まず笑うことをやめた。
腹が減るからだ。
しゃべることもやめた。
喉がかわくから。
必要なことは何だろう。
どうしても、しなくてはならないこと。この世の真理を見定めようと、マンゴジェリーはぎらぎら光る目を、暗闇のなかで開いた。
「だる…」
毛並みはじっとりと冷たい。
夕方から街には霧雨が下りて、幻のようにすべてを濡らしていった。枯れかけた紫陽花さえ、今は瑞々しい。ただでさえ陰気なゴミ捨て場に、枝葉が広く影を落としていた。マンゴジェリーは、地面に近い大ぶりな一枚を掴んで、寝そべったままの顔の上に引き寄せた。紫陽花の上に落ちた雨は、葉の中心に通った茎へ集まって小さな水滴を作る。
舌を伸ばして受け止めようとするマンゴジェリーの、頬へ落ちて虚しくこめかみへ流れていった。
マンゴジェリーは舌打ちしようとして、失敗する。
力が入らなかった。
「あぁーあー」
発した言葉がからっぽの体内に虚しく反響する。みぞおちの皮一枚下に、ひりついた痛みが宿っていた。空腹のあまり、今にも自分が体の中から溶かされてしまいそうだった。
しぶしぶ身体を起こす。仕事をしなければいけないだろうか。
怠惰に慣れた身には、両足で立つ、それでさえ大事だった。
必要なものは何だろう。
まず水だ。これは捨てるほどにある。
どぶ色の水溜りが、町のいたるところに口を開いて夜を見上げているのだから。そのうちの一つを踏みしめて、顔を突っ込み喉を鳴らす。味を感じたくなくて、呼吸を止めて飲み干す。
息が苦しいけれど、飲むことをやめられない。
新鮮な空気を求めてどくんどくんと心臓が脈打ち、こめかみの辺りが熱く痺れる。それなのにからっぽの胃袋がもっともっととマンゴジェリーを駆り立てる。
もっともっと。
欲しい欲しい。
呼吸を求めて胸が暴れる。
水を求めて喉が引き攣る。
鼻が勢いよく泥水を啜りこんだ。
「んはぁぁっ」
水溜りから口を離すとき、小さな水面はぶくぶく煮え立った。マンゴジェリーは、骨と同じくらい細い身体を二つに折りまげて激しい咳を繰り返した。泥の混じった唾は歯の上でしゃりんと軽い音を立てる。味はしない。
マンゴジェリーは、道端に唾を吐き出した。泥は泥に混じる。
どうして自分はこの町にいるのか。
心の隅を、黒と銀の縞模様がよぎっていった気がした。いらないと思って、マンゴジェリーは空を見上げる。何かを見ようと目を凝らすと、美しいネオンが頭上でまたたいているのが一番目に付いた。空の星よりなお明るく輝いている。赤い光はマンゴジェリーの毛並みと濁った水溜りとをその色に染めて、そして何の益もなく灯り続ける。
どうしてここに赤く光る星があるのだろう。
それは猫にはわからないこと。
わかるのは、こういう嫌に明るい場所には、食べ物も集ってくるってことだけだった。
そしてマンゴジェリーは、すごすごと紫陽花の下に戻っていった。
空腹は限界に近いけれど、水で喉を潤すことはできた。
――まだ我慢できる。
どうしても必要なものは何だろう。それは本当にこの世界にあるのだろうか。ごみに混じって、ごみそのものの毛色をしたマンゴジェリーは、泥水だけをからっぽの身体に満たして瞳を閉じた。
マンゴジェリーがふたたび立ち上がったのは、そうしなければ餓死するというほんの数刻前のことだった。
赤く灯るネオン。壁を伝って歩き、どこかに入り込む隙はないかと探せば、見慣れた形の円柱があった。先の太った円柱の蓋を開けられたら、そこにはたっぷりごみが詰まっていそうだ。体当たりしてごみ箱を倒そうとしたけれど、いくつも並ぶ円柱の影に若いニンゲンの雄が、うずくまって口から煙を吐き出しているのを見つけた。
あんなにきつい匂いを気付かないなんて、どうかしている。
ニンゲンのうしろに、細く入り口が開いている。そこから、金属やガラスの鳴る音がかすかに漏れ聞こえる。
