のほうが多かった。服の下で、胸には幾重にも固く包帯が巻きつけられ、傷が開くのを押さえている。包帯の白が襟元から覗いているだろう。それほどの手傷を受けていても、ギルバートは右腕をもって任じるマキャヴィティを、片時も側から離さなかった。女性と逢引するときでさえ、そうだった。
ただ、グロールタイガーが残したとはいえマキャヴィティの傷は、いつかは癒えるものだった。それに比べて、ギルバートが失ったものは少なくない。

「グロールタイガーの死体を、持って帰れなかったのは痛かったですね」
「俺は、ちゃんと海賊を討伐した! 今東海に出没している『グロールタイガー』は、ニセモノだってのがわかってるくせに、本部のやつらめ…!」
「隊長、また機会はあります。
どうか、お気を静めてください」
「ふざけんな!」

執務机はひっくり返り、三本の脚を宙に差し出している。折れた一本は部屋の隅に転がっていた。皺、染みひとつ許されないはずの重要書類が、床を敷き詰めて埃を吸っている。機密漏洩だけは避けたいと、マキャヴィティはすべての窓を閉ざしたが、ギルバートが貴重な地球儀をなげつけたせいで窓枠ごと破ってしまった一角は、もうどうしようもない。
あとで、隊員に見回らせよう。

部屋中に、つんと強い酒の香が漂う。グラスは見当たらない。床のあちこちに散らばって、切っ先を光らせているガラスの欠片の、どれかに紛れているだろうか。横倒しになって高そうな酒を零している酒瓶を、マキャヴィティは嫌な思いで数える。10はくだらない。

ソファの、インクつぼが中身をぶちまけて汚している部分を避けて、ギルバートを座らせようとすると、彼は大きく右肩を回し、マキャヴィティの顔を殴るようにして振り払った。
頬に痛みを感じながら、マキャヴィティは努めて声を低める。

「隊長、いつかは隊長の正しかったことが証明されます。私たち全員が証人です。隊長は、確かにグロールタイガーを討ち取りました」
「おまえら雑魚に認められて何になる?! 俺が欲しいのは地位だ。権力だ。力だ。おまえらの尊敬なんて、ゴミ捨て場にへばりついた反吐とどう違うっていうんだ」

グロールタイガーを討ち取ったと、意気揚々と宮殿へ報告に上がったギルバートを待ち受けていたのは、詰問と嘲笑と、そして愛する人の裏切りだった。
おそらく、偽者の『グロールタイガー』はすぐ捕まるだろう。けれど、その時グロールタイガーを破った栄誉を得るのは、もはやギルバートではない。それは、あるいは艶然と微笑むグリドルボーンを従えたあの将校、軍艦になど乗った事もない現在の、海軍提督であるのかも知れない。

「あんたは、望みすぎだ」
「マキャヴィティ、お前、誰に向かって口を利いてるんだ」
「俺に敬語を使うなと命令したのは、あんたじゃないか」
「今まで一度も従わなかったくせに、俺が落ち目になったらそうするのか? お前も、グリドルボーンのように俺を裏切るのか」
「落ち目になんかなってない。あんたはあいかわらず恵まれてる。それを、あんただけは気付いてない。グリドルボーンだって、あんたが先に彼女を裏切らなかったら、きっと今もここにいてあんたと喧嘩してたはずだった」

初めて、心から彼に話す。彼は、獣じみた目を隠すことなく顔を上げた。

「黙れ。お前に何がわかるんだ」
「あんたは、満足すべきだ。
新設の海軍なんて建前で、実質は海賊対策に緊急にでっちあげられたよせあつめだ。軍部のだれも、「海軍」なんて認めてない。船のあつかいに慣れた平民を、形式上軍よばわりしてるだけだ。
だけど、そのわりにあんたはよくやってる。中央から切り離されたこんな場末の、貧民街ぎりぎりの場所で、教育も訓練も受けたことないやつらをまとめて、ちゃんと取り仕切ってるじゃないか。
あんたがいるから、ここの治安は並外れていい。スラム中の女が、あんたに感謝してるよ。それを、認められないか? あんたはよくやってる」

マキャヴィティが一言一言語るたびに、ギルバートの頭が沈んでいく。すっかりうなだれてしまったギルバートの肩へ手を乗せて、マキャヴィティはもう一度彼をソファへと促した。