マンゴジェリーは、ごみ箱の間を潜り抜け、気配を消してニンゲンの後へ回り込みビルの中へ滑り込んだ。
薄暗い路地とは昼と夜が逆転したようだった。
室内は、ぱあっと明るかった。何人ものニンゲンが忙しく歩き回っている。壁際では鍋が火を噴いて、細かい白いものが空中に躍り上がり、また丸いなべ底へ落ちていった。その隣では、深い容器から雲竜のように水蒸気が湧き上がる。熱気を逃がそうと、廊下へ続く扉は大きく開け放したままだった。
部屋の中央に細長く繋げられたテーブルは、降り積もる油にぬめり光っていた。マンゴジェリーが身を潜める場所から見て、手前にいやらしい葱があり、その向こうににんにく、マッシュルームがうず高く積み上げられている。ここからは見えないけれど、血の匂いがするから机の上には生肉も並べられているはずだ。
部屋の一番奥に、巨大な冷蔵庫があった。ニンゲンのうちの一人が、その中から魚を取り出した。机に投げ出すと、赤い尾が跳ねてびたんと盛大な音がした。
何の魚だろうか。大きい。マンゴジェリーはひさしぶりに食欲がそそられるのを感じた。何百年ぶりだろうか。
膝ががくがく震える。
厨房の光から逃れて、扉の影の中へうずくまった。マンゴジェリーはぜえぜえと喉を喘がせて、苦しい呼吸を繰り返す。
気配を消すことは、呼吸さえ潜めるということだった。それはマンゴジェリーにとって瞬きするほど自然なことだったはず。
けれど今、たった一人のニンゲンをやりすごしただけでマンゴジェリーは疲労に立ち上がれないほどだった。
指先から力が抜けていく。
地面に引きずり込まれそうだ。
何かを食べなければ。
いつまでもここにいたら、誰かに見つかる。マンゴジェリーは、荒い息を静めてもう一度、落ち窪んだ眼窩の底からぎらぎら世界を睨んだ。
光の中に躍り出て、丸いたまねぎを蹴散らしテーブルに飛び乗る。鍋をふりかざして怒鳴る店主を尻目に、テーブルを突き進んで生肉へ駆け寄る。もうひとつテーブルを飛び越えれば。
大きな赤い魚は、深遠な瞳でもってマンゴジェリーを見つめている。思ったとおりに、こんもり脂の乗ったとても美しい姿をしていた。光を透かす彼の鱗に触れるほど近く、包丁を構えたニンゲンが立っている。
マンゴジェリーは顎で肉を2、3枚掬い上げ、うしろも振り返らずに出口へ逃げた。
じっとり湿ったアスファルトに腰を降ろし、紫陽花の陰に隠れながらマンゴジェリーは悩んでいた。目の前には血のしたたりそうな赤い肉がある。
肉。食べ物。
身体はだるいし、栄養不良で手足は震えるし、目は霞んでよく視えない。
けれど、マンゴジェリーにはどうしてもわからない。納得できない。
どうして、これを食べなきゃいけないんだ?
「…っ!」
恐怖のあまりに叫ぶ。
絶望がけたたましい音となって込み上げる。
マンゴジェリーは目の前の肉にがっついて、噛むのもそこそこに悲鳴ごと飲みくだした。腹に詰め込めるだけ詰め込む。
味なんてわからない。
鼻がばかになってるのに、味を感じるわけがない。
けれど食べなければ。
食べることは生きること。
「なぜ」なんて、どうして思ったのだろうか。なぜこれを食べるのか、わからないなんて。
「もう二度と、欲しいもの以外は盗まない」
情けなくがたがた震えながら、マンゴジェリーは誓う。怖くて怖くて、喉がぴくぴく痙攣する。
「もう二度と、とびきり旨いもの以外は食べない。たとえ餓えて死のうと」
そうしなければわからなくなる。
どうして食べるのだろう。どうしてここにいるのだろう。
どうして…
あれほど見たかった真理も、もうどうでもいい。
欲しいものなど何もない。けれどすべての欲望を手放したら、何かに飲み込まれる。それが何だかわからない。わかりたくもない。
静かに広がって、背中のすぐそこまで迫る闇を見まいと、がむしゃらに目の前にあるものを貪り続けた。
『空っぽ』