「隊長、座ってください。顔に怪我してます。手当てしますから」

跳ね返ったガラスの欠片に傷つけられたのだろうか。ギルバートの右目の下に、深い傷がぱっくり開いていた。酒のせいで出血が酷い。この傷は、おそらく消えないだろう。
濡れたように真っ黒いギルバートの眼球を初めて正面から覗き込み、そこには異変がないことを跪いて確認してから、マキャヴィティは救急箱を取りにいこうと立ち上がった。

ギルバートも釣られたように立ち上がる。

「おとなしくしててください。すぐ」

首筋にギルバートの腕が巻きついて、ソファーに引き倒される。インクの濡れた感触が、嫌な具合に掌にかすった。
軍服に、落ちない染みがついただろう。
マキャヴィティの心臓はひやりと竦みあがった。

ギルバートの手が、震えながら首を締め上げる。マキャヴィティの足は、自分の上に乗りかかった上司を蹴り飛ばしたくて痙攣した。冗談か、それとも本気か。
緊張で、呼吸が浅くなる。

「ふざけるな…満足しろ、だと? 諦めろっていうのか。何様のつもりだ、お前。俺は全部手に入れる。誰にも邪魔させない」

ギルバートの顎を伝って、ぽつんと赤いものがマキャヴィティの額に落ちて、皮膚を擽りながら髪の中へ流れていった。真紅。

「やめてください。隊長…。やめろ、ギルバート」

首にかかった指の力は、からかうように弱い。けれど、ギルバートの目の中にはひとかけらの正気も見えなかった。

「俺のものだ。全部。全部!
手柄も軍隊も、提督の座もグリドルボーンも、グロールタイガーもお前らみんな!」

震えていた指に、徐々に力が篭もっていく。憎しみに似た瞳が、上からマキャヴィティを見下ろした。
舌が押し出されて口からはみ出るほど、首を絞められる。

「女も、男も、全部俺のもんだ。お前だって」
「ギ……、…」
まさか、彼は酔っているのか?
「俺のものだ」

ふいに頸にかかった手が外れた。息を吸い込むと、霞がかっていた視界がクリアになる。それはあまりに鮮やかな光で、稲妻が目前でまたたいたようだった。
肺が破れるほど吸い込む。それもやはり苦しくて、急な吐息は胃の中身が零れそうなほど深い咳となり口をついて出た。
マキャヴィティは、激しく咳き込みながらはじめてこの上司に感謝していた。命は、助かった。

肩に激痛が走る。ギルバートの髪の、海風に痛んだぱさついた感触が胸元へ落ちてきたと感じる間もなかった。
炎のように燃え上がる痛みに、マキャヴィティは悲鳴を上げた。

「だれか! …来てくれ!!」
喰らう気か?

ギルバートの鋭い犬歯が、万力のような力で肩の肉を挟む。ぎりぎりと食い込む。肩から軍服をはだけ、白い包帯を赤く染めて食い破ろうとする。
――喰われる。

「だれ、か…、誰か…っ」

体から力が抜ける。
声が出なかった。逆らう事ができない。

食い尽くされる。

圧倒的な力。飢え。
こんなふうに餓えることが、自分にはどうしてもできない。
どうして彼は、こんなに求めているのだろう。
幸せなはずなのに。仕事も地位もある。グリドルボーン以外にも、多くの女性が彼を愛してる。
どうして、彼はこんなに闇雲に何かを求めているんだろう。

「隊長…」

まず、ひと一人分の重さがぐったりと腹に寄りかかる。
肩に食い込んでいた強烈な力が、少しずつ弱まっていった。

ギルバートは寝息を立てていた。
彼を起こさないようマキャヴィティがそっと身動きすると、もう一度歯の根の浮くような痛みが肩から首筋に走る。

「痛い、な」

心臓が脈打つごとに、ずきんずきんと鈍い痛みが込みあげる。重い腕を動かしてなんとかギルバートをどけると、古い傷に重なった新しい傷口がひきつれてまた血が流れた。

「まったく…どうしてこういうことになるんだ」

マキャヴィティはひとりごちる。

提督の座をおおっぴらに望むことは、今その位置にいる人間を、蹴落としてみせるということだ。冗談でも、かなりブラックな部類に入る。
本気でそれを望んでいることが明るみになれば、間違いなくギルバートは処分されるだろう。

ギルバートは本気だった。
血筋も家柄も、後ろ盾も金をも持ち合わせていない彼が。

このままでは、ギルバートの言うなりになって彼と一緒に地獄へまっさかさまだ。けれど。

ギルバートに付き従い、宮殿へ伺候したとき気付いた。中央からは、もう自分は「ギルバート側」の人間だとみなされている。今更ギルバートから離れても、遅いかもしれない。

このまま、ギルバートの力を信じて彼に仕えるか。それとも、彼を裏切って命を永らえるか。それが許されるのか。

どちらにせよ、もう無傷で戻る道はない。

彼を裏切って自分も利用され、消されるくらいなら、このまま彼の野望のままにすべてを望む彼の力になろうか。マキャヴィティはため息をつく。

未来が見えればとこれほど望んだことはなかった。

生き残るか。それともゴミくずのように死ぬか。
もし、これからの出来事が手に取るようにわかれば、自分がどうすべきか知ることができたのに。
ひとりの人間の生死など、歴史の流れからみたら取るに足らない些細なことだ。けれど、マキャヴィティは望んだ。

未来を知る力があれば。
そして教えてほしい。どうしたらいいのか。

傷の痛みと流れる血に顔をしかめながら、マキャヴィティはこちらも深く傷ついているギルバートの寝顔を見守った。荒れた室内。航海図。窓の外には壊れた地球儀。空には月。どこを見渡しても、これから進むべき道の手がかりは見つからない。



海から嵐が来たと思った。
立て付けの悪い窓が、突然開け放たれて、切り裂くような冷たい風が吹きつける。

「あんた、どうしてここにいるの」

ランペルティーザはぽかんと聞くしかなかった。

「迎えに来た」

そう言って笑うのは、赤毛の雄猫。赤毛の中に、赤毛にも紛らわせないほど濃い血の匂いが混じる。
この風の匂い。
ずっと、彼の事を思っていた。危険だと知っていた。

「どうして。グロールタイガーは死んだんだよ。私たちは、あんたたちグロールタイガーのクリューをさがして、血眼になってる。
なのにどうして、あんたがその軍のただなかにいるのよ!」
「だから言ったろう。迎えに来たんだってば」

マンゴジェリーは、浅い息の下から呻くように言う。
窓枠にかけた彼の指先まで蒼白で、皮肉な微笑を浮かべる顔は土気色だった。

「仲間とはぐれた。あいつはてだれだから、あいつの尻にくっついていけば生き残れると思ったんだけどさ」
「あんた…」
「だから、戻ってきた。軍は俺たちが逃げると思っているから、かえって自分らの住処は手薄なんじゃないかと思ったけど、当たってただろう。
なあ、お前。俺と来いよ。お前と一緒なら、俺はまだ逃げられる気がする」
「何言ってるの?!」
「俺と来いよ。何度も誘ったけど、これが最期だ。どうする?
俺と来る?」

ランペルティーザの頬を、夜風がなぶっていく。
切り裂くような海風。

未来は誰にもわからない。
だから、今決めるしかない。

彼と一緒に行くか。そして、彼の命を助けることができるのか。
それは誰もわからない。

月が沈み太陽が上り、それを何十回何百回繰り返したら知ることができるだろう。月光を浴びていた海岸の砂が波に攫われ、深海魚の泳ぐ海の底へ攫われるまで。川上の大岩が運ばれるうちに砕かれ、小さな丸い石になるまで。

それがたった数百年だったとしても、人間には到底たどり着けないはるか彼方のことだった。
後世の歴史書は語る。

勇壮で残酷なグロールタイガーという海賊を。
殺伐とした歴史に、いっとき花を添える、美しい毒婦グリドルボーンの名前を。
けれどギルバートという名の提督は、どの書物を紐解いても見つけられない。



『風がすべてを連れて行く』
2008.03.22
劇中劇のリクエストを下さった匿名さま
ありがとうございました!
コメントを、すごく励みにさせていただきました。遅くなりましたが、読んでくださっていたら嬉しいです。

それともうひとつ、お詫びを。
すっかり忘れていたのですが、これを書く前にも劇中劇をモチーフにして一つ書いていました。拍手に置いていた短編なのですが、よろしかったら合わせてご覧ください。
